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中山道69次を歩く(第16回ー1)松井田宿~坂本宿  008年12月2日
(歩程 23,000歩 約14km)

 新宿を7時半にバスで出発し松井田に向かう。
 (09:40) 松井田仲町信号の少し横川寄りの駐車場着。総勢21人(女性が15人,男性7人)

 準備体操をして直ぐに出発。
前回,日没時間切れで薄暗闇のなかを,ただ歩いただけと言ってよい「松本本陣」,「脇本陣」,「不動寺」,「八幡神社」を今度はゆっくり・じっくり見てから前回の終点である
「上の木戸」が在ったとされる歩道橋地点から横川~坂本へ向けてスタート。

 西松井田駅への信号の先,右に
「補陀寺」

 『補陀(ふだ)寺』(安中市松井田新堀186)


曹洞宗。石段の奥に単層四脚柱の山門があり,関東一の道場という意味の「関左法窟」という額が山門にかかっている。境内には松井田城主だった大導寺政繁の墓がある。往時の寺域6000㎡。
松井田城が在った所。
応永年間(1394~1428)に無極慧徹禅師(むきょくけいてつ)が開山した。安中氏,武田氏が帰依したのち天正10年(1582)松井田城へ入城した北条氏政の家臣大導寺政繁の菩提寺となる。
 天正18年(1588),小田原敗北により落城降伏。
政繁は,その後豊臣方の先鋒として関東各地を転戦。元同輩の城を攻めるなど散々利用された挙句,信用できぬ人物として切腹させられる。
 松井田城を攻めた加賀前田氏の行列が通るたびに,大導寺政繁のお墓が悔しの涙を流すと伝えられているという。その無念推して知るべしである。
松井田警察署を右手に過ごし,およそ500m程先で国道18号に合流する地点の山側に

 『金剛寺』(安中市松井田新堀1058)
 
 天台宗。碓氷貞光の開基(長元年中(1036))。
 国道ぎわから伽藍を遠望しただけだが,入り口に朱色の山門が見え,落ち着いた静かな佇まいである。
平安のころ,霧積山に橘貞兼と妻の賓頭廬姫が隠棲し,平穏な生活をすごしていた。その子 貞光は,渡辺綱に推挙され,源頼光四天王の一人として大江山酒呑童子退治など勇名を馳せて故郷に錦を飾った。 そして碓氷峠で村民や往来の人を悩ませた毒蛇と対決し,十一面観世音の加護で大鎌をふりまわし大蛇を滅すことができた。 この大鎌を祀ったのが「鎌の明神」,観世音出現の霊地を「大法師の宮」,貞光が飛び越えたところが「刎石峠(はねいしとおげ)」と名づけられという。
 開山堂にある寄木造りの栄朝禅師木彫坐像(総高108cm,座高70.6cm)は鎌倉期のもので県重要文化財。



 松井田警察署前まで戻り右斜め逆方向の道(こちらが中山道)へ。
この辺りに「一里塚」 案内板には,明治22年まで中山道を挟んで南側と北側に江戸から32里目の一里塚があった。この立て札の南方およそ10mに南側の一里塚がその痕跡を留めていると書いてある。

上信越自動車道下を行く旧中仙道
 更に直進し,左手信越線「製糸踏切」を渡りすぐ右折し少し先の民家(松井田新堀792)がある辺りで,碓氷川の崖上に出て中山道は分断されている,足元の崖斜面に石塔らしきものがあり,ここを旧中山道が通っていたことは確からしい。

 先ほどの踏み切りに戻り,松井田警察署前からの道を信越線線路に沿って西進,その先の
「第10中山道踏切」を渡り,左折し先刻消えうせた中山道があったという道筋を確認した後,左折した地点に戻りそのまま西進,およそ600mほどで,国道18号に出る。

 街道は国道を斜めに横断し上信越自動車道高架下をくぐって先に延びている。この辺り「中山道」の案内板がこまめに掲げられていて分かり易い。
 下仁田・妙義方面へ向かう県道51号との交差点(五料)で国道の右側に渡り中山道を西へ。
 少し行くと,右に「安中藩板倉伊豫髪領分五料村高札場跡」標識と説明板,さらにその先右奥に信越線踏切を渡った突き当たりに
「五料茶屋本陣」

