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中山道69次を歩く(第20回)和田峠~下諏訪宿① 009年7月25~26日
(歩程 44,400歩 約26.5km

 一日目

 関越自動車道は早朝から渋滞!!
上信越自動車道への分岐点藤岡ジャンクションまで4時間もかかるとの情報に,
「これはたまらん」とバスは,東松山ICで一般道へ(08:50)。滑川町,熊谷,深谷,本庄と国道17号を辿り(10:05),本庄児玉ICで再び関越自動車道に入る。
 おかげで昨年夏歩いた区間の一部を「あっ,ここに寄った,あそこに寄った」と思い出しながらの退屈せずの迂回路であった。

 以後は順調に進み今日のスタート地点「和田 道の駅」には予定よりの遅れがおよそ1時間で到着。
バスから降りたとたんに大粒の雨に見舞われる。昼食時間を短縮して,街道歩きスタートは予定より30分遅れの(13:00)

 先ほどから降り出した雨は依然として降りやまず,全員,合羽を着こんでの出発となったが,しばらくして陽がさしてきた,そうなると合羽など着てはいられない。降ったりやんだり,変わりやすいお天気に振り回され,合羽の脱着を繰り返しながら和田峠を目指すこととなった。和田宿の標高は825m,和田峠は1600m,結構な高度差である。
 参加者17名(男性:6,女性11)

 
「翠川家脇本陣跡」から歩き出す。
すぐ先に,わたしの水泳プールでの顔見知りYさんの実家で電気店を営むお店がある,ちょっと顔だけ出そうと店に入り「こんにちは こんにちは」と大声で尋ねるもどなたもお出にならず,グループはどんどん先へ行った仕舞うので残念ながら家人にお逢いすることはできなかった。この辺りは家を空けっぱなしにして置いても,泥棒などが入る心配は全くないらしい。
 
本亭旅館
よろずや
 「本亭旅館」
は,本陣・名主を務めた長井氏の屋敷で,現在は旅館となっている。
 個人で中山道を歩く人たちの和田宿での格好の宿となっているそうだ。内部の構造は昔のままで,格子窓からの宿場の眺めがよく,おまけにお昼の”おむすび”も作ってくれる気の利いた宿とのことである。

 続いて,その先に白壁の土蔵と立派な”うだつ”が目立つ「よろずや」という酒屋さん。ここから先には元旅籠らしき家が数軒連なり,家々には「なかむら屋」「大和屋」「嶋屋」「高の屋」「雨美屋」「まるき屋」「むらた屋」・・・・の札が掲げられている。
高札場跡
鍛冶足一里塚碑
 
 「上町中」バス停の脇に「高札場跡」
正面3間(約5.5m)奥行7尺(約2.1m)の一段高い敷地に正面2間(約3.6m)の屋根付き高札場があった。旅人はここでは笠などのかぶりものを取るのが習わしであったという。


 間もなく<和田鍛冶足>交差点で国道142号に出る。中山道は国道を斜めに横断して「大出」集落へと入って行くが,五差路の角に「鍛冶足一里塚跡碑」上和田一里塚ともいう)江戸から50番目,塚は民有地となり消滅している。

 およそ600mほどの区間,幅5mの街道らしい雰囲気の残る「大出」集落を通過する。
左手に依田川の清流を望みながら進み,再び国道に合流。歩道がなく大型車が頻繁に通るので一列になって歩く(おしゃべりしながら並んで歩く人がいる,非常に危険だ!事故にあったら本人だけではなくグループにも迷惑がかかる,ガイドの指示を守ってほしいものだ)。

 発電所水圧鉄管路を過ぎ,およそ800m,左手ドライブイン「杉の家」の手前,道路の反対側に大きな瓦屋根の家がある。「牛宿」があった場所だという。牛にまたがって移動する役人たちと牛が宿泊する場所だという。

 さらに先,左手に「東邦パーライト工業」の工場。和田峠産の黒曜石を粉砕加工して断熱材としてのパーライトを生産している工場である。

 「扉峠入口」バス停脇に小さなお店(地図によると「ドライブイン和田宿」?),また雨が強くなってきたので,軒下をお借りして雨支度を整える。お店の人が閉まっていた硝子戸を開いてどうぞどうぞと中に招じ入れるがそれほど長い時間を取れないので遠慮する。

 
古中山道入口
古中山道
 
 この先で国道右手の脇道に入り小さな沢を渡る(一の橋)。すぐに再度国道と合流して間もなく右手に大きな石灯篭が置かれた地点に到る。

 道路の反対側に,国道と分かれて登っていく草道がに見え,青い中山道標識がある。
これが「古中山道」の道である。
天保年間以前に中山道の路線変更が行なわれているが,変更以前は現国道の左手にあったこの道である。変更後の街道は,国道の右手,
唐沢集落を通る道で,こちらの方には5軒の立場茶屋からなる「唐沢茶屋本陣」があるという。私たちは古中山道を歩んだので,この茶屋本陣は訪れていない。

 古中山道の道はしばらくは幅の広い草道を行くが,この幅広の道から右折して丸木橋で沢を渡ると林間の杣道となる。途中に「歴史の道」標識があり,「和田峠5.3km,笠取峠15.3km」とある。

