HOME         NEXT(二日目)

中山道69次を歩く第19回)望月宿~和田宿①009年6月9~10日
(歩程 36,000歩 約21.5km)

 『一日目』
 朝7時半新宿発。
前回終了地点の
「望月歴史資料館」前に(10:40)着。
身支度を整えたりトイレを借りたりして小休止後歩き始める。参加者は25人(男性:8人,女性:17人)。

 昨年11月,碓氷峠越え以来の私の本来のグループで,知った顔の面々と久しぶりに再会し楽しい歩きとなった。
今日は
望月宿茂田井間の宿(もたいあいのしゅく)~芦田宿を経て笠取峠頂上までおよそ10kmの街道歩きとなる。東日本も明日には梅雨入りかとの予報が出ているが天気は何とかもちそうである。
  
 望月宿 もちづきしゅく
 江戸から45里14間,25番目の宿。往還通りの長さ27町7間,町並みは南北へ6町余。

 江戸時代には本陣・脇本陣・問屋のほか29軒が軒を並べていた。明和2年(1765)の大火後に建てられた建物が多く残り,出桁や格子,うだつが宿場の雰囲気を静かに物語る趣きある町並みとなっている。

 蓼科山の裾野は,平安時代初期から御牧原を中心とした勅旨牧(御料牧場)として栄え古くから馬の名産地として知られている。毎年旧暦8月15日の満月の日(もちのひ)に朝廷に馬を献上していたことから「望月」の名がついたといわれている。

 人口:360人(男:189人 女:171人),家数:82軒,,本陣:1,脇本陣:1旅籠:9軒
 
大森本陣
脇本陣
 
「歴史民俗資料館」の隣に”御本陣”と掲げられた家(左)がある。
 慶長7年(1602)中山道の宿駅設定に功績のあった大森久左衛門が名主・問屋を兼ねて勤めた「大森本陣跡」である。建坪180坪,門構え玄関付きの建物であったという。

 向かい側に「脇本陣跡」
鷹野家が勤めた。建坪99坪の平入り切妻造りの建物,木鼻彫刻が施されている。改築されているが上段の間などは原型を維持しているという。

 その先にも木鼻彫刻の建物がある。
望月宿最古の旅籠である「真山(さなやま)家住宅」(屋号は大和屋)である。
問屋と旅籠を兼ね幕末には名主を勤めた。明和2年の大火災で焼失したが翌年には再建され現在に至っている。平入り切妻造り,吹き抜けの土間(土庇),囲炉裏の間。2階は出桁造り。昭和48年(1973)国指定重文,昭和52年解体修理されている。
 中に入る(見学料100円予約必要)と家主真山のぶ子老婆が矍鑠として”録音テープ”を使って案内してくれた。旅籠としての真山家は飯田商人衆・高遠石工衆などの常宿となっていたという。

 
望月山城光院
鹿曲川と左手望月城跡
左手の集落辺りに,寛保2年(1742)の大洪水以前の宿場があった。
 
 真山家の少し先を右折して,いったん街道筋を離れて鹿曲(かくま)川を渡って山裾にある寺に向かう。途中に望月氏の居城であった「望月城」(山城でいまは何も残っていない)への散策路が分かれる。左手正面に
 「望月山城光院」
望月城西麓にあって望月氏代々の菩提寺である。
文明7年(1475)望月城主望月遠江守光恒が開基した曹洞宗の名刹。
 本堂は享和期(江戸後期)の建築。本堂裏に室町末期永正年間(1504~1520)の望月氏の宝筐印塔2基がある。境内に佇む有形文化財「十王像」や延宝8年(徳川初期)の銘がある「庚申塔」等に年月を感じる。

