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中山道69次を歩く(第24回)福島宿~野尻宿 その1              
 009年12月1~3日

(歩程 64,000歩 約38.5km)

 いよいよ木曽谷の奥深くへ

 『一日目』

 いつもと同じく朝7時半新宿発。
 首都高~中央高速伊那インター~権兵衛街道を経て木曽路へ。南下して木曽福島へ。
今日は快晴,甲府盆地からは雪を頂く甲斐駒が,伊那谷からは仙丈岳・北岳の雄姿が望まれた。

 11時過ぎ,木曽福島着。本来は,福島関所跡から見学を開始するのが順番なのだが,本日は休館日というので,翌日回しにして木曽川右岸にある興禅寺に向かう。参加者は17人(男性:7,女性:10)

  
福島宿 ふくしましゅく
 
 江戸から69里24町14間,町並み3町55間。

 戦国時代には,木曽氏の城下町として,永禄年間(1558~72)に宿が形成され,天正18年(1590)徳川家康関東移封に伴い木曽氏が去り,豊臣秀吉が直轄領とした。
 江戸時代元和元年(1615)尾張藩領となり,木曽代官山村氏の陣屋町として栄えた。

 四大関所(東海道:箱根・新居、中山道:碓氷・福島)の一つ福島関所が設けられ,碓井関所とともに江戸防衛の重要拠点となり規模の大きな宿として発展。古くから木曾地方の政治・経済の中心地で、木曽路一帯は江戸時代初期の元和元年(1615)から尾張藩領となった。

 上町・下町は昭和2年(1927)の大火で焼失し,往時の面影は少ないが,京寄りの「上之段」と呼ばれている地区にわずかに江戸時代末期の建造物が残り、街道情緒を感じさせてくれる。

  人口972人(男:494人 女:478人) 家数:158軒 本陣:1 脇本陣:1  旅籠:14

看雲庭
木曽義仲の墓
 
 興禅寺前の駐車場に停めたバスの中で昼食お弁当を食べてから行動開始。

 「興禅寺」

 臨済宗妙心寺派。
この地を支配した木曽氏十二代信道が先祖木曽義仲公菩提の為,荒廃していた旧寺を改建した(永享6年(1434))。
 樹齢300年を越える木曽ヒノキの古木が混じる山を背に落ち着いた雰囲気のなかに立つお寺である。
 木曽義仲並びに木曽家代々,福島関所代官山村家代々の菩提所で,木曽三大寺(興禅寺,すぐ南隣にある長福寺,大桑村須原の定勝寺)の一つである。

 付近一帯は,歴史的,文化的特色を有する自然環境を形成しているとして長野県郷土環境保全地域に指定されている。勅使門を入って正面に「本堂」,左手に枯山水の「看雲庭」,その奥に池泉水の「万松庭」(見学料300円 ちと高いと思う),右手に観音堂と義仲公お手植えの時雨桜二代目。いったん公道に出て山側の斜面に「木曽義仲公の墓」がある。

「勅使門」: 治承4年(1180)源行家が以仁王の勅使として平家追討の令旨を,この門を通り観音堂において義仲に伝えたといわれている。室町時代の様式で国宝であったが昭和2年(1927)火災にあい昭和29年に原形通りに復元された。

「観音堂・時雨桜」: 義仲が深く帰依したという金銅仏の本尊は推古朝時代の作と伝えられる。前の庭にある時雨桜は義仲お手植えの二代目,例年4月20日ごろが見頃となる色鮮やかのしだれ桜だという。その下に「種田山頭火句碑がある。