 『五料茶屋本陣』(安中市松井田町五料564-1)

 江戸時代に参勤交代などで中山道を通行する大名や公家などが休息したところで本陣のような宿泊用施設ではなく,休憩や昼食あるいは関所の時間待ちなどに利用された。

 茶屋本陣は二軒あり両家とも中島姓なので「お西」「お東」と呼んでいた。両家の先祖は天文年中(1540頃)諏訪但馬守が松井田西城を構えた時の家臣中島伊豆直謙と伝えられている。天保7年(1836)から明治5年(1872)まで1年交代で名主役を務めていた。

 両本陣とも部屋数は少なく,上座と呼ばれる書院造りの上段の間・下の間・式台・通りなどを備えている。また家族の生活の場としての勝手・茶の間・中の間・納戸などもあり,茶の間に続く広い座敷は名主役宅として村役所の機能を果たしていた。
 現在の建物は両家とも文化3年(1806)の大火で焼失し,同年中に再建されたものである。間口13間,奥行7間の切り妻造り,白壁がよく映えた屋敷構えで使用材は松と杉が主で大黒柱などには欅を使用している。
 東西に土蔵を配し鼓山を眺める南面の借景庭園はすばらしい,裏庭は大名などが散策したほどの小高い庭があったというが,近接して建設された上信越自動車道用地が迫り往時の景観は損なわれてしまったのが残念!。
 古文書などもよく保存されており,建物とともに江戸時代の農村,街道交通などを知ることが出来る貴重な史蹟である。 団体入場料(20人以上) 150円/1人で説明ガイドが詳しく案内してくれる。

総2階 切妻造り,白壁の美しい「お西」 長持ちさせる為に梁に無理な力がかからない様に工夫した江戸時代の匠の技                     
 踏切まで戻り,待っていたバスで横川駅前「荻野屋」に移動して昼食。

 昼食後再び
「五料茶屋本陣」前に戻りウォーキング開始。
400mほど進んだ国道との再合流地点の手前で,
「榎踏切」を渡り信越線の北側を線路から一旦離れるように坂道(丸山坂)を登る。
 ここから
梨の木地区,途中に「伝説の茶釜石」(小石で叩くと高音で澄んだ音が響く。四国の讃岐石みたいなもの)「夜鳴き地蔵」(馬子がこの坂道を通った時,幾ら直しても荷崩れするので傍らのお地蔵さんを借りて本庄まで行き,地蔵をそこに置き去りにしたしまったところ,毎夜,地蔵が「五料恋しや」と云ったとか・・・・)

 道端に道祖神,馬頭観音,庚申塔,二十二夜塔,握手像などが頻出する。この地域の馬頭観音は一顔立像・裾が跳ね上がっている
高遠の石工の特徴があるという。

 道は下り,そしてまた上り,左方へJR線路まで下って線路沿いを行き,左手の
「御所平踏切」をやり過ごし直進。右手に「碓氷神社」

 『碓氷神社』(安中市松井田町五料2131)

 創立年代不詳。碓氷峠の熊野神社の分霊で,慶安年間(1648~52)に社殿を改築し碓氷神社と呼ぶようになった。
明治42年(1909)に中木の菅原神社,小竹の波古曽神社,平の諏訪神社,横川の八幡宮、その他五料の諸社を合祀し現在に至る。
 建久年間(1190-99)には源頼朝の信州浅間の牧狩りの際,当社に祈願し境内に御所を置いたため,以来この地を「御所平」と呼ぶようになったという。

  少し先の踏切でJR線の南側へ,更に国道18号を横断して「御所平」 地区に入る。T字路を左へ少し東方へ戻ると,左方に「碓氷神社」の参道が真っ直ぐ鳥居へと向かっている。ただし中間が国道と信越線線路で断ち切られている。この辺りの旧中山道は,あちこちで鉄道線路と国道によって寸断されている。 