唐沢一里塚
三十三体観音

 しばらく林間の山道をハイキングよろしく進むと,左右二基とも当時のままの形状を残す
「唐沢一里塚」
に到る。

 街道から外れたことが幸いして往時の様子が偲ばれる雰囲気を感じることができる貴重な一里塚である。天保2年(1831)の絵図面では既に路線からはずされている。
 
 休憩後,先に進むとすぐに国道に出る。
1kmほど進むと
<観音橋>バス停,ここで国道142号が二つに分かれる。右が和田トンネルに至る旧国道142号,左が新和田トンネル(有料)に至る新国道142号。
旧国道を進み,中山道はすぐに国道と分かれ左手の山道に入っていく。歴史の道標識と案内板がある。
いよいよここから中山道最大の難所と云われる和田峠への登山道である。

 すぐに現れるのが
「三十三体観音

 かつて,この山の中腹にあった熊野権現社の前に並んでいた石仏である。
中山道の衰退とともに毀損・荒廃し放置されていた石仏を昭和48年(1973)の調査発掘により29体が確認され,旧中山道沿いに安置された。千手観音13体,如意・輪観音4体,馬頭観音10体,不明2体で4体が未発見とのこと。峠の難所を往来する人馬の無事を祈ったものであろう。

 雨が降り続き,山道が沢となり,泥まみれ汗みどろになって登る。隊列がぐう~んと長くなって最後尾が見えなくなる。
 
接待茶屋(復元)
広原一里塚
 
 「山道を登り始めておよそ35分,国道と合流した地点に茅葺きの建物がある。 
「接待茶屋」「永代人馬施行所(えいだいじんばせぎょうしょ)」

 江戸呉服町の綿問屋豪商かせや与兵衛が中山道の旅の難儀を助けようと金千両を幕府に寄付した。その利子100両を2分して文政11年(1828)に碓氷峠とともに設置された施行所。
 11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚火を,牛馬には年中桶一杯の煮麦を施した。その後土砂崩れにより流失したが,嘉永5年(1852)現在地に再建され明治3年(1870)まで続けられた。
 昭和58年(1983)歴史の道保存事業の一環として復元された。
 道脇に水飲み場があり,冷たい水で一服し暫時休憩。美味しい水が好評で,大容量ペットボトルに汲み込んで車に載せている人がいた。


 国道のちょっと先で,再び山道に入る。
すぐ,右手に,明治22年(1889)強盗犯人を護送中に犯人と格闘になり殉職したという「殉職警察官の碑」

 しばらく石畳道を行く。この石畳道は頗る歩きずらい。石畳道とは聞こえが良いが,実は左手を流れ下っている沢の氾濫時に土石が流れ込み河原状となったのを多少整形しただけの道である。要するに玉石ごろごろの河原を歩いているようなものだ。25分程で小さな小屋があり,休憩をとり再び泥濘化した山道を進む。およそ15分でやや開けた場所に

 「広原一里塚」

 東塚は現存,西塚もわずかに原型を残す。江戸から52番目。
このあたりは広原と云い,その名の通り笹と萱の生い茂る原であった。冬の降雪期には山頂から吹き下ろす吹雪で一面の雪の原と化し,道も埋もれる時,5間四方のこの塚は旅人の良き道しるべとなったと云う。

 この先は,本来の石畳み道,左手がキャンプ場となっている。10分ほどで国道に合流,すぐ先が
東餅屋跡

 旧石器時代の石器の材料とされた黒曜石は和田峠周辺に多く産出し,キャンプ場から一里塚にかけての一帯にも黒曜石の露頭が10カ所ほど確認され,数多くの後期旧石器時代の遺跡が集中して発見されているという。

 「東餅屋跡

 往時は,力餅を食べさせる茶屋が5軒,幕府の援助を得て設置されて,長丁場の難所和田峠越えの人馬の休息所となっていた。寛永頃より1軒につき1人扶持を幕府から給されていたという。幕末には大名の休息のための茶屋本陣も置かれ土屋氏が務めていた。

 現在は,右手にドライブインが一軒ある。
名物「力餅」(一皿350円)と熱いお茶で一服休憩。
ここの主人は商売上手というか,殿様商売をやっている。お土産用の「力餅」は10個まとまらないと搗かないという,わたしたちの注文数はどうやら所定個数に達していないようで,これでは「今晩新たに餅を搗くわけにはいかない」といってもっと買ってくれと云っている。和田から毎日,四輪駆動で通ってくるそうだが,建物は古びて,雨漏りも激しい。修理再建する余力はなさそうで,一軒残った現代の東餅屋も残念ながら,いずれ消滅しそうな気配である。

 山道の入口からここまで距離およそ2km,標高差およそ300mを1時間半をかけて踏破。雨中,皆よく頑張った。
本日はここまで。

 (17:45) 上諏訪のホテル着。
 温泉に入ってゆっくり休息し,英気を養い,明日の峠越えに備える
 午後8時から諏訪湖で花火大会があるというので,デジカメ片手に待ち構えたが5,6発であとはなしのつぶて。近郷近在から大勢の客が詰め掛けるというお盆の諏訪湖花火大会のための予行演習だったようだ。
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