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中山道69次を歩く(第23回)鳥居峠~藪原宿~宮の越宿~木曽福島その1     
009年11月10~11日

(歩程 40,000歩 約24km)

 『一日目』

 朝7時半新宿発。
 11時,奈良井宿手前の
道の駅「なら川」内の食堂「与志田」で早い昼食を済ませた後,前回終了地点の「鎮神社」から歩き始める(12:00)。参加者は15人(男性:6人,女性:9人)。

 天気は下り坂,なんとか二日間もってくれれば好いのだが?
  
鳥居峠登り口
落ち葉を踏みしめて
 
 鳥居峠を越える

 「鎮(しずめ)神社」の隣に「楢川歴史民俗資料館」があり,
奈良井宿をはじめ木曽谷に残る街道時代の民俗資料(1階は生活民具や家具を2階では宿札・宿絵図などの宿場関係)を公開しているという。今回は先を急ぐので入館せず。

すぐ右手に「右上 鳥居峠 左下 奈良井宿」の道標(左写真の石塔)があり,「鳥居峠まで2.3km」の案内表示板。
 石段を登る,車道に出て右に進む。前回泊まった
「ならい荘」入口を過ぎ,30mほど先から右手石畳道(昭和47年に復元された)を踏みしめながら山道へ,10分ほどで石畳が消え,木立の中に踏み固められた歩きやすい道が続く。

 やがて本格的な山道となる。ところどころに桟道が設置されよく整備された快適なハイキング道を落ち葉を踏みしめて登る。

 さらに10分ほどで「木曽駒展望台入口」に到るも,曇り空なので眺望は悪いと判断してパスして小休憩。路傍に可愛げな道祖神が一体ひっそりと佇んでいる。ややモダンな姿で新しい時代のものと思われる。峠まで1.65kmの表示板あり。

 ここからは,緩い登りと平坦な草道のアップダウンを繰り返しながら徐々に高度を稼いで行く。紅葉がきれい。

可愛げな道祖神
紅葉が真っ盛り
 やがて壊れかけたような小さな小屋が建つ。
「中の茶屋跡」である。

「昼は茶店を開き夜は強盗・・・」”恩讐の彼方に前篇”の舞台である。小屋の中に菊池寛「恩讐の彼方に」のことが書かれた説明板がある。

 沢田正志 奈良井宿観光協会が記した全文は以下の通り。
 「恩讐の彼方の鳥居峠(華表嶺)での場面は静かな中に一瞬凄絶を極める。そしてここから遠く青の洞門へと舞台は移ってゆく。この鳥居峠には作品として最も重要な動機が設定されているのであるが,思えばその動機の背景をこれほど見事にふさわしく偲ばせるところもないのである。鳥居峠の貫録というものであろう。 鳥居峠特に奈良井側からの峠のあの山の背を這うようにしてゆく崖道は険阻そのものであると同時に,中山道全街道を通じて最も深い趣をもつといってもいい。兎に角幾百年の歴史の道はその風格とも併せて春秋ただ素晴らしいの一語につきる。」

 茶屋のある辺りは,「葬沢(ほうむりさわ)」と呼ばれている。

 天正10年(1582)2月,木曽義昌が武田勝頼の2千余兵を迎撃し,大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。この時,武田方の戦死者500余名でこの谷が埋もれたといわれ,これを葬った場として葬沢と呼ばれるようになったと云う。

 峠まで1.55kmの案内表示板あり。すぐ先に道祖神二体あり。

5分ほど緩いアップダウンと平坦な道の繰り返しが続く。やがて少しきつい登りとなり,右手に水場をやり過ごし10分ほどで車道(旧国道)へ。左へ100mほどで「峰の茶屋跡」に到着。

 ここが標高1197mの「鳥居峠」である。
奈良井宿の標高は970mほど,およそ230mを登って来たことになる。
 かつては「中利茶屋」があった所で,いまはトイレ付の立派な休憩小屋(昭和44年復元)が建っている。脇に滔々と清水が流れる水飲み場もある。ここで小休憩。

 鳥居峠は,木曽路の北端奈良井宿と藪原宿との境にあり,木曽川と奈良井川(犀川(→千曲川→信濃川)の上流である)の分水嶺をなしている。
かつて美濃と信濃の国境であったこともあり,およそ1300年前に既に存在したと考えられている(吉蘇路)。古来「県坂(あがたざか)」と呼ばれ中世においては「ならい坂」あるいは「藪原峠」と呼ばれていたが戦国時代の明応年間(1492-1500)松本の小笠原氏との戦いで,木曽義元が,頂上に鳥居を建て,御嶽権現に戦勝を祈願したことから鳥居峠と呼ばれるようになった。峠は木曽防衛の拠点として,度々合戦所となっている。

