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中山道69次を歩く(第17回)沓掛宿~岩村田宿  009年7月11~12日
(歩程 53,000歩 約32km)

一日目

 梅雨の真っ最中で雨が懸念されたが,二日間とも曇り空ながら天候に恵まれさして暑くもなく街道歩きに格好のお天気の中,二日間の実行程32kmの長丁場を無事こなす。

 7時半に新宿を出る。上信越自動車道軽井沢出口の手前から渋滞にひっかかる,一般道に入っても更に渋滞が続き今日の出発点、
旧軽井沢ロータリーに着いたのが(10:50)
 トイレを済ませて11時スタート。1kmほど先
六本辻を右折しいったん街道を離れて「雲場池」(浅間山の湧水を堰きとめた池,室生犀星の「杏っこ」の舞台)の畔でストレッチ体操をする。

 
(11:25)街道に戻り本格的に歩き出す。気温は20℃、一帯は別荘地帯で唐松林を渡ってくる風が心地よい。
 旧軽井沢ロータリーの標高は960m、今回の終着点<塩名田宿交差点>の標高は625m。追分近くまではほぼ平坦な道、追分から小田井~岩村田~塩名田は,ずっと下り坂となる比較的歩き易い行程である。 参加者23名(男性:5,女性18)
 
市村記念館
 「離れ山」(浅間山の寄生火山,軽井沢と沓掛を分ける。和宮降嫁の際には,一時的に「子持ち山」と改名された)を右に見てしばらく歩く,道路わきの庚申塔や野仏を見ながら快適に進む。
 左手後方から国道18号と合流してすぐ右手に,「歴史民族資料館」,その先に「市村記念館」がある。ほかに「旧雨宮邸」(軽井沢を唐松林に変えた明治の実業家)とか「新座敷」と掲記された別荘が何軒かある。

「市村記念館」は,近衛文麿(太平洋戦争前に三次にわたって 内閣を組織した)が第一別荘として建築した大正初期のアメリカ式洋館。市村今朝蔵(元早大教授・政治学者)・きよじ夫妻が学者村の開拓拠点として購入し60有余年使用してきたが,平成9年12月に「昭和初期の軽井沢の別荘生活の再現資料として保存されたい」と軽井沢町に寄贈され現在地に移築されたもの。
 
宮野前一里塚碑
沓掛時次郎の碑
 「市村記念館」の先で、中山道は国道から左斜め前方に線路(旧信越線・現しなの鉄道)を渡っているのだが現状は失われている。
 すぐ先の<軽井沢中学前>信号を渡り更に”しなの鉄道”の踏切を渡ると左手に先ほど消えた旧中山道の残骸道が見られる。
 右折してこの道筋に入る。しばらく先で”前沢橋”を渡った先左手に「宮野前一里塚碑」がひっそり立っている。
 当初の街道は,この一里塚の先に延びていたが安永2年(1773)の大火で宿ごと北側に移されたという。よって旧々中山道はこの先で消滅している。前沢橋方向へ戻り左折し川の右岸側の道を”しなの鉄道”のガードをくぐり国道18号に出る。中山道はこの川の左岸側つまり対岸を通っていたというが現在は消え去っている。

 国道に出てここから左手が「沓掛宿」であるが,私たちは国道を横断してまっすぐ進み「長倉神社」に立ち寄る。

 長倉神社は,今日からお祭りらしく,神輿の準備や屋台の出店,提灯飾りで賑わっていた。境内の裏手に芝居などで有名な「沓掛時次郎の碑」「千両万両枉(ま)げない意地も人情絡めば弱くなる浅間三筋の煙の下で男沓掛時次郎」)がある。長谷川伸の筆によって生み出された人物であるが,”沓掛”という文字は今やここでしか拝めなくなってしまった。
沓掛宿 くつかけじゅく
 江戸から38里18町14間。
中山道六十九次のうち江戸から数えて十九番目の宿場。現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢にあたる。

 「沓掛」の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることに由来し,両隣りの軽井沢宿および追分宿と共に浅間三宿と呼ばれ飯盛り女が多く栄えた。また、草津温泉に向かう分岐路もあり,草津温泉往来の湯治客などで賑わったが安永2年の大火で140軒のうち104軒が焼失し,全滅した。新しい宿作りのため737両2分の拝借金を10年年賦で借り入れ,北側の現在地に移る。新設の宿は中央部に用水路があり,宿の長さは5町68間(668m)。

 1875年に借宿村との合併により長倉村,1889年に軽井沢村・峠町などと合併して東長倉村となる。軽井沢が避暑地として著名となったために1923年の町制施行を機会に軽井沢町と改称した。
 昭和26年(1951)の大火で町の殆どを焼失したため,往時の様子を伝えるものは殆ど残っておらず、町並みに昔の宿場の面影は薄い。1956年に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを期に地名も「中軽井沢」と改称,以後別荘地や避暑地として発展している。現在「沓掛」は地名として残っていない。
 人口:502人(男:244人 女:258人),家数:166軒,本陣:1,脇本陣:3,問屋:1,旅籠:17軒
 
脇本陣升屋
本陣跡旧家
土蔵の外壁に”本”という字が見える
 
 長倉神社から国道18号に戻り,<中軽井沢駅入り口>交差点方向へ進む。
右手に「脇本陣跡」
現在桝屋という現役旅館だというが営業しているのかどうか?
 
 昼食を,
<中軽井沢駅入口>交差点角にある「かぎもとや」で山菜ざるそばを戴く。このお店は,沓掛宿の旅籠「鍵本屋」が明治初期そば屋に転業したという有名な老舗である。「かぎもとや」の由来は、郷蔵(凶作に備えて穀類を保管した共同倉庫)の鍵を預かっていた家であったからだという。私にとって、この店は36年ぶりの再訪である。

 
(13:30) 午後のウォーキング開始。
 <中軽駅入口>交差点先の八十二銀行駐車場に「脇本陣蔦屋跡碑」
道路の反対側に「本陣土屋」という表札を掲げた家がある。皇女和宮が一泊した「沓掛宿本陣」である。土屋家は問屋も兼務し建坪259坪,門構え玄関付,裏手の蔵に「本」のマークが刻まれ本陣跡の面影を留めている。
 
 ここら辺りが
沓掛宿の中心だが,昭和26年の大火で宿場の風情を伝えるものは何もない殺風景の町並みである。
本陣から少し先右手に「草津道道標」側面に
「右くさつへ」とある。浅間山中腹の峰の茶屋を経て草津温泉へ10里の道。宿場はここら辺りまで。
遠近(おちこち)宮
借宿(かりじゅく)の旧家
 
 <中軽井沢西>で国道と分かれ左手の道に入る。およそ1kmほどに佐久地方最古の村落であったとされる「古宿」という集落がある。夫婦道祖神・十三夜供養塔・野仏が点在し,郭公が鳴き,鶯が囀るのどかな街道である。

 再び国道18号と合流し,ややきつい坂を登り18号バイパス高架下を抜けて,左手旧中山道を進む。

 数分先左手に「女街道入口」という説明板がある。
 江戸時代,「入り鉄砲に出女」といって武器鉄砲の動きとともに江戸に住まわせていた諸大名の奥方は人質的意義があり女人の出入りは厳重に取締まわれていた。したがって女人は関所を避けて裏街道を通るようになり,これを「女街道」または「姫街道」という。この街道は,これより油井釜ケ淵橋を渡り,風越山,広漠たる地蔵ケ原を横切り和見峠または入山峠を越えて下仁田方面へ抜けたという。
 「関所さけて 女人が多く往来せし女街道といふは寂し」と記されている。
 上州姫街道あるいは下仁田道とも呼ばれ,仮宿(北佐久郡軽井沢町)から初鳥屋宿・本宿宿・下仁田宿(以上群馬県甘楽郡下仁田町),から小阪峠を越えて宮崎宿・一宮宿・富岡宿(以上富岡市),福島宿(甘楽郡甘楽町)・吉井宿(高崎市)・藤岡宿(藤岡市)を経て中山道本庄宿に繋がる中山道脇往還である。

