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中山道69次を歩く(第26回)中津川宿から細久手宿その1(一日目)           
 
010年2月16~18日
(歩程 58,400歩 約35km)

 『一日目』

 朝7時半新宿発。
 中央自動車道談合坂サービスエーリアでは,雪模様の天候となる。民家の屋根は早くも白くなり,八ヶ岳は3合目以上が雲の中,伊那に入ると景色は銀世界となり今日の天候が心配されたが,恵那山トンネルを抜けると曇り空ながら天気は大きく崩れる事がなさそう。ホッ!
 (11:15)前回歩き終えた中津川市新町交差点>「和菓子店すや」の前からスタート。
参加者は11人(男性:5人,女性:6人)。天気:曇り

   
 中津川宿 なかつがわしゅく
 
 江戸から85里12町8間,町並み10町7間。

 奈良・平安時代から東山道の要衝の地にあり,落合宿から一里の飛騨路と美濃路が交差する街道基点の宿で商業の中心地として栄えた。商家が60軒もあって,扱われた商品は,穀物・塩・酒・呉服・木綿・紙など,三・八の日には市(六斉市)で賑わい,美濃路屈指の宿駅であった。 

 江戸方より商家が多い新町,本陣・脇本陣のある本町,古い建物が残っている横町と続き,比較的火災が少なかったので古い建物が残っている。とくに京方の枡形がある横町には江戸時代に建てられた家が軒を連ね往時の面影が残る。

 四ツ目川,川上川(中津川)がつくった扇状地の扇端部にあるため水害にも悩まされた。宿の主要な施設のある本町は地形上一番高い位置にある。

 人口928人(男:454人 女:474人) 家数:228軒 本陣:1 脇本陣:1  旅籠:30

桂小五郎隠れ家跡
間家大正の蔵
 
「和菓子店すや」のちょっと先右手「愛知銀行」が建つ場所が,近代日本画壇の重鎮「前田青邨」が生まれた所。
「前田青邨画伯誕生之地」
 案内石碑が立つ。前田画伯は”法隆寺壁画修復”や”高松塚古墳壁画模写”に深くかかわっている。ここから少しばかり離れた木曽川右岸の苗木城跡に「青邨記念館」があると云う。

 さらに100mほど「JA東美濃」の先の水路に沿った横丁を左手に入り右・左と鉤型に曲がった右手に

「桂小五郎隠れ家跡(もと料亭「やけ山」)」
 

 尊王攘夷を唱える長州藩士桂小五郎(後の木戸孝允)は京へ向かう藩主毛利慶親を待つためこの料亭「やけ山」に身を隠し間邸で行われた明治維新史に名が残る「中津川会談(文久2年(1862)6月3日)」を行った。やがて桂の主張により長州藩は尊皇倒幕へと傾いていったという歴史の陰の舞台である。

 街道に戻り西新町を更に100mほど,中津川郵便局の先隣りに

「間家大正の蔵」


 東美濃随一の豪商といわれた間杢左衛門の屋敷跡。
郵便局の敷地を含めて3000㎡の敷地内に総2階建ての母屋・庭園付き座敷・茶室・8つの土蔵があったと云う。
現在,大正5年(1916)に建てられた鉄筋コンクリートが使われた珍しい蔵一つだけが残っている(市有形文化財)。他は昭和28年に取り壊されたと云う。
 蔵の所有者であった間家は江戸時代の始め頃中津川村に移り住みここ新町に屋敷を構えた。塩などの仲買業務の商売を始め金銭の貸付を行って東濃随一の豪商と言われるようになり,多くの間家一族とともに政治・経済・文化に大きな足跡を残した。
 一族に3人の赤穂浪士がいると云う。

「大正の蔵」の対面に冠木門があり,卯建の家・酒屋・土蔵など当時の宿場筋を復元した「往来庭」がある。突きあたりに,土蔵風のトイレがあり前に立つと壁面に”招き猫”が現われる仕組みが設置されている。

 「往来亭」の6,70m先に「四つ目川」
 
しばしば氾濫した暴れ川で,現在は四つ目の川筋なので”四つ目”なのだという。黒御影石で造られた街道風の石橋を渡ると宿の中心「本町」となる。

 左手に「中津川市中山道歴史資料館」がある。

「脇本陣跡碑」「明治天皇中津川行在所跡碑」が立つ。

「歴史資料館」は,NTT西日本中津川ビルを借用して開館され,中津川の旧家に伝わる重要な古文書・公文書等、とくに幕末の中津川の状況を伝える資料類が多数・継続的に収集保存され市民共有の記録遺産として永く後世に伝えるとともに広く公開されている。第一展示室では,「夜明け前の跡を訪ねて」と題して地元の写真家故白木益三さんが「夜明け前」の舞台を尋ねて撮影した厳選68枚の写真が展示されていた。(4月11日まで)
70歳代の博識な方が館内を案内・説明をしてくれた。(入館料260円)。
 時間があればもっとゆっくり閲覧したいのだが・・・・・。
 資料館裏手には、この場所にあった「旧脇本陣森家の上段の間」が復元されている。