  たまたま 詣でてみれば 花まつり 山頭火

「看雲庭」: 禅宗庭園として昭和37年に現代作庭家の第一人者重森三玲氏の作。紀州沖の島産の青石(緑泥片岩)を用いた枯山水の庭。

「万松庭」: 庫裡西側の斜面を利用した池泉観賞式の庭園で,江戸中期金森宗和の作庭。

「木曽義仲の墓」: 境内の西北隅にある。寿永3年(1184)1月21日粟津ケ原で源義経らの軍勢に敗れ,その時わずか13騎の護衛の中に居た巴に「義仲死に臨み女を従うは後世の恥なり,汝はこれより木曽に去るべし」と遺髪を巴御前にたくした。その遺髪がここに収められているという。


 「木曽踊り発祥の地」 木曽信道が,祖先義仲供養のために始めた甲冑に身を固めた行列が倶梨伽羅谷の戦勝にちなんで松明をかかげながら鉦や太鼓を打ち鳴らしながら向かいの山から本寺に至り,義仲墓前に詣で踊り,霊を慰めた故事によって木曽踊り発祥の地とされている。

 義仲の墓からの帰り道,左手の木の間越しに木曽では珍しい洋風の建物が見えたので,ひとり横道にそれる。

 「元宮内庁御料局木曽庁舎」

 この建物は,明治維新で尾張藩有林から皇室財産の御料林となった木曽谷の森林を経営管理する為,明治36年(1903)に宮内庁御料局木曽庁が置かれ,木曽谷始めてのモダンな洋風建物である。
 昭和2年(1927)5月木曽福島町の大火により焼失するも同年12月旧庁舎の姿をほぼそのままに再建され,当時の皇室の威風をうかがい知ることができる貴重な建物だという。現在は,森林・林業の技術開発・普及指導を行う「森林技術第一センター」の庁舎として使用されている。

 木曽谷の人々にとって,「木一本首一つ」の頃から今に至るまで,木曽谷の森林と切っても切れない深い縁があることを感じる。
 

 興禅寺の前の道を先に進む。
「権現水」(戦国時代,福島城が在った城山の権現滝付近から水を引いてきた水場で,上水道敷設後も近隣の人々の情報交換や懇親の場,いわゆる井戸端会議場?として親しまれてきた)→<門前バス停>「龍元山長福寺」(臨済宗妙心寺派,山村家菩提寺)→<木曽福島会館前バス停>を経由して,木曽川に架かる「中央橋」の手前で右折(右手角が大型駐車場)。少し先の右手「福島小学校グラウンド」の石垣の石に文字が刻みこまれている。

「山村代官屋敷東門跡」
石垣に刻まれた横井也有の文
 山村代官屋敷敷地の大半は,現在,福島小学校になっている。その福島小学校のグランド下に東門跡の石垣がある。
 
 延亨2年(1745)4月,尾張藩主徳川宗勝が江戸を発って尾張に帰る途中,山村邸に一泊した時,藩主に従って来た重臣であり学者であった横井也有の紀行文「岐岨路紀行」の一節が石垣の石に刻まれたものだという。

 「俎板のなる日は鳴かずかんこ鳥 也有」と読める。

 そのまま進むと<代官屋敷前>交差点
渡った右手角に,都会ではとんと見られなくなった丸型ポスト,その由来や木曽福島では人々に愛されてきたこの丸型ポストを末永く活用していくとの趣意が書かれた説明板がかかげられている。

 右手が

「山村代官屋敷」

 山村氏は戦国時代から木曽谷を治めていた木曽氏の旧臣で,慶長5年の関ヶ原の戦いで,徳川秀忠の先陣を承って,犬山城主石川光吉と戦いこれを破るなど活躍した。その功により木曽代官を命ぜられ,福島関所を預かった。
 後に木曽が尾張領となった以降は,尾張藩の武士として引き続き木曽を支配しながら石高7500石を給付され,福島関所の関守として幕府から旗本の一種,交替寄合の待遇を許されて,明治2年(1869)に至る274年間木曽谷を支配した。