 望月氏は,清和源氏の流れを汲む滋野氏あるいは渡来人と言われる大伴氏の分派が牧場の管理のため信濃に派遣されたその末裔とも言われている,古代よりこの地に勢力を張った豪族である。
 木曾義仲に組し頼朝政権下では苦渋を味わうがいつのまにか北条氏に取り入るなどその後の足利時代,武田,北条と巧みに戦乱の時代を生き延びてきたが,天正10年徳川家康軍に滅ぼされ18代600年にわたる歴史を閉じた。日本各地の「望月姓」はすべてここが発祥だといわれている。

 街道筋に戻り100m程進んだ左手に急な石段が見える。(ここが望月宿の上方のはずれ)。
一気に登ったところ(石段は全部で58段)が,「大伴神社」である。
 本殿は延宝5年(1677)の建築。朝廷直轄の牧場を維持・管理する牧監としてこの地に土着して一大豪族となった大伴氏(望月氏の祖といわれている)を祀る神社とされている。毎年8月15日行われる火祭り「榊祀り」は勇壮な火祭りの一つとして有名,
 
 「御桐谷(OTOYA)」という珍しい地名の交差点を過ぎ,しばらく舗装されたダラダラ上り坂を進む。10分ほどで国道142号バイパスの高架下を通過し左手に小学校をやり過ごした先右手に「御巡検道標」がある。
 巡検使とは,新しい将軍の就任に合わせて,諸国の民政や風俗を視察するために派遣される旗本たちで,国々巡見と国々御料所巡見に分かれていた。前者は天領以外の諸国を視察に出かけ,後者は天領つまり幕府直轄領地を廻ってくる役目を担っていたという。ここも巡検使が歩いた道なのだろう。

 更に20分ほどで峠を越える。
国道142号と右手に分岐する分かれ道際に
「中山道茂田井入口」という説明板がある。ここからゆるい下り坂を進むと江戸時代がそのまま残っている「茂田井間の宿」に入っていく。

茂田井間の宿 もたいあいのしゅく
 江戸から45里26町14間,往還通りの長さ21町2間の宿場。

 望月宿・芦田宿で対応できない大通行の際に両宿の加宿として使われたので「間の宿」と呼ばれ規模はあまり大きくない。しかし茂田井地方は望月・芦田宿より大きな村で良質米の産地として知られ小諸藩主や家臣らは茂田井産の米のみを江戸まで輸送させたほどとか,また良質米の産地にふさわしく造り酒屋が2軒ある。

 歌人若山牧水は望月に知人が多くしばしばこの地にも足を運んだという。宿の中程にある「武重酒造」の正面に牧水の歌碑が立てられている。

 望月宿が,寛保2年の大洪水で,望月新町が道ごと流されたり,本町も大きな被害を受けた際,茂田井村を望月宿の加宿にしようと幕府に願い出たが,却下されたという経緯があるが,茂田井は,その後も望月・芦田両宿で収容できない場合は引き受けてきたという。
 元治元年(1864)の水戸天狗党が中山道を通行した時,追ってきた小諸藩兵士400人余の本陣となったり,文久元年(1861),和宮降嫁の際には12軒が弁当宿となったこともあるという。大きな屋敷群の存在が納得できる。

 江戸時代が,そのまま凍結したようなし~んと静まり返った町並み,千本格子窓のある家・白壁の土蔵・重厚な瓦屋根が残る心和む景観。「たそがれ清兵衛」のロケに山田洋次監督が選ん町並みである。さすが慧眼!
大沢酒造
 
 12時少し前「中山道茂田井宿入口」案内板前を通過。車1台しか通れないほどの道を下っていくと右手に白壁の大きな建物,明治元年(1868)創業の「武重酒造」である。
 30棟もあるという建物は国登録有形文化財だという。向い側に酒と旅をこよなく愛したという若山牧水の歌碑が立てられている。「白珠の 歯にしみとほる 秋の夜の酒は静かに 飲むべかりけり 」 のほか二首が刻まれている。