脇本陣跡(現在は「資料館」)の先に立派な卯建の上がった大きな建物が

 「中津川庄屋の家」

 中津川村は,七つに分かれ,それぞれの郷村には小庄屋がおかれ,それを総括する大庄屋があった。これが中津川村の庄屋で享保年間から明治5年まで長く庄屋を務めた。
幕末の当主肥田九郎兵衛(「夜明け前」に小野三郎兵衛の名で登場する)が住んでいた家が残り,間口を広くとった大きな卯建を持つ堂々とした風格は往時の庄屋屋敷を偲ばせ本町界隈では当時の面影を最もよく残している建物である。「曽我家住宅」「旧肥田家住宅」とも呼ばれている。

 「歴史資料館」の対面が

  「本陣跡」

 本陣は,建坪283坪の広大な屋敷であった。参勤交代の諸大名・勅使・公家・幕臣が宿泊し,皇女和宮も降嫁の際にここを利用した。
市岡家が任に当たり,本陣で使われていた欄間・正面の扉・古文書などの遺構・遺物が現在の市岡家に伝わっていると云う。
本陣の入口には5軒続きの長屋がたち,その中央の1軒分が門となっていて門右手の1軒分が問屋場で,門をくぐると表庭がありその奥に建坪283坪の本陣。玄関の奥には玄関の間・ついで3の間・次の間・上段の間へと続く。上段の間は九畳で床の間を設け備後表で大紋縁付きの上畳みが2畳敷かれていたという。
 石碑と案内板が立つのみで,いまは何も残っていない,現在駐車場。

中津川市歴史資料館(旧本陣跡) 脇本陣上段の間(復元) 中津川庄屋の家

 150mほど先で街道は突きあたって左に曲がり更に100m足らずで右に曲がる枡形道となる。
この辺りが「横町」で,松霞堂(可児家)・天満屋(古井家)・旧中川屋(杉本屋)・十八屋(間家)・白木屋(横井家)と往時を彷彿とさせる家並みが続く。

 
横町界隈
常夜燈と旧中山道
 横町のほぼ中央右手に,元治元年(1863)創業の「和菓子店川上屋」
 ここで女性陣は買い物休憩,私も甘いもの好きの孫たちのお土産に「栗饅頭」を買い込み,崩れないよう箱に入れてザックに納める。

 枡形の京方の角に,昔懐かしい「たばこ屋さん」と向かいに菰かぶりと杉玉,卯建の上がる蔵元「はざま酒造」(地酒恵那山の樽を店先に積んでいる)。

 ここから「下町」
すぐ先,右手に常夜燈があり,その手前から右手へ下る細い道(写真右上)がある。この道が中津川(旧川上川)に達する本来の中山道だが,現在は行き止まりで昔の姿を留めていない。かつてこの辺りにも「高札場」があったと伝えられている。

 100mほど先で小さな水路を「中央橋」で渡り更に7,80m先で,地名の由来となった「中津川」「中津川橋」で渡る。橋の上から左手後方に「恵那山」がよく見える。宿場はここまで。

 田舎道を5分ほど進み,二股を左に進み坂石屋坂?)を登る(13:30)。途中,右手に文化3年(1806)の馬頭観音3体,妙法塔あり。
広い道を横断して中山道案内表示板にに従って5分ほど進み,「市川製茶」工場前に

 「駒場(こまんば)村高札場跡」

 案内石柱があるのみ。

(13:40) 前川を「上宿場橋」で渡る。
更に350mほど先で,
「小手の木坂(こでのきさか)」という場所に至る。

 前川の辺り一帯は広い田圃が広がり,高官を迎える駅館,駅子等の住家や30頭の馬屋など多くの建物が在ったとされ,ここ駒場(こまんば)村には東山道時代の「坂本駅」が置かれていたのではないかと考えられている。古代,近江と陸奥を結ぶ東山道は,都から美濃国坂本駅を経て信濃国阿智駅へと通じていた。この二駅間は距離が長い上に急峻な神坂峠(標高(1595m)を控え道中でも名の知れた難所であり,両駅間には通常の2~3倍の駅馬が用意され輸送に当たる駅子にも免税の恩典が与えられていたという。