 「碓氷小学校」脇を通り再び西進。御所平地区に残る旧道は短く,400mほどで国道18号線に合流する。
国道の歩行者用側道で
「中木川鉄橋」を渡り,小山沢信号を左斜めに進む。短く残るこの旧道の出口付近右手に欅の大木,脇に「百合若大臣の足跡石」
 百合若大臣が足で踏みつぶしたのでへこんだといわれる石。百合若は伝説上の人物で平安初期四条左大臣公光の子といい,北九州に多くの話が伝わっている。)

 道は再び国道と合流し左手へ進む。間もなく
<下横川の信号>,JR踏切を渡って線路の北側へ。横川地区への入り口である。県道222号線(横川停車場線)を線路に沿って進む。およそ1.2kmで横川駅前へ,ここで15分間のトイレ休憩後,再スタートし駅前のT字路を左折し直ぐ右手にあるのが,

 『横川の茶屋本陣跡』

 往時,ここで休んだ大名達は関所通過の為に服装を正したり,あるいは通常の旅支度に着替えたりしたという。古くから「矢沢の家」と呼ばれ現在もその名で通っている。本陣は武井家が勤め,代々横川の名主役で,幕末の頃は坂本宿の助郷総代も兼ねた。今も民家として使用されている。

 棟は居宅と同一であるが居宅部分は2階があり,本陣は2階を作らず天井を高くしてある。居宅と本陣の境は三尺の畳廊下で区切られ襖が奥まで通じている。本陣は控えの間が二間,その奥に上段の間がある。碓氷関所に極めて近い茶屋本陣であることが珍しい。

 300mほど先右手に

  『碓氷関所跡』 
 江戸時代、東海道の箱根関所と並び、幕府の関東防衛の拠点とされたのが碓井関所。
関所の起こりは,坂東に出没する群盗を取り締まる為に醍醐天皇昌泰2年(899)に碓氷坂に関所が設けられた。
江戸時代になって,上野国の重要性から慶長19年(1614)に,関長原(現関所より半里北)に仮番所がおかれ,更に元和9年(1623)にこの地に関所が移され,徳川幕藩体制の確立と安定という政治的意味を持つようになる。いわゆる「入り鉄砲に出女」の取締りを狙いとするものになり,番頭2名以下10数人の役人が守護に当たり,明治2年,廃関されるまで中山道の要所であった。

 現存する東門は,全国でただ一つ当時の門柱や門扉を使って復元された貴重な関所の門である。当時はこの東門(東門と西門との門,関所の中は52間2尺およそ95m)は旧道の真ん中に建てられていた。東門は安中藩が管理し、西門は幕府管理だったという。
 1869年(明治2)関所が取り壊され、門が燃やされている最中、代々、手形の受付などの実務を担っていた元役人が、「天下有名な碓井関所を焼いて灰とすることは忍びがたい」と処罰を恐れず、門柱、門扉などをひそかに持ち出し民家の蔵などに隠したという。二本の門柱の上部には黒く焼け焦げた跡が残る。総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固なもの,ほかに屋根材6点と台石も当時のものを使用して昭和34年1月に復元された。現在建っている位置は番所跡にあたる。
碓氷関所東門 碓氷線建設工事鎮魂碑

 碓氷峠アプト式鉄道(距離11.2km,26のトンネル,18の橋梁,高低差553m9)の建設で犠牲となった多くの人々に対する鎮魂碑に参った後,右手の坂を下り廃線となった旧信越線を渡り国道に出て,
霧積川川久保橋で渡り正面右側の薬師坂と呼ばれている細い坂道を登る。
 この坂に,碓氷峠を間近に控え難渋する旅人達の無事通過を祈る
薬師堂が建てられ心太(ところてん)を商う茶店もでき,以来薬師坂とも心太坂とも呼ばれるようになった。

 薬師坂を上りきると,左に大きく迂回して来た国道と合流,一直線に坂本宿に伸びる道の左歩道を進む。上信越自動車道高架下をくぐって左手に大きな「坂本宿」という標識,ここが下の木戸(東木戸)である。 
下の木戸があった場所に建つ坂本宿標識
『坂本宿』
人口732人(男:376 女:356人) 家数:162軒 本陣:2 脇本陣:2 旅籠:40