(12:15)
 緩い登りを100mほど歩んだ右手,”杉玉”に誘われてくぐった門内がもう一軒の造り酒屋「大沢酒造」
 元禄2年(1689)創業,300年を越す屋敷3000坪の老舗蔵元である。酒蔵(さかぐら)は元禄年間(1688~1704)の建築とのことである 酒蔵を改造した「しなの山林美術館」を見学した後,”銘酒の試飲”まだまだ午後もきつい歩きを控えているので,ほんのおちょこ一杯だけにしておく。「純米酒信濃のかたりべ」(720ml)と「茂田井宿の酒」(900ml)を購い,愉しみは帰宅してからとする。

 
大沢酒造の塀のはずれに「高札場跡」の表示板があり,大沢家は元文2年(1737)から明治4年(1872)まで茂田井村の名主を勤めたとある。
 
 宿の町並みからいったん右に折れて観光客用に造られた駐車場に向かい,佐久インター近くの「おぎのや」で仕入れたお弁当で昼食休憩。

 
(13:10) 午後の歩きスタート。
 街道筋に戻るが,ちょっと寄り道。
街道を突っ切って,並行する国道142号に出て右折し
<茂田井中央>というバス停の先,廃校跡?の隣にあるのが,

  「諏訪社」
 

 諏訪社は諏訪神社の分社であるが,創建年は不明。
現在の社殿は,江戸時代末期の文化15年(1818)に茂田井の宮大工・田中圓蔵が建てたもので周囲が全部見事な彫刻で飾られている。圓蔵は当時宮大工としてどっしりと重厚な建築と精緻な彫刻で天下に名声のあった初代立川和四郎の弟子となった人で現在立科町にある圓蔵の作と伝えられるものに,本日の最後に訪れた津金寺の仁王門と妙見堂(二代和四郎と共作)・古町光徳寺山門等がある。

 街道に戻り,再び静かな雰囲気の宿場の町並みをじっくり味わいながら西進。
皆をやり過ごして宿場風景をカメラにおさめている内に列から100mほども遅れてしまった。街道は
「石原坂」というちょっと急な坂にかかる,懸命にストライドを延ばして一行に追いついたところが頂上部分。左側奥に

 
「茂田井一里塚跡」
の説明板がある。「天保年間(1830~1843)の差出帳に,当時この両側に土塚があり,榎の根元が残っていた」とある。いまは,小さな祠が建つのみ。江戸より46番目。


 「茂田井間の宿」
を抜けて,のどかな畑の中の一本道をしばらく進む左手からの国道142号と合流する(塩名田まで10.9km,笠取峠まで4.4kmとの表示あり)。更に5・600m進んで”芦田川”を渡りさらに500mほどで<仲居>交差点に到る。
 
「芦田宿」はこの辺りから始まる。交差点角に現在の常夜燈が設置されている。
 芦田宿 あしだしゅく
 江戸へ46里8町14間,長久保へ1里16町,宿内町並み6町22間。

 芦田宿は,江戸と京都を結ぶ中山道69次の26番目にある宿場町で立科町の中心部にあり,江戸幕府による街道整備事業(慶長6年)よりも早い慶長2年(1597)に設置され,北佐久周辺では最も古いといわれている。昔は”あした”と清音で呼ぶことが多かったという。

 文安2年(1445)依田又四郎光徳が築いた山城芦田城址がある。

 人口326人(男:177人 女:149人) 家数:80軒 本陣:1
脇本陣:1  旅籠:6。
 本陣以外何も残っていない,現在の町役場の建物のみが突出して豪勢なのが目に焼き付く。
土屋本陣
山浦脇本陣
 
「本陣跡」「脇本陣跡」

 芦田中央>信号の先,右手に「本陣」,向かい側に「脇本陣跡」

「本陣」土屋家は問屋を兼ね,芦田宿の開祖でもあった。現存する土屋家住宅の本陣御殿・客室は寛政12年(1800)に再建されたもので切妻造りで,屋根の前後にシャチホコを掲げた豪壮な建物である。イチイの木を使った京風上段の間,広間,小姓部屋・湯殿・雪隠などの原型がほぼ完全に残されている。大名の宿泊を伝える「宿札」なども残されている。