復元された「中利茶屋」 峠から奈良井宿を望む

 
旧国道と明治道分岐点
熊除けの鐘
 
 (13:00) 峠を越えたすぐ先で道は二股に分かれている。
右へ下るのは「旧国道」,左手のやや幅広の山道が「明治道」。旧中山道は先刻の茶屋から左手に入る草道を登って行くと云うが殆んど消滅状態。

 明治道に入ると,道脇に熊除けの鐘が置かれている。「熊も人が怖いので,鐘で知らせてあげよう」と書かれている。皆でガンガン鳴らす。

 一帯はトチキの群生地で,太古の森を思わせる光景に心が洗われるよう。
平坦な山道を数分歩くと,右手に「子産(こうみ)の栃」という樹幹に大きな穴があいた大木がある、昔,この穴の中に捨て子があり,子宝に恵まれない村人が育てて幸福になったことから,このトチノキの実を煎じて飲めば子宝に恵まれると云い伝えられているという。

 少し先に「木祖村指定天然記念物 鳥居峠のトチノキ群」(平成4年12月17日指定)なる石碑が建つ。振り返ると,確かにトチノキの群落を確認できる。なるほど熊が出没する環境であることが分かる。
 再び「熊除けの鐘」が設置されている。念のため今度は思いっきり強く叩く。

 間もなく右に大きな鳥居「御嶽遥拝所」である。

 この鳥居は,戦国時代に木曽義元が戦勝を祈願して建てたもので,鳥居峠の名の起こりである。
 鳥居峠は古来より信仰の山として知られる御嶽山(標高3063m)を望むことができる為,遥拝所が設けられ,信者達によって御嶽神社が建てられた。神社に到るまでに鳥居があり,神社の境内には御嶽講社が建立した多くの石碑・石仏・石塔があり,御嶽信仰の盛んだったことを思わせる。

 「晴天時には霊峰御嶽山が眺望できます」との案内板があるが,今日は曇天にて全く見えず。代わりに左手下方に藪原宿の町並みが霞んで見える。
 なおこの御嶽遥拝所は,東の中山道岩郷町(現木祖町)・西の飛騨信濃境である長峰峠・南の美濃信濃境である三浦山(現拝殿山)とともに「御嶽四門」(御嶽を望む四方の街道筋に修験者が設けた遥拝所)の一つに数えられている。・

子産の栃 御嶽神社
鳥居の奥に遥拝所がある。
峠道から藪原の町並みを望む

 明治道の街道に戻り坂を下る。この辺り「円山公園」とか「森林測候所跡地」とか「藪原」はこちらといった案内板が幾つも立っていて分かりにくい。案内役のOさんも引き返しかけたりして迷う,わたしが2万5千地形図と現地の地形から判断してこちらの道ではないかと助言した。山道での方向感覚は長年の経験を積んでいるわたしの方が上かなと内心思う。

義仲硯水
杖置場
「友愛の杖を友に安心して楽しく峠越えをしましょう」と書かれている。
 閑話休題。 
 芭蕉句碑(雲雀塚と栃塚)など多数の石碑をやり過ごし,細いジグザグ道を下ると,
右手に「義仲硯水」

 木曽義仲が木曽の宮の越で平家討伐の旗揚げをして北国へ攻めのぼる時,鳥居峠の頂上で戦勝祈願の願書を認めて御嶽山へ奉納した際の硯の水と云い伝えられている場所。木で組まれた桝は落ち葉でいっぱいとなっていた。


 更に下ると,小石に一つずつ文字が記されている「経典供養塔」。後ろに道祖神

いったん旧国道(峠頂上より通じている)に出て,これを横断して,石畳道へ。
10分ほどで左手に赤い鳥居が建つ小さな
「稲荷神社」,この奥に「山伏塚」があると云う。

 間もなく旧国道に出て石畳道が終わる。ここは藪原側から峠へ向かう始点であり杖置場がある。
山の中の道はいつしか車道となりきれいなカラマツ林を抜けると民家がチラホラ,間もなく
藪原宿へ到着である。(13:50)