 木曽の山林と四大関所の一つ福島関所の関守を兼ねていたその権力は絶大であり,その屋敷は豪壮を極め,文政年間(1818~30)の屋敷図によれば,福島小学校を含む敷地に庭園が20もあり,そのうち築山泉水の庭が5つ,その一つが現存する下屋敷と庭園である。
現在の建物は,享保8年(1723)2月4日の火災で全焼して再建された建物であり,12代木曽良棋の下屋敷の一部で代官屋敷唯一の遺構であり,良棋は号を城陽と称したので「城陽亭」と呼ばれている。
亭内には,書斎の間「看雨山房」を中心に数室からなり歴代代官の書跡や愛用品などが展示されている。庭園は駒ケ岳と周囲の山を借景とし,静寂そのもので町中にあるの感がない。

 山村氏は明治維新の際には,新政府に与した尾張藩の家臣で,かつ幕府旗本であるとの微妙な立場に立たされたことが「夜明け前に」に記されている。

代官屋敷入口 「城陽亭」入口 代官屋敷から新雪を頂いた
木曽駒ケ岳が望める

城陽亭は,有料で公開されている(関所資料館と共通で500円)。
私は以前に2回も見学しているので今回はパス。他のメンバー全員が見学している間に,「崖屋造り」の家を見に行ってきた。(写真下)

 明治末期頃から,床を川に張り出して造られた崖屋造りと云われる家。
 木曽谷のような狭い土地を有効に使おうとした先人達の逞しい生活の知恵から生まれたのであろう。
 
 町の通り側では1階・2階建ての家が川側へ回ると2階・3階建てとなっている。積み木を重ねたような多層にせり出しているところが迫力満点。

 
(13:00) 代官屋敷見学を終えて<代官屋敷前>交差点を渡り,木曽川に架かる「大手橋」(以前はお屋敷橋と呼ばれていた)の手前で,右折し細い横道をすこし行くと「木曽教育会館」の建物に行きつく。左手に回り込んで正面玄関前に

「夜明け前」の原稿レリーフ

 拡大されていて囲みや引き出し線など推敲の跡がよく分かる。
大手橋
中山道から代官屋敷へ渡る橋で「御屋敷橋」と云われていたが,明治になって大手橋と名づけられた。明治以降2度の洪水で流失し昭和11年(1936)工学博士中島武氏の設計により世界最初の鉄筋コンクリートローゼ橋として架けられた。橋長:34m,幅員:5.5m
(平成14年土木学会選奨土木遺産

  「藤村文学碑」

 「木曽路はすべて山の中・・・・」という「夜明け前」の冒頭文章の原稿が拡大されて銅板のレリーフとなって石碑に嵌めこまれている。(写真左)
 
 元の道に戻って,大手橋(珍しいコンクリートアーチ橋である 写真右)を渡り,木曽川左岸の旧国道へ,突きあたりの「木曽町木曽福島支所」

「本陣跡」

 今は一片の標石と説明板が立つのみである。
 本陣は,現在の役場および役場前広場の150坪を敷地とする。門を構え,番所に警護もされ,玄関から奥に四つの部屋,その奥が上段の間。中央に勝手と廊下があり,両側にそれぞれ二通りの部屋が並んでいた堂々たる建物であった。
 白木家が本陣と問屋を兼ねて務めた。明治半ばに取り壊され,明治39年(1906)に役場庁舎となり,昭和2年の大火で焼失し,その後現在の庁舎が建てられている。

 街道に戻り数分歩くと左手に,新しい杉玉をかかげた「七笑酒造」の店,対面に旅館「つたや」,さらに先に旅館「いわや」。そこで左折,この辺りに「脇本陣」が在ったらしい,敷地100坪,問屋を兼ねた亀子孫大夫家が務めたという。

 ちょっと先右手に


 「喜又橋」

 清水の湧き出た小川に架けられた橋を再現したもの。
喜又とは,この地を治めた十一代目当主の名で,島崎藤村の実兄とともにこの町の山林確保に私財を投げ打って町の人々の為に尽くした。人々はその天晴な人柄を想い,喜又橋と命名されたと云う。
 右に折れて急坂を上る途中の右手に「高札場跡」

