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中山道69次を歩く第25回)野尻~三留野宿~妻籠宿~馬籠宿~落合宿~中津川 その1              
 010年1月12~14日

(歩程 63,000歩 約38km)

 雪が降りしきる街道を三留野宿へ

 『一日目』

  権兵衛トンネルを抜けると一面の雪景色。
 今回は,雪を覚悟の街道歩きとなりそうだ!
 
道の駅「大桑」で昼食,(12:20) 野尻宿南の国道にあるコンビニ店からスタート。
 天候:雪  参加者 17名(男性:7,女性10)
  
須佐男神社
読書(よみかき)ダム

 まず寄り道,コンビニ店のすぐ先左手の高みにある神社にお参りして行程の安全を祈ってから街道歩きを始めることとする。

 初っ端から,
凍結して路面がツルツルになった坂道に苦労しながら進む。

「須佐男神社」

 創祀年代不明。須佐男命を祭神として祀り,平安時代中期頃から疫病除け・豊作・招福の神として信仰されてきた。
 正徳5年(1715)6月18日”蛇抜け”によって社殿・神輿諸共流失し,翌享保元年2月に現在地に遷座された。遷座200年・250年記念碑と狛犬一対が建立されている(村指定文化財)。

 中山道(県道261号)に戻り,街道歩きを開始 12:45
国道と線路に挟まれたバラバラと民家が点在する県道を行く。
くわちゃんバス「下在一」停留所>あり。
この辺りに江戸から77番目の
「下在郷一里塚」があった所か?

 
宮の沢という小さな橋を渡りおよそ900mで,いったん国道に接近(<野尻信号>)するが,国道には出ずそのまま直進,<旧第3中仙道踏切>を右手に過ぎしばらく先で<第13仲仙道踏切>で線路を木曽川側に渡る。本来の中山道は踏切を渡らずまっすぐ行くのだが,途中で道が消えてしまっていると云う(しらなみ坂)。
 線路を左に見ながら更に700mほどで,
<第14中仙道踏切>を渡り線路の左手に出て更に進む。 13:15

右手に

 「読書ダム」

 関西電力の5門のラジアルゲートを備えた発電用ダム。
ここで取水された水はおよそ8km下流の読書発電所に送られ約1.5万kwの電力を生み出している。

 読書は「よみかき」と読む,「どくしょ」ではない。。よかわ(与川)とみどの(三留野)とかきぞれ(柿其)が合併しよみかきと称されるようになった,現在は南木曽町。

 すぐ先に小さな集落があり,「新茶屋立場」があった場所だと云うが今はその面影はまったく残っていない。
 
(13:25) 国道に合流し,向かい側に横断し小さな橋(八人石沢)を渡ってから(ここが大桑村と南木曽町の境界)左折し,U字状坂道を上った所に

 「八人石」(石仏群) 

 宝暦10年(1760)建立の観音像を始め弘化3年(1846)の二十三夜塔,文政2年(1819)の馬頭観音や庚申塔など多数の石像物がある。

 その先が
「十二兼(じゅうにかね)」 

 
立て場があったというが,いまは静かな集落。

 先の下り坂の途中左手に
 「熊野神社」 (13:35

 
牛の絵馬が懸かる。十二兼は牛方を多く輩出した栄えたという。

 降りしきる雪の中,道路の雪かきをしている地元の人がいる,一日に3度雪かきしておかないと圧雪状態となってしまうので,返って始末が悪くなるので面倒だが一日に3度の雪かきをするという。今朝は一晩で15cmほど積もったそうだ。
熊野神社 雪掻きする里人 水路トンネル内の仮設通路 十二兼駅舎

 坂を下って国道に出る(
<十二兼北信号><十二兼バス停>)。
迂回路の案内板に従って左手に下り水路トンネル内に足場パイプで仮設された歩道で国道とJR線路をくぐりぬけて,中山道に復帰。線路と木曽川の間の道を行くとすぐ左手に小さな駅舎。

「十二兼駅」

 元々は信号場として造られ,昭和23年(1948)に駅に昇格。
対向式二面のホーム,周囲に民家がほとんどない谷あいの小さな無人駅である。駅前に柿其渓谷散策路の案内板が建つ。

 駅のトイレを拝借して小休憩。雪降りやまず,外気温は1.8℃,歩かないでいると身体が冷えてくる。
2・3分行った地点の左手国道の向こう側
<十二兼南>信号の傍らに

「十二兼一里塚碑」

 木立は左なし,右松。江戸へ78里。

 更に先に進むと,右手に木曽川に架かる「柿其(かきぞれ)橋」14:20

「南寝覚」
 
 
橋の上から上流側の花崗岩の方状節理の眺めが素晴らしい。寝覚ノ床のミニチュア版である。「柿其峡」とも云われる。
 柿其橋を渡った先には,読書ダムから読書発電所への導水路の一区間柿其川を渡る「柿其水路橋」がある。鉄筋コンクリート製。全長142.4m,中央部2連アーチ,現存する戦前の水路橋の中では我が国最大級で国重要文化財に指定されている。私は4年ほど前に妻と訪れている。