 藪原宿へ

 
「右手に消防署がある交差点」で県道を突っ切ってくねくねとしたカーブの多い街道を下って行く。

 
「天降社の大モミジ」「原町の清水」を過ぎ,家並みが宿場の風情を醸し出し,いよいよ藪原宿
藪原宿 やぶはらしゅく
 江戸から65里35町14間,町並み5町25間。

 戦国時代に木曽義昌が木曽11宿を定めた頃より宿として利用され,慶長6年(1601)の中山道宿駅制定時に整備が進められた。
 鳥居峠への麓の宿として,また野麦峠を経て高山へ向かう飛騨街道の追分宿としてさらに,お六櫛の生産地としても栄えた宿場である。

 元禄8年(1695)の大火の後,防火の目的でつくられた2カ所の高塀のうち,土盛り石垣の一部が残されている。
 明治17年の火災で町並みの大半が焼失して往時の面影はあまり残っていない。しかし、街道筋には伝統の特産品であるお六櫛の看板を掲げた店や飛騨の工女たちが泊まった旅籠の建物があり、郷愁を誘う。

 人口1493人(男:706人 女:787人) 家数:266軒 本陣:1 脇本陣:1  旅籠:10
 
 「尾州御鷹匠役所跡」

「原町清水」
からの急坂を下りきると前方にJR中央線の線路が見えてくる。中山道はこの線路で分断されている。右手線路の崖上に「尾州御鷹匠役所跡」の標柱が建つ。
 
 鷹匠役所は,当初妻籠宿にあったが,伊奈川(現木曽郡大桑村)にあった鷹の飼育場と統合して享保15年(1730)ここに移された。毎年春になると,尾張藩から鷹匠と役人が出張してきて,鷹の巣を見つけて鷹の飼育や調教・鷹の公儀献上・巣山の管理及び巡視などを木曽代官山村氏の家臣や土地の人々の手助けを得て行っていた。
 木曽山中に60余あった「巣山」と云われる御巣鷹山は木曽川の上流では,味噌川にある池の沢・尾頭沢・笹川の押出の3カ所である。厳しい自然環境の中で育ったこの地の鷹は優秀で,幼鷹とともにタカ狩りを好む尾張藩主をはじめ,将軍家にも人気があったという。

 明治4年(1871)に廃止。地元の人々が「おたかじょ」と呼んでいたと云う。

 「飛騨街道追分」
旧尾張藩鷹匠役所跡標識
現在は何見残っていない

飛騨街道分岐点標識
 更に下ると左手に「飛騨街道追分」標識が立つ。
 この場所に十王堂(薬師堂)があって,奈川寄合渡(いずれも現松本市)を経て野麦峠~飛騨高山に通じる飛騨街道(奈川道)の追分となっている。

 現在,飛騨街道の道筋は,中山道と同じく線路で寸断されていて分かりづらいが,木曽川上流部の谷筋を北西方向に向かう道路(現県道26号線)が線路の向こう側に延びているのを確認することができる。
 飛騨街道は,笹川上流部の小木曽地域を抜けると美濃(木曽側)と信濃(松本側)の国境であったことから「境峠」と呼ばれる峠を越えて寄合渡・奈川へ向かう。往時この峠は険しい道で,木曽側は湿地に板橋を掛けて渡り,いっぽう奈川側は岩石だらけの悪路で,馬を使うことが困難であったため代わりに尾州陸舟(おかぶね)と呼ばれた奈川の牛が北陸能登からの高山ブリ等の魚介物や塩などの荷物を運んだと云う。

 以前は野麦峠を越えて梓川沿いを下り松本・塩尻経由で岡谷の製糸工場へ働きに出た飛騨の女工たちは,明治44年中央西線の開通でこの道を利用して藪原経由で頻繁に往来するようになったという。

 現在,乗鞍岳の北を越える安房峠(国道158号)に安房トンネル(中部縦貫自動車道の一部)が開通したことから,飛騨街道は,高山と松本を結ぶ交通路としての役目はすでになく,また木曽方面へも鎌ヶ峰の南の長峰峠(国道361号)が主要道路となったので,現在は観光道路としての往来が主である。野麦峠は日本の秘境100選の一つに選ばれている。

 線路に沿って坂道を下りきった所で,右にガードを潜ると旧中山道藪原宿の町並みに入るが,その前にちょっと寄り道をする。
右折せずにそのまま真っ直ぐ坂道を100mほど上ると朱鮮やかな鳥居が見えてくる。