 この辺りから「八沢川」に架かる「中八沢橋」まで街道は,直角に何度も曲がる「枡形」を形成しており,水場・石置き板屋根・出梁造り・袖うだつ・千本格子・なまこ壁の土蔵・・・・趣のある街並みが続き,福島宿でただ一か所往時の面影を残している「上の段」と呼ばれている地区である。

 「上の段」
は,宿より一段高い段丘上のあり,昭和2年の大火から免れた。
木曽義仲から19代目の木曽義昌の居城「上之段城」が在った所とされ,その郭内として多くの道筋が通っており由緒ある小路名が残っている。中でもなまこ壁や板張りの家屋が印象的な「寺門小路」(写真右下)は,時間があればである散策してみたかった場所である。

2/3サイズに復元された「高札場」 「上之段用水」
八沢川上流約2kmから取水されている
「寺門小路」
 突きあたりに武田信玄ゆかりの大通寺が在る。

 枡形を2か所も通って駅前通りに合流して「JR木曽福島駅」前へ向かう。宿はこの辺りまで。
駅前で小休憩。
 
 この先で道が二股に分かれている。右は,県道268号で坂を下って国道19号に通じる。左は,坂を上りJR線路を越して国道19号バイパスに通じる。
 二股の間に
「御嶽教木曽大教殿」という神社がある。これにお参りしてすぐ引き返し左手の道に進む。
すぐに右手の小径に入り,突きあたりにある
「木曽町役場」を右手に回り込み,右下に木曽川沿いに広がる木曽福島南半分の町並みを眺めながら,草道を下りきって「塩淵」集落に至る。

  集落と中央線線路に挟まれた小径を進むと地名の由来が書かれた案内板が立つ。

 「天正12年(1584)の木曽義昌朱印状に「上塩淵」,「塩淵中屋」,「塩淵彦三郎」の名が出てくる。また享保9年(1724)の岩郷村家数書上帳」には,「家数二十四軒塩ぶち」とある。シオという地名は,川の曲流部につけられることが多く,塩淵も木曽川の曲流部にできた淵とすると地形的に合う。また,塩淵には次のような言い伝えが残っている。昔,中山道を馬の背に塩を載せて運んできたところ,その馬が木曽川の淵に転落し,塩をまいてしまったことから塩淵という地名が付いた。」

 「塩淵一里塚」

 集落の中間地点,「しおぶちくらぶ(公民館か?)」と看板が掛った建物の前に小さな「一里塚跡碑」が立つ。
江戸より70里,京へ67里と刻まれている。

この先,左手の中央線の盛土の斜面に5~6体の石碑群が見える。案内板に「二十三夜様・勢至大菩薩・新田開発記念碑・堤防記念碑・塩淵開発記念碑」とある。

 右手に「県合同庁舎」の建物を望みながら200mほど進み,変電所脇で旧国道に合流し左に進む。
<県立木曽病院>信号の手前を左斜めに入る道を登る。坂道の途中から振り返ると木曽福島の南部の街並みが一望できる。
福島の町とここでお別れである。
 関西電力の
「木曽川取水ダム」(写真下左)が真下に見える。
坂の途中右手道際に小さな可愛い
道祖神が一体,静かに佇む。坂を登りきった所が,かつて「中平立場茶屋」があった中平集落。
「関電木曽川取水ダム」 「中央線廃線トンネル」

 二車線の広い道路に出て,中平の隣の「津島神社」の小さな祠がある集落「沼田野」を過ぎた辺りで中山道は消滅している。
左の田圃道を国道19号高架下を抜けて,
「中央線廃線トンネル」(中平トンネル L=166.97m,照明あり。写真上右)内を歩いて抜け,引き続き「旧中央線線路敷き」の道を進み。国道19号に合流する。(14:10)