 更に100mほど先の右手に14:25

「中川原明治天皇御小休憩所跡」

 
明治13年(1880)6月26日,ここ中川原に着き羅天の難所を前にして桜井太助宅においてしばし休憩したという。「御小休所碑」が大正2年(1913)に,「御膳水碑」が昭和9年(1934)にそれぞれ建立された。昭和40年(1965)と平成5年(1993)の2度にわたる国道19号改良工事によってこの場所に公園を整備して移設されたという。
羅天付近のJR線の洞門
 この辺りのJR線は複線化されているが,上り線は第一羅天トンネルおよび第二羅天トンネルで通過している。
 
 (14:30) <柿其入口信号>で,国道に合流し川側の歩道を進む。右手に「産廃中間処理場工場」を過ぎ,「桃助橋」まで4kmという案内板を横目に見ながらしばらくてくてく歩く。
 まもなく

 「羅天の桟」

 
<柿其入口>から<与川橋>までのおよそ1.5kmの区間は,木曽路屈指の難所と言われた「羅天の桟道」があった所。
慶安元年(1648)切り立った断崖を開削して開通したが,その後も蛇抜けや出水で度々通行止めとなるため迂回路としての「与川道」が造られた。

 島崎藤村の「夜明け前」の冒頭に

 「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり,あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり,あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。」

 と書かれている場所である。

 江戸時代の「木曽名所図会」には,
 
 「野尻より三留野までおよそ二里半 道は深き木曽川に沿いせまき所は木を切り渡しつた・かずらにてからめてその巾をおぎない馬にも乗りがたきはなはだ危うきところあり お気をつけめされい」

 と書き添えてあったとか・・・・。
今は,国道が改良されていて木曽川の風景を楽しみながら幅広の歩道を歩くことが出来る。

与川道分岐

 国道に面白い信号機を発見!

 左写真のような信号機の下に「居眠り防止装置」と書いてあって,赤信号が点滅し,”ピヨ・ピヨ・ピヨ・・・・」という電子音を発生している。トラックの運転台ではこの音は聞こえないであろう。はたして効果があるのか疑問に感じる!!

 
(14:58) しばらく行ったあたりの木曽川寄りに数軒の家が建つ。

「金知屋(かなちや)」という集落である。

江戸時代は牛方の集落であったが,明治になって鉄道敷設の際に消滅したという。

 
(15:00) 「金知屋」を過ぎて200mほど,国道と分かれて左手の線路と国道の間の道(県道264 南木曽停車場線)に入り「三味坂」を上がる。およそ300mほど先に

 「金知屋一里塚跡」があったというが,いまは何らの痕跡も無し。江戸から79番目の一里塚である。

 JRガードをくぐって線路の左側を進み,坂を登りきった所が枡形
ここから「三留野宿」である。
左手から合流する道が「与川道」。宿の入口が「与川道追分」となっている。(15:15)

 「与川(よがわ)道」


 野尻宿と三留野宿の間の木曽川沿いの中山道は,羅天という難所があり水害で度々通行不能となり,その迂回路として野尻~与川~上の原から三留野へと峠越えする与川道が出来てよく利用された。
 中山道より遠回りにはなるが(南木曽追分より野尻駅まで14.7km),足止めされた旅人にとっては有難い迂回路であった。
江戸時代に京都から江戸の将軍家へ六人の姫君が中山道を通って降嫁しているが,うち二人までが与川道を用いている。享保16年(1731)の伏見宮家王女比宮(なみのみや)と文化元年(1804)の有栖川家王女楽宮である。前者の通行の際に,尾張藩が延5300人を動員して与川道を整備したと云う。

三留野宿 みどのじゅく
 
 江戸から79里27町7間,町並み2町15間。日本橋から41番目の宿場。

 かつては妻籠と並んで栄えた宿場。
中世から砦や館が造られこの地域の中心として中山道以前からの川西古道が通っていた時代から交通の要地であった。慶長6年(1601)宿場として整備されたが,万治元年(1658)・延宝6年(1678)・天和元年(1704)・宝永元年(1704)と合計4度の火災に遭い,宿の殆んどを失って,一時は廃宿状態となった。