 徳川家光の時代,参勤交代に伴い碓氷峠の登り口に宿場が必要となった。寛永2年(1625)に付近の住民を移住させ宿場造りが行われた。わが国初めての都市計画事業であるともいえる。東西に幅員14.85m・延長713mの道路を造成し中央に幅4尺の用水路を設置した。橋は17箇所,家々の間口は本陣・脇本陣・問屋場以外は,7間か3間半とされ奥行きは8間から15間という鰻の寝床状。家の後方には,間口に応じ2反歩から4反歩の竹林(防風や裏手からの不審者出入りを防ぐ目的)が与えられた。家は平入り出梁の2階建てとされ,斜交(はすかい)に建てられた峠側の4軒を除き総て街道に平行して建てられた。

 宿場の中程に「坂本宿屋号一覧図」が掲げられている。文久元年(1861)和宮降嫁時の資料により作成されたものだという。道幅が広く真っ直ぐな街道沿いに往時の屋号(俵屋・柏屋・港屋・藤屋・ひげた屋・なか屋・・・・)がかかっている。

 下の木戸からしばらく行くと左手に少し引っ込んで「金井本陣(下の本陣)」(本陣跡に碑が建てられている)続いて「佐藤本陣(上の本陣)」(個人の住居になっているが、宿場の風情を良く残している),その前に「坂本小学校発祥の地」の石柱が建っている。
街道の右側に渡り,「永楽屋脇本陣」「永井脇本陣」,「酒屋脇本陣」が並ぶ。前二者の建物はすっかり建て替えられている。今も姿を残す永井家は個人宅、酒屋脇本陣跡は公民館になっていた。 
 
 続いて連子格子の美しい坂本宿の面影を残す代表的建物の「かぎや」,若山牧水が明治41年の夏,軽井沢から碓氷峠を越えてきた際,ただ一軒残っていた旅籠だったという「つたや」,小林一茶の定宿「たかさごや」が並ぶ。

小竹屋(武井さんという民家)明治7年開校した坂元小学校発祥の地標識あり かぎや
連子窓と軒下の庵看板が往時の旅籠の雰囲気を留めている。先祖が高崎藩納戸役鍵番を務めていたことから屋号をかぎやにしたという。

 少し歩くと「上の木戸」
すぐ先に「芭蕉句碑」
(ひとつ脱て うしろにおひぬ 衣かえ),碓氷峠の刎石坂にあったのを明治の廃道時にここに移転したもの。
 その先に「八幡神社」がある。赤い鳥居の右手にある道祖神,おおらかな表情をした握手像が印象的である。

 坂本宿を抜けて,右へカーブする旧国道18号へは行かず,真っ直ぐ山道に入り水道タンクの左側を通過して旧信越線1号隧道西坑口を瞥見して国道へ出る(16:10)。ここが「C9」(旧国道は名にし負う急カーブが連続する道である。坂本から順に峠までC1~C184まで番号がふってある),碓氷峠越えの入り口である。

 今日はここまで!
碓氷線第1トンネル 碓氷第3橋梁
明治25.12竣工,レンガ造りアーチ橋,
4径間,長さ87.7m

 国道を少し戻り,碓氷峠名物”力餅”で有名な「玉屋」の駐車場で待機していたバスに乗車。通称「めがね橋」と呼ばれている
「碓氷第三橋梁」を見学して今夜の宿泊地群馬県吾妻郡嬬恋村大前へ向かう。
 ホテル名に”軽井沢”という名が入っているので大方の人は長野県の軽井沢近辺に宿泊するものと思っていたようだが,実は高原キャベツで有名な嬬恋村まで,”浅間山鬼押出し”を越えて車で1時間半もかかる場所である。西武系の会社が人心をあざむいて,北軽井沢という名称をつくりあげて造った一大リゾート地の一角にある。鬼押し出し付近には,3日前に降った雪がまだ残っていて,路面は凍結しているようだ。下りにかかり,運転しながらのおしゃべりが好きなドライバー氏もエンジンブレーキを使って慎重な運転を始めた。わたしは安全の為シートベルトをそっと締める。ホテルが目前となった場所で,突然バスがスリップ。慌ててブレーキを踏んだ後続の乗用車が90°横向きになるなどのハプニングがあったが,18:20無事ホテル着。
 夕食後,筋が痛みはじめた太腿を温泉でじっくり揉み解して明日の峠越えにそなえる。
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