 信号のない横断歩道を向こう側に渡り歩道を進む。
<元橋>交差点(王滝・御嶽山方面への分岐点)で再度国道左側に渡り,中央線線路に沿っておよそ200mほど行った所で,線路を「神戸架道」で潜り右折,右に歩道橋を見て小集落へ。 「神戸(ごうど)」である。
 道なりに進み静かな杉木立に入ると,右手に


 「神戸御嶽山遙拝所」

 急な石段を登って,大きな鳥居をくぐって,方向を見定めて手をかざすが,木立に阻まれてか御嶽山は全く見ることは出来なかった。
 この遙拝所は,鳥居峠・長峰峠・拝殿山と並んで御嶽の四門の一つとして古来より信仰されていた。大鳥居は,文政4年(1821)の再建。

 街道に戻り先へ進むと,右手が開け,中央線線路と国道19号のと平行した崖の中腹の道となる。
右手奥に王滝川の水をせき止めた発電用の
「木曽ダム」(重力式コンクリートダム 堤高:35.2m 堤長:132.5m 竣工:1968年)が見える。

 この辺りから雪を頂いた御嶽山を望むことができる。木曽谷の街道から御嶽山が唯一見える地だそうだ(写真下右)。


「神戸御嶽遙拝所」 王滝川の奥に御嶽山(3067m)がくっきり

 
線路沿いの草道を行く
坂を下り,JR線路をカルバートで抜けて国道に出る。「上松駅3.5km,木曽の桟1km」の表示板あり。
国道を進み直ぐに左の小径を登って10軒ほどの集落に入る。畑を耕す農婦二人あり
「ここは何ていう集落ですか?」と尋ねると「板敷野~」と教えてくれた。その先は,線路沿いの草道となり,前方に小高い塚とその上に立つ朽ちかけそうな祠が見えてくる。それが

 「沓掛馬頭観音と沓掛一里塚」

 昔,木曽義仲の名馬は人の言葉を理解することが出来,木曽の桟の絶壁に通り掛った際,義仲が目算で「73間飛べ」と号令をかけたところ,馬は命ぜられた通り正確に73間飛んだところ,実際は74間あったので人馬ともに河中に転落し,義仲は九死に一生を得たが,かわいそうに馬は死んでしまった。
 義仲は金の観音像を造り一宇を建てたという。それがこの観音堂。
義仲が討ち死にした後,金の観音像は盗まれてしまい,京都にあることを知った村人が木の観音像を作って返してもらうよう交渉したがかなわず,その木の観音像が祭られているという。

 以前は,もう少し南にあったが,明治43年の鉄道工事の折に,現在地のなんと一里塚の上に移築された。わざわざ一里塚の上に移さなくてもよいものを!

「沓掛一里塚」は,「板敷野一里塚」とも呼ばれている(京へ66里 江戸へ71里)。
山側(西側)の一基は取り壊され,川側(東側)の一基のみが前記の位置に残る。直径8m高さ約2mで,天保年間の文献には「左右とも木なし」と書かれている。
 上松で原形を留めているのはこの一基だけで貴重な存在だという。

 一里塚の手前に「立て場茶屋」が在った。

 中山道はこの先で消滅している。一里塚の手前から右に下り国道に出る。ここに「一里塚の碑」が立っている。
国道のこの区間は歩道が付いていないので,側溝の蓋の上をおよそ7~800m歩くと赤いアーチ橋が見えてくる。
上松コミュニティバス
<かけはし>停留所を過ぎて,アーチ橋を渡って木曽川右岸に出る。

 
木曽の桟(かけはし)
かけはし絵図
昔はこんな様子であったのか
ー説明板よりー
 「木曽の桟(かけはし)」
 
 「木曽の桟」の様子は対岸からの方がよく見える。
「かけはし」は,崖に杭を掛け,木の桟橋を作り,わずかに通路を開いたもので,黒部川の桟道や,古くは中国蜀の桟道にその例がある。

