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中山道69次を歩く(第27回)御嵩宿~伏見宿~太田宿~鵜沼宿 その1            
 010年3月16~18日
(歩程 68,000歩 約41km)

 『一日目』

 今回からは,東京駅に集合して新幹線を利用する。07:33発のひかり503号に乗車,名古屋着09:21。
名古屋駅からバスで,前回終了地点の細久手宿西はずれに向かう。
 参加者は14人(男性:5人,女性:9人)。

 名古屋高速環状線~同小牧線~東名高速~中央自動車道を経由して土岐ICで一般道へ。前回終了地点「細久手宿西はずれ」に行く前にちょっと寄り道,中山道筋から1kmほど北に外れた所にある
「開元院」を訪れた(10:45)
 その後,土岐IC近くの国道21号「道の駅志野織部」で昼食を摂る。

 
細久手宿西の外れ「日吉愛宕神社」前に12時20分着。
ストレッチ体操をしたのち街道歩き開始!
(12:30)

 
  
開元院山門
細久手坂の穴観音
 
「鷹巣山開元院(ようそうざんかいげんいん)」

 開元院は,室町時代の永享11年(1439)美濃源氏土岐頼元の創建,嘉吉3年(1443)月泉性印(げっせんしょういん)和尚が開基したと伝えられる曹洞宗のお寺。
 山門は瑞浪市有形文化財,享和元年(
1801)に造られ間口4.66m,奥行3.5m,古刹にふさわしい様式と美しさをそなえて,折から満開の紅梅をバックに静寂な山里に佇んでいた。本尊は,木造観世音菩薩(岐阜県有形文化財)で檜材の寄木造りの玉眼・髪際波型の座像,その形から鎌倉様式であることがうかがわれ,像底の墨書銘に南北朝時代初期の文和5年(1356)の年号が記されている。美濃守護職土岐氏の菩提寺。

 「日吉愛宕神社鳥居」前から出発して直ぐ右手に

 「細久手坂の穴観音」

 石垣で囲まれた穴の中に馬頭観音。1回お参りすると9万9千回分のご利益があると伝えられ「九万九千日観音」とも呼ばれて宿の住人や旅人から信仰を受けた石仏。
 この地方には石仏を石窟内に祀る様式が多いように見受けられる,この後もしばしば石窟仏像を見ることになる。

 鶯の鳴き声を聞きながら300mほど進んだ右手に小さな祠がある。

「津島神社」

 尾張津島神社,京都八坂神社,東京天王社の分社で12世紀後半より津島社として文献に残る。
防疫の神牛頭天王が旅に飢えた際,蘇民将来にわら蒲団と粟の飯をごちそうになり,その礼として護符を与え旅の災いと厄病が発生してもこれを持つ者は助かると告げた。以来この護符を「蘇民将来」と呼び厄病除けは勿論,交通安全の護符として信仰されたという。
 同じような話が,佐久路塩名田宿駒形神社の岩村田寄りにある「妙楽寺」にもあった。
 案内板に「蘇民将来」の希望者は細久手郵便局へ,と書いてあるが,郵便局は既に廃止されてしまった。

 この先で道は二つに分かれる,左は県道312号,右は県道65号。右手の道に進み4,5分で右手に「旧中山道くじ場跡碑」。この辺りに茶屋があり賭博場もあった場所だという。今は石碑だけがひっそりと建つ。

 緩い坂道を下り
県道大西瑞浪線と合流し,<平岩橋>を渡り<平岩の辻>県道366号と交差する。角に「南 まつのこ おに岩道,西つはしみたけ道」と書かれた道標がある。直進して坂道を200m程上って左手の砂利道に入る。角に「左 中仙道 西の坂 旅人の上り下りや西の坂」なる道標あり。
直ぐ先右手に
 

 「秋葉坂三尊石窟」

 
秋葉坂三尊石窟
鴨之巣辻道祖神と
鎌倉街道道標
 旅人達の道中安全を祈って200年余り前に建てられた穴仏三尊。右の石窟に祀られているのは明和5年(1768)の三面六臂(顔が三つで腕が6本)の馬頭観音立像,中央は一面六臂の観音坐像,左の石窟には風化の進んだ石仏が安置され石窟の右端に残る石灯篭の棹には天保11年(1840)の銘がある。石窟のすぐ上に秋葉様が祀られているので「平岩の秋葉坂三尊石窟」と呼ばれている。
 細久手~御嵩間は山坂の連続する3里の道のり,多くの旅人が安全を祈ってこの石仏に御参りしていったことだろう。

 少し先右手に「鴨之巣道の馬頭観音文字碑」
 なだらかな尾根上の道をしばらく進むと左手に
「鴨之巣辻道祖神」「右 旧鎌倉街道道標」「日吉辻」とも云い,南一里あまりで中世の道鎌倉海道に合流する。(13:07

 100mほど先右手に「切られ洞碑」(13:10)。更に100mほど先に

 「鴨之巣一里塚」

 
鴨之巣一里塚
江戸へ93里,京へ41里。地形上北側の一里塚が16mほど東側にずらされているのが特徴。両塚ともよく原形を留めている。高さは1丈弱。ここから鈴鹿・伊吹や北アルプスの山々が一望できるという。「津橋2.1km 平岩辻1.5km」標識あり。ここが御嵩町と瑞浪市の境界でもある。「瑞浪一里塚」とも云う。(13:15)

 湿った枯れ葉が敷き詰められた山道は足に優しく心地よい!津橋(つはし)集落目指して坂道を下る。
(13:30)右手に石囲いの「馬頭観音石仏」(「藤上坂馬頭観音」三面六臂の馬頭観音像)を過ぎて,風景が開け前方に<津橋>集落が見えてくる。

(13:35)「山内嘉助邸跡」 江戸時代酒造業を営み,諸大名の休憩場所としてまた旅人をこの