中津川橋より恵那山 駒場村の高札場跡碑 双頭一身道祖神 上宿一里塚

 階段を登った先のT字路が「苗木道」「中山道」の分岐点。右角に

 「双頭一身道祖神」

 石像の左上に「是より苗木道」と彫られたこの道祖神は,中山道の通称「小手木(おでのき)坂」の頂きにあり道しるべとして中山道から分かれる「苗木道」との分岐点にあった。文化13年(1816)に建立され男女別々の頭部を持ち肩から足元にかけて一体となっている珍しい石像物である。

 すぐ先に

 「上宿(かみじゅく)一里塚跡」

 江戸から85番目。左右とも消滅してしまったのを,昭和9年(1934)北側だけがおよそ1/3くらいの大きさで復元されている。

200mほど先右手の休憩所(トイレ付)で休憩。
更に500mくらい進みSカーブ坂を登り
(14:03)更に250mほど進むと,右手に

 「小石塚立場跡碑」

 古くは千旦林(せんだばやし)村と手金野村の境に当たり茶屋など有ったという。「恋し塚」とも云う。江戸初期の「五輪板碑」「石仏」が残る。
木曽家の有力武士の一人で千旦林に居を構え千旦林八幡神社の再建に尽くしたと云う「嵐讃岐供養碑」(寛永3年(1626)建立)もここに移設されている。

 国道19号と県道257号の合流点(中津川インター)に当たり中山道は約500m区間ほど消滅している。左上図の如く道路沿いに迂回するしかない。右手に<会所沢>信号

 階段を下り国道の脇道を行く,左:歩道橋,右:東鉄バス<中津川インター>バス停の先を右手に入る道(ここで中山道に復帰か?)に進む。右手にJR中央線の線路,特急「しなの」が走り抜けていく。

 民家がまばらな静かな街道を緩く下っていくと(14:20) 東鉄バス<六地蔵>,右手に

 「六地蔵石幢(せきどう)」

 石碑の六面に地蔵のレリーフ。
中山道から寺への入口に建てられるもの。100mほど南にある大林寺の入口用として明暦3年(1657)に造立され,当時しばしば見舞われた水害を仏にすがって避ける事,中山道を行き交う旅人の道中安全をも祈願していた。石幢は六地蔵信仰と結びつき龕部に六地蔵を彫る石灯籠型の六地蔵は,室町末期から多くなるがこの地域ではきわめて珍しいという。隣に宝永6年(1709)の名号碑がある。

 ダラダラ坂を350mほど下ると東鉄バス<千旦林(せんだばやし)>バス停。(14:26)
その先を右折してJR中央線踏切を渡って突きあたりに

  
 「坂本神社八幡宮」

 祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)・大山祇神(おおやまづみのかみ)。
創建は大宝2年(702)で,延喜式に「美濃国恵奈郡三座中筆頭に坂本神社」とある。八幡宮の呼称は天平9年(737)続日本紀に発見され,千駄木の住人星野久左衛門が九州豊前宇佐八幡宮より勧請奉祀した。木彫りの神像が13体もあると云う。

 街道から参道に入ってすぐ左手に明治6年(1873)5月学制による中津興風義校(南小学校)の三番支校として設置された「松風義校(千旦林学校)跡」がある。

六地蔵 坂本神社八幡宮
神社本体は踏切の向こう側
千旦林村の高札場跡 中山道は左の田圃道へ

 街道に戻り少し先右手に「高札場跡碑」。左手に立派な民家。「東巣橋(みそうのばし)」を渡り左角に「馬頭観音」
(14:50) 300mほど先で道は二股に分かれる。左の田圃の中ののどかな細い道へ進む。
 
三つ家一里塚
現在は何見残っていない
三面馬頭観音
およそ1km近く民家のまばらな道を淡々と歩む。
 地下横断歩道の手前,右手に
「三つ家一里塚跡」 江戸から86番目,案内石柱が在るだけ。

(15:05)
 広い道を渡って右手に
「三面馬頭観音」

 一里塚から360mほど左手に小さな池が在り,往時「馬の水飲み場」であったと云う。

 四つ角の対角に,「坂本立場跡碑」
何も残っていない。ここは千旦林村と次の茄子川村の境界だった場所だという。

両側が竹林の急な坂(坂本坂)を下る。途中左手道路際に10体ほどの石塔群がある。

 美濃坂本駅に通じる県道420号を越し,茄子(なすび)川「坂本橋」で渡り,茄子川(なすびがわ)の町に入る。
小さな沢を渡って左手に「高札場跡」「尾州白木番所跡」

(15:20) 東町で県道410号苗木恵那線に合流し町中を進む。

(15:25) 左手に「茄子川茶屋本陣篠原家」
篠原家と左常夜燈
 茄子川村の庄屋で,幕末には酒造業もしていた。角に常夜燈が立つ。
 江戸時代の初期の茄子川村は尾張徳川家・その給人の山村氏(木曽方)・千村氏(久々利方)・それに旗本馬場氏ら8名の入相支配地で村高6368石余のこの付近でも大きな村の一つであった。
 中山道は村内を東西に縦断し,中町通りの西はずれにある左右二つの常夜燈は安永5年(1776)&享和年(1803)に建てられ「是よりあきはみち」と刻まれている。この常夜燈が遠州秋葉道との分岐点となっていた。
 
 ここから中津川宿まで1里23町11間(約6.4km),大井宿まで1里(約4km)で両宿間2里半6町(約10.5km)という長丁場のためここに「茄子川御小休所(篠原家)」が置かれ,中山道の休泊施設として本陣や脇本陣と同様な役割を果たしていた。
和宮や明治天皇もここで休息をとったと云う。「明治天皇茄子川御小休所 附御水」と刻まれた石碑がたっている。

大井宿(恵那市)へ

 茄子川村を抜けてきつい坂を登り,左手に「広久手集会所」。その先400mほどで「是より大井」と刻まれた石碑(右写真)がある。(15:40)

 ここで,中津川市から恵那市に入る。
すぐ先右手に
「三面馬頭観音」坂を下って<岡瀬沢交差点>濁川を「筋違橋」で渡って「岡瀬沢」の集落に入る。

 「岡瀬沢」は慶長7年(1562)に中山道伝馬制度が定められて以来,村造りが進み大井村支村岡瀬澤として成立し中山道に沿った約30戸がその中心集落となった。。幕末から明治中頃にかけては木曽からの運送業者の宿や茶屋などもあった。中央線開通後は養蚕業と桑苗造りの村として恵那郡内で著名となったという。
 
 
現在の甚平坂
広重の大井甚平峠

 
「ふ~ふ~」云いながら「甚平坂」と呼ばれる急坂を登って行くと,向こうから3人4人と連れ立った小学生が「こんにちは~」と元気な声をかけてすれ違う。すぐ先右手にある「恵那市大井第二小学校」の下校時にぶつかったようだ。田舎の子供たちは礼儀正しい。

 甚平坂は急坂だったので明治天皇巡行の際,頂上付近を削り茶屋が造られ,その跡に公園が造られ展望台も出来ている。展望台からは,恵那山・御嶽山が見えるはずだが,今日は曇り空。残念残念!!

 公園の先,甚平坂を登りきった左手の38段の急な石段を登った所に

「根津神社」

 本殿の裏手に「関戸宝篋印塔」
 源頼朝の御家人で信州の人と言われる根津甚平の墳墓,または供養塔と伝えられている。「長国寺縁起」によれば,「文治3年(1187),長興寺妊観音に祈願して一子小太郎を得たお礼に長興寺の北にあった火災で荒れていた大悲山長谷寺を再建し寺地を寄進して稲荷山長国寺とする。根津甚平は建久年間(1190~98)信州桔梗ヶ原の八重羽のキジという怪鳥を鷹と犬を連れて退治に向かったが,鷹匠は甚平坂で,鷹と犬は日吉村で倒れる。建暦3年(1212)、甚平は再び大井を訪れ,死んだ後は岐蘇山道の脇に埋葬してくれと遺言した。」とあり,この宝篋印塔(高さ1.8m)が根津甚平の墳墓であることを伝えている。県内でも最大を誇る宝篋印塔の1つで鎌倉期のものともいわれる。


 根津神社の先100m左手に

「関戸一里塚跡」

 石柱のみ,大正時代になって開墾が進み塚は取り壊されて何も残っていない。この辺りは上宿集落で当初はこの辺りに宿場が在ったと云うが今は何の名残りもない。

 500mほど先で県道401号に突きあたり左折して右にカーブを描きながら下る。途中左手の道路斜面に
「長石塔」

 これは大井宿の長国寺4世丹山和尚が村内安全の為に延宝8年(1680)に立てたもの。高さは3.62mある。

 中央自動車道を渡った先右手に

「菅原神社」

 江戸時代の初め,慶長年間の創建。学問や商売繁盛の神様として敬われている。
 
 
 本日はここまで。
待機していたバスに乗って今夜の宿
「恵那峡奥戸温泉 恵那峡グランドホテル」に向かう。
 宿は,福沢桃助が造った
「大井ダム」のすぐ上流。ダム湖を眼下に望む絶景の場所にある。温泉は「カルシュウム・ナトリュウムー塩化物泉」37.5℃ 物凄く塩からい。

 ホテル着 (16:30)19300歩 およそ11.5km。
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