 昔は,岩の間に丸太と板を組み,藤づる等で結わえた桟であったが,正保4年(1647)に通行人の松明で焼失した。そこで尾張藩は翌慶安元年(1648)に長さ56間(102m),中央に8間(14.4m)の木橋を架けた石積みを完成させた。

 寛保元年(1741)の大改修と明治13年(1880)の改修と2度にわたる改修で木橋下の空間がすべて石積みとなり,残されていた木橋も明治44年(1911)には中央線工事のため取り除かれた。
現在,石垣積みの部分は国道19号の下になっているが,その全貌がほぼ完全な姿で残されていて,木曽八景の一つとしても数えられ往時の木曽路の険しさを偲ばせる貴重な遺構である。

 現国道の上部斜面には,明治43年のトンネル工法やその後に施されたアンカー工法やコンクリート擁壁など数種の斜面安定工を瞥見でき,この区間が木曽路の一大難所であったことを物語っている。
なお現中央線は延長およそ800mのトンネルでここを通過している。

 対岸には,「明治天皇聖蹟」,「芭蕉句碑」,「子規句碑など」,「馬頭観音」などが並ぶ。

    なかなかに 言いもはなたで信濃なる 木曽路のはしのかけたるやなそ  (拾遺集) 源頼光

    浪と見る 雲を分けて漕ぎ渡る 木曽の桟 底も見えねば           (山家集) 西行

    かけはしや いのちをからむ 蔦かずら                       (更科紀行) 芭蕉

    かけはしやあぶない処に山つつじ
    桟や水へとどかず五月雨
    むかしたれ 雲のゆききのあとつけて わたしそめけん 木曽のかけはし
           子規


 上流側には「桟温泉」がある。
ゆっくりつかって身体を休めながら木曽川の景観を楽しみたいところであるが,残念ながら時間的余裕がない。

 中山道は,対岸の木曽川左岸の国道に沿っていたというが,この国道は少し先で歩道がなくなり,トレーラーや大型トラックがびゅんびゅん飛ばす脇を,わずか50cm足らずの側帯を歩かねばならない。非常に危険なので,私たちは木曽川右岸道路を南に向かうこととした。


 途中に,「木曽の桟」を模した観光用の桟道が設けられている(写真下左 ),「賽の河原」と呼ばれている辺りから雪をいただいた中央アルプスの山々(麦草岳・牙岩・駒ケ岳・宝剣岳・三の沢岳など)が見える(写真下中央))。
舗装工事中の区間や,新設橋梁の橋台工事中個所などを過ぎ,およそ2kmちょっとで,「左:上松方面,右:赤沢自然休養林方面」の分岐点へ。

観光用に再現した
木曽の桟(かけはし)
三の沢岳
 駒ケ岳・宝剣岳の南方に位置する
標高2846m
鬼淵橋
右の赤錆びた鉄橋が森林鉄道曲弦トラス,長さ94.6m
大正3年(1914)竣工

 左手の道を進むと木曽川に架かる2本の「鬼淵橋」(写真上右)に至る。
 右側(上流側)の小さい方が,現在使われていない旧森林鉄道小川森林鉄道)のトロッコが昭和50年(1975)まで走っていた鉄橋で,現存する最古のトラス橋と云われている。

 木曽川左岸に渡り少し先にあるループ橋の下を左折・右折を数回繰り返してJR中央西線のボックスカルバートをくぐって,国道19号の<十王橋>交差点に出る(外気温は9℃)。

 横断歩道を渡って,一級河川十王沢川に架かる歩行者用<十王橋>(15:55)

 本日はここまで!歩数:17800歩 歩行距離:およそ10.5km

 今夜の宿は,上松寝覚ノ床近くの「ねざめホテル」 。
東側の窓から「木曽八景駒ケ岳の夕照」ならぬ「駒ケ岳に懸かる満月」が見事であった。
”トロン温泉”で身体をほぐし地酒を戴いて明日への英気を養う。明日も天気はよさそうだ!
 
 
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