  「藪原神社」
 

 石段を登り左手奥に本殿がある。創始は天武9年(681)と伝えられる,1300年以上の長い歴史を持つ神社である。現在の本殿は,文政10年(1827)に建てられ,二代立川和四郎富昌作の華麗な彫刻は圧巻。
 入母屋造りの茅葺きであったが,昭和17年(1942)に大改修された。木祖村の有形文化財に指定されている。
社名は,はじめは熊野社であったが,熊野権現,熊野大社を経て,明治4年(1871)現社名に改称。
 毎年7月8日・9日は村を挙げての祭礼が行われ,雌雄の獅子を乗せた山車巡行と華麗な獅子舞が披露されると云う。

 参道に芭蕉句碑

    「杜かげに われらもきくや 郭公」

 更に先に
 「極楽寺」

 臨済宗妙心寺派。御本尊は釈迦如来。元亀年間(1570~73)に創建の古刹。
本堂は元禄4年(1691),山門は元禄11年(1698)の建立である。高名な洋画家藤田嗣治の天井絵や近藤浩一路の画や遠州流の庭園が見もの。

 参観料100円とかで,今回は山門を眺めただけで引き返す。

先ほど通過したガードまで戻り左折して100mほどのT字路で中山道に出る。いったん右折して宿の日本橋側から改めて京側に歩を進めることとする。
 100m程先に
藪原神社
本陣跡
 
「本陣跡」

 木曽氏の家臣古畑十右衛門の屋敷があった所が本陣となった。 
安政年間の記録によると,藪原宿の本陣は間口14間半,奥行き21間もある広さで,木曽11宿中最大であった。四十余坪の中庭もあり,街道に面して間口6間半の門を構え,番所・厠・玄関付の屋敷で部屋数は上段の間を含め20余。南寄りの間口8間が本陣古畑氏(六代目より寺島と改姓)の居室となっていたが,宿泊者が多いと共用した。
文久元年(1861)皇女和宮も鳥居峠越え前に宿泊していると云う。
 現在は遺構は無く案内標柱があるのみ。

 続いて手打ち蕎麦屋を営む「おぎのや」

 T字路まで戻って角に
 「旅籠こめや」

 現在も旅館を営んでいる。明治の火災後,須原宿から移築した建物だそうだ。

 対面にスギ玉を飾った店がある。

湯川酒造
旅籠こめや
「湯川酒造」
 
 創業は慶安3年(1650)。現在の当主は15代目で,江戸初期からの酒造りの伝統を守りながら,酒造り五十年の熟練した技を持つ杜氏が,木曽の良質な水と信州の米を使って造る,深いこくと味わい豊かな地酒「木曽路」が有名とか。13代目の時代には,敷地内にある枕流館でアララギの歌人たちが集い,蔵の銘酒を呑み交しながら歌を詠んだという。

 T字路から少し行った右手に「JA木曽木祖支所」があるが,ここが問屋場を兼ねた「脇本陣」

 その先左手に

 「防火高塀跡」

 元禄8年(1695)7月14日の薮原宿大火の後,宿再建の際,各戸1間につき1寸づつ提供し合って上横水と下横水の2か所に四つ辻の広小路を作った。文化年間(1804-17)に上横水の広小路に土を盛り石垣を築きその上に高い土塀を作って防火壁とした。現在は石垣の一部分が残されている。
 江戸時代,いずれの宿場も火災には神経を使っており,用水路の工夫や建物にうだつを設けるなどしているが,藪原宿のような防火高塀による方法は珍しい。

 数分歩くと「源流の里小屋」 さらに先に

 
「宮川什器店,宮川家史料館」

 街道に面したお店は,宿場町の面影を残す建物の漆器店である。
陳列されている什器類を眺めていると,9代目だという当主が蔵を案内してくれると云う。
2班に分かれて見学させて貰うことにした。ウナギの寝床のような家屋の土間を奥に進むと中庭を挟んで大きな土蔵があり「宮川家史料館」になっている。
 天明年間(1781~89)から昭和2年(1927)まで,6代にわたり医師を務めてきた宮川家は,4代目の玄純(げんじゅん)が,尾州藩より帯刀を許されるほどで,多くの役人の治療にも当たってきた。
館内には当時の医療器具はもちろん,松尾芭蕉・与謝蕪村の色紙や山岡鉄舟の書画・巻物などの古文書類や雛人形・杯・行燈・陣笠・印籠・薬研・重箱など貴重な品々が展示されている。