 「脇本陣」山浦栄次右衛門家で,建坪116坪,門構え,玄関付きの建物で本陣に準じて造られた立派なものだったというが昭和52年類焼した。現在は藤屋商店の看板がかかる。

 「庄屋」「牛宿」などもあり,なかでも旧旅籠「つちや」は,金丸土屋旅館として健在。

 家並みが途切れた先の<芦田>信号で旧中山道と国道142号と国道142号(バイパス)と県道254号が複雑に交差している。芦田宿はここまで。右手先方の車両通行止めの道に進むと石畳道に整備された松並木に入る。


笠取峠の松並木
 
「笠取峠の松並木」「笠取峠一里塚」

 天然記念物「笠取峠の松並木」は,慶長7年(1602)徳川幕府が小諸藩に赤松753本を下付し,芦田宿はずれから頂上まで約2km間に風除け・日除けのため植えさせたもの。
 400余年後の平成20年現在の総本数73本,いずれも樹齢150~300年以上経たもので,往時の中山道の景観をなんとか偲ばせてくれる。遊歩道として整備され国道沿いにおよそ1kmにわたって保存されている。

 
松並木が途切れるとトラックの往来が頻繁な国道142号を笠取峠頂上へとひたすら歩く。緩い登りではあるが,だらだら坂はかえってこたえる。あと2kmくらいという声に励まされ(15:40) 峠頂部着。

峠の手前200mほどの車道反対側に「笠取峠一里塚」碑(江戸より47里目)がひっそりと佇む。見通しの悪い箇所なので車道を横断するのは危険と判断し遠望しただけ。

 「笠取峠」は標高は876m。芦田宿と長久保宿の間にあり,旅人が上り坂で暑さと疲れのあまり,皆いつの間にか笠を取っていることから笠取峠と呼ばれるようになったと言われる。>
 
津金寺仁王門
 
 行程が前後するが,笠取峠の松並木道は途中で現国道を斜めに横断する箇所がありそこで待機していたバスで,いったん芦田宿方向へ引き返す。<山部>交差点を左折してすぐ左手,芦田宿の北西300m程の所にある津金寺を見学した後,再び松並木中間点から峠を目指した。

「津金寺(つがねじ)」

 大宝2年(702)大和薬師寺の僧行基により開かれた。のちに伝教大師最澄により学僧育成の寺として天台談義所(学問所)が設けられた。
 境内には江戸中期の観音堂,立川流宮大工上原市蔵(上諏訪)・田中円蔵(茂田井)の再建(文化10年(1813)になる仁王門・妙見堂,裏山中腹には奈良・平安の頃から信濃に繁栄した滋野氏の供養塔である宝塔3基(鎌倉時代初期)がある。

 平安・鎌倉・室町時代を通して望月の牧の牧監であった滋野一族を始め望月・海野一族の外護を受け戦国時代には武田信玄の尊崇を受けた(現在の寺の紋は武田菱)が,天正10年(1582)織田信長軍の兵火に見舞われ全山ことごとく灰燼に帰した。江戸時代に入り小諸藩の祈願寺となり諸堂が順次復興再建されていったという。

 境内18000坪は県環境保全地域に指定され推定樹齢900年の大杉(学問杉とも呼ぶ)を始め早春のカタクリ,初秋の白萩,晩秋の紅葉,冬の雪景色など四季折々の趣を楽しめることが出来るという。いつか個人で再訪して見たいところである。
 
 (15:40) 笠取峠到着。

 待機していたバスで国道152号(大門街道)を南下して蓼科白樺湖畔の池の平ホテルに向かう。


温泉(源泉温度26.5℃の単純泉)にゆっくり浸かる。
明日はまた笠取峠から和田宿を目指す。

HOME     このPAGEtopへ    NEXT(二日目)
inserted by FC2 system