 数分先に「遠近(おちこち)宮」
 祭神は磐長姫命。長寿・健康・安産。創立年代不詳。棟札によると享保年間(1716~36)に社殿・鳥居などが整備されたという。浅間山一帯は七つほどの谷地形となっていて,その谷ごとに人家があり,広い範囲に点在していたため,「遠近の里」といわれた。また在原業平の「信濃なる浅間の嶽に立つ煙 遠近人の見やはとがめん」にちなんで付けられた神社名ともいわれる。ここで休憩。
 
沓掛と追分宿の中間に位置する間の宿・借宿(かりじゅく)に入る。旧家が二軒,だいぶ年数の経った”杉玉”を吊るした元(?)酒造家と千本格子の旧家。先ほど通った「古宿」地区とともに、かつて中馬・中牛宿として賑わったところで、路傍には沢山の馬頭観音が点在し、往時交通の要衝として牛馬での運送業者が多かった名残と思われる。源頼朝が巻狩りの際泊まった地でもあるという。

 再び国道と合流して小さな峠に至る,歌い坂・泣き坂・笑い坂と呼ばれる坂を下り
「追分宿」に入る。。
 
追分宿 おいわけしゅく
 追分宿は越後に至る北国街道との分岐点で交通の要所にあり,大きな宿場町であった。現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分にあたる。軽井沢・沓掛とともに「浅間三宿」といわれ,いずれも飯盛女が多かった宿として知られる。三宿の中では昔の面影が比較的多く残っている。

 宿の東入口にある浅間神社前の歌い坂・泣き坂・笑い坂と呼ばれる坂を下り,自然の桝形をなす沢を渡って宿に入る。追分宿は標高980m~1000mに位置し,中山道では一番高い所にある宿場町である。

 人口:712人(男:263人 女:449人),家数:103軒,本陣:1,脇本陣:2,旅籠:35軒,問屋:1
 町並みは5町42間。江戸から39里21町14間,二十番目の宿場である。
 
追分一里塚(南塚)
追分節碑
碓氷峠の権現様は わしが為には守り神
浅間山さんなぜ焼けしやんす
裾野三宿を持ちながら
 
「追分一里塚」

「中軽井沢西部小学校」を右に見てすこし先,標高1003mと表示されたちょっとした峠がある。
 国道の両側に南塚・北塚ともに健在。火山弾で築き上げられ山芝で覆われている。説明板に「江戸へ39里 京都へ91里14町」とある。国道18号の最高点である。一里塚の先を右に下り,「追分宿」に入って行く。

 まず「追分郷土資料館」に入る。

 館内は追分宿で誕生し全国に広まった追分節が流れ,宿場の成り立ちなどの説明資料,旅籠の様子を再現し生活民具などが展示されている。入口右手に追分宿で問屋を営んでいた人々により役馬の安全・供養を祈願し寛政6年(1774)6月に建立されたという「馬頭観世音碑」が展示されている。高さ約3m,軽井沢町文字碑としては規模の大きい碑である。

 続いて「浅間(せんげん)神社」

 流造りで室町時代の建築様式をよく残している。明治2年浅間山鳴動の際に,明治天皇の勅祭が行われた。境内に二つの石碑がある。
 ひとつは「追分節発祥地碑」
江戸時代,碓氷峠を中心に駄賃付けの馬子達が仕事唄として「馬子歌」を歌い続けてきたが,「軽井沢宿」「沓掛宿」「追分宿」の飯盛女たちの三味線などにより洗練され座敷歌「追分節」となって諸国に広まったという。

 もう一つが「芭蕉句碑」
 「吹き飛ばす石も浅間の野分哉」 寛政5年(1793)春秋庵二世長翠の書で,浅間焼石に覆われた追分原に野分けの吹きすさぶ荒涼とした光景が浮かんでくる。

 
御影用水
追分宿本陣裏門
 
「御影用水」
 
 浅間神社の前の街道沿いに清冽な水が流れる用水路がある。江戸時代,小諸市の東南に位置する御影・一つ谷・谷原地区に新田を開発するため中軽井沢の千ケ滝と千曲川支流湯川の2カ所から引かれた用水路である。その任に当たったのが武田家臣団の一員で地方郷士の立場にあった柏木小衛門。徳川政権下では武士として取上げては貰えない時代となり,それならと農民として生きていくことを決意し同輩らと浅間の麓から3年の歳月をかけて水を引き新田(御影新田と呼ばれる)を開発したという。現在,千ケ滝からの取水量は6t/分。

「堀辰雄文学記念館」
 
 浅間神社を出て数分歩くと左手にある。
その入口の門が「追分宿本陣裏門」。明治になって本陣の子孫が売りに出し最終的にここに復元されているとのこと,堂々とした立派な門である。表門は何処にあるのやら?
 作家堀辰雄は大正12年(1923)室生犀星に伴われて追分を訪れ,豊かな自然に魅せられ,以来毎年のようにこの地を訪れ「ルウベンスの偽画」「聖家族」「菜穂子」「美しい村」「風立ちぬ」「大和路・信濃路」「曠野」など数々の名作を生み出している。
昭和19年から追分に定住,昭和28年没。敷地内には,終焉となった家・書庫・辰雄没後夫人が建てた家(常設展示棟)を見ることができる。
 
泉洞寺
半伽思惟像
 
 街道に戻り少し進んだ右手に「油屋旅館」脇本陣油屋は本陣と同じ構えで,建坪239坪,旅籠が次々と姿を消して最後まで残っていた油屋も昭和12年(1937)の火災で豪壮な宿場造りの建物が焼失した。
 その対面に油屋の小川誠一郎氏が再建したのが旅館油屋がある。堀辰雄は昭和9年から油屋旅館で文筆活動を開始している。

 さらに進んで「明治天皇行在所碑」「本陣跡」「高札場跡」「諏訪神社」「泉洞寺」に寄る。


 「本陣」は,土屋家が務めていた。建坪350坪の豪華な建物だったという。明治になって旅館となり,明治天皇御在所にもなり,岩倉具視・大隈重信・山岡鉄舟なども宿泊している。今は碑が建つのみ。代々引き継がれた古文書は,軽井沢町資料館に保存されている。

 「泉洞寺」

 元和元年(1615)開山。曹洞宗。堀辰雄がよく訪れこよなく愛したという石仏「半伽思惟像」が本堂横奥の墓地中程にある。村人には歯痛の神様として信仰されているという。
 門前の「御影用水路」に清冽な流れ。
つがるや
分去れの碑
 
「桝形茶屋つがる屋」

 追分宿西出口は桝形となっている。桝形とは入口に直角に曲がった道と土手を築いて宿の警備に備えたもの。往時は茶屋が並んでいたと言う。この手前に,しっくい壁に「つがるや」と「桝形」の浮彫が施されている。つがる屋は茶屋の姿を今に伝える唯一の建物で、石が置かれた板葺き屋根の2階建て、出梁造りの家屋である。



「分去れの碑(わかされのひ)」


 桝形の先で国道18号に合流,すぐ先右に
中山道と北国街道の分岐点にあるのが「追分の分去れ」である。。江戸から来た場合,右は北国街道の更科や越後方面。左は京都・吉野など関西へ向かう分岐点となる。

   「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」

 その昔長旅の途中で親しくなった旅人同士が、別の行く先を前に別れを惜しみともに袂を分けて旅を続けたといわれるのがその名の由来。道祖神・森羅万象の歌碑・道標・道しるべ石・常夜灯・子抱き石地蔵坐像,その奥には隠れキリシタンがマリヤに似せて作ったのではないかとも言われる観音像など多数の石造群が立っている。
 
 (16:00) 分去れの碑に到着。
本日はここまで。迎えにきたバスに乗り込み今夜の宿小諸に向かう。

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