 当主の話によると,嘉永3年(1850)?の大火で残った二つの蔵のうち,一つは鉄道敷設の際取り壊されたという。

 数分先に藪原宿の名産品であった「お六櫛」を商う「お六櫛問屋篠原商店」の古い商家がどんと構えている。

 元禄年間(1688-1704),持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が,治癒を祈って御嶽山に願いを懸けたところ,ミネバリで櫛を作り,髪を梳かしなさいというお告げを受けた。お告げの通り櫛を作り髪を梳いたところ,病が治った。ミネバリの櫛の名は広まり,最盛期には宿内の人口の六割以上が木櫛関連の仕事をしていたと言われる。以来造られ続け,今でも全国各地に年間百万枚も出荷されていると云う。

 ミネバリ(峰棒)とは,御嶽や駒ケ岳の高地に生えるカバノキの落葉高木,目の詰まった堅い木で日本産樹木の中で最も重い。別名オノオレカンバ(斧折樺)。

宮川漆器店 お六櫛問屋篠原商店
江戸時代からお六櫛問屋として店を構えていいる。現在は櫛のほか、伝統のミネバリや柘植で作るお六櫛などの小売販売模しているという。

 間もなく左手に懐かしい赤い丸型郵便ポストが見えてくる。
その横に
「藪原宿高札場跡」

 高さ2間3尺,幅2間4尺の建造物で人々が集まりやすい京方の入口に位置する。
宿場町らしく定三札(人倫・徒党・切支丹)と駄賃札等が主だったと云う。木祖村郷土館には,当宿場に掲示されていた幕末期の定三札が保存されている。

 この先で,右折し,道は蛇行している,おそらく京方の”桝形”の名残りであろう。
2~300mで再び元の道に合流し,少し先で右手に入ると,「県道26号」に突き当たる。手前右手に”D51”機関車が展示されている小広場があり,その脇に

 
「藪原一里塚跡」の標柱が立つ。

 
江戸から66里 京へ70里とある。築造は慶長9年(1604)とされ,街道の西側に五間四方に高さ一丈(約3m)ほどの土を丸く盛り上げその上に榎や松が植えられていたという。原型は全く見られない。村内の一里塚はここと,吉田(江戸から67里 京へ69里)にあると記されている。

高札場跡造 荻原一里塚跡碑

国道のよう壁に描かれた
巨大なレリーフ

 
 「一里塚跡」から元の道に戻り直進,JR「藪原駅」の下を通り,「県道26号」とのT字路を左折,中央西線ガードを潜り道なりに右へ,坂道を登り<木曽村 藪原>信号で,国道19号へ。国道掲示の気温計は15℃を示している。
 本来の中山道は,T字路交差点をまっすぐ進み中央線を突っ切り国道19号に合流するのであるが,今は消滅している。

 トラックが頻繁に行き交う国道の歩道を求めて横断を繰り返しながら進む。
 
 
「獅子岩橋」で木曽川を渡る。本来の中山道は,川を渡らずに木曽側の左岸沿いであるが,国道横断の危険を避けるためと,いったん別れた中山道は,すぐ先でまた国道筋へ合流するのでこのまま進む。橋を渡った先の国道壁面に「鳥居峠を行く旅人の大壁画」

 再度,木曽川を「鷲鳥橋」で渡り,10分ほどで<菅>信号(右手木曽側を渡って菅集落へ向かう道が分かれている)。

 その先に
「吉田洞門」 

 洞門の右手に歩道が設けられているので,洞門内を歩かずに済んだのは幸いであった。旧中山道はこの洞門の上を高巻きして通過していた。
 和宮の行列がこの高巻き道を何日も何日も続くのを川向うの村人(おそらく向吉田集落)が戸の隙間や障子の穴から見ていたとか。

 <吉田>信号の4~5分先,「焼き肉・ラーメン権兵衛」というドライブイン手前の待避所で,本日のウォーキング終了(15:40)

 ここからバスで本日の宿に向かうのであるが,まだ時間早かったことと明日は雨が予想されるので,明日の予定を一部繰り上げて,
「宮の越宿」の手前にある「南宮神社」「義仲旗揚げ八幡宮」に寄る(見学記は二日目のページに)。

 今夜の宿は,宮の越宿の先,国道沿いにある道の駅の先(左手の車窓から
木曽駒ケ岳(2958m)が良く見える,まだ雪を頂いていない)から左に入った木曽駒高原別荘地の一角にある「木曽/YOSHINAKA森のホテル」。わたしが勤務した会社の保養寮の少し先で,ここら辺りは街道も含めて御馴染の地域である。

 案の定,雨がパラついて来た。明日は雨中行進必至!!

 ホテル着 
(16:40)
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