 明治時代には国道が通り鉄道も開通して,JR南木曽駅周辺に町の中心が移り,本来の宿場は急速に衰退した。
 ちなみに三留野とは,木曽氏の館があった頃「御殿(みどの)」と呼ばれたことに由来すると云う。

 明治14年(1881)の大火で、明治天皇が宿泊した本陣を含めて宿場の殆んどをが焼失し当時の面影は全く失われてしまった。現在の建物はそれ以降のものである。

 人口594人(男:310人 女:284人) 家数:77軒 本陣:1 脇本陣:1  問屋:2 旅籠:32

 
 両側に出梁(だしばり)造りや卯建(うだつ)のある古い家(と言っても明治14年の大火以降のもの)が,わずかに残る町並みを進む。「ほなみ屋」とか「大家」とか「島田屋」といった屋号を掲げている。

 宿場の中ほど左手に

 「脇本陣跡」

 三留野村の庄屋であった宮川家が代々務めた。
本陣の鮎沢家,問屋の藤野家などとともに宿の指導的な役割を荷ったと云う。当時の建物は現存していないが,子孫と思われる「宮川」という表札を掲げている(写真右)。

 その斜め向かい側に

 「鮎沢家本陣跡」

 建物は明治の大火で焼失。現在は森林組合の建物が建っている。
文久元年(1861)に皇女和宮一行が宿泊,また大火の前年,明治13年(1880)の天皇巡行の際,宿泊所となりそれを記念する「明治天皇行在所記念碑」が建つ。

 鮎沢家の屋敷内の庭木として愛育されたという「枝垂れ梅」の古木が,往時を偲ばせる。立つ。

 少し先で,いったん右手の階段を下り幾分細い道を直進し「常夜灯」の先で坂を上ってまた元の道に合流。
<梨沢橋>で,<梨沢川>(階段状の床固め工が連続して設置されており昔は”蛇抜け”が頻繁に発生した沢筋であったと推察される)を渡って左折し,右手「南木曽小学校」の前で左折,再度梨沢川を渡って200mほど先右手に

 

等覚寺楼門

道端に祀られていた
円空仏のパプリカ?
  「等覚寺(とうかくじ)」
 江戸時代初期に創建された曹洞宗の古刹,四代目龍和和尚が貞享3年(1686)に境内に一宇を建立した。山門を入って左手円空堂に円空仏(えんくうぶつ)が三体安置されている。
 円空は,美濃の生まれで江戸初期の行脚僧で一生に12万体の仏像を造ることを祈願した。貞享の頃三留野に滞在し造像に励んだと云われ,等覚寺には韋駄天像・弁財天座像・天神像の三体が保存されている。

 参観に先んじて「まずお賽銭を上げてください」と寺側から事前催促されたらしいが,遅れて山門をくぐった私は,それを知らずに無賃参観。

 

 元の道に引き返す途中,ちょうど小学校の生徒達の下校時に遭う。
田舎の子供たちは元気で快活だ!向こうから「こんにちは!」と挨拶してくる。校門の前から3台のスクールバスが次々と発車する,
南木曽町は,与川北部三留野妻籠広瀬田立の7集落からなる広い町である,きっと遠くから通ってくるのであろう。

 
梨沢橋で街道に戻り,「菱屋」という民家の軒先を抜けて県道に出て左折して直進すると「営林署南木曽支所」の前に出る。
ここで道は二股に分かれる。中山道は左手の直進するが,今日の街道歩きはここまでとし,木曽川に架かる
「桃助橋」に寄り道してバスの待つ木曽川右岸の「天白公園」へ向かうこととする。

 営林署の二股道の右手を下り,JR線路を跨線橋で渡り南木曽の町へ,右に郵便局,
<蛇抜け沢><蛇抜け橋>で渡ってすぐ右折すると,

 「桃助橋」である。

 大正の電力王と言われた福沢桃助が大正12年に読書水力発電所建設工事に際して資材運搬路として木曽川に架けた吊り橋。木製補強桁をもつ吊り橋としては日本有数の長大橋である。平成5年9月ふるさと創生基金を使って復元された。
 渡った先が「天白公園」(四月中旬ミツバツツジが一面を真っ赤に染める),その先に「福沢桃助記念館」「山の歴史館」がある。

 4年ほど前にここを訪れた際,「読書発電所・桃助橋」として記録してあるので,そこにリンクを張ることにする。

 本日はここまで!歩数:18600歩 歩行距離:およそ11km (16:15)

 今夜の宿は,上中津川市神坂 
湯舟沢温泉「ホテル花更紗」
クアハウス付きのヌルヌル・すべすべのナトリウ炭酸水素泉(いわゆる重曹泉)に浸り,冷えた体を温める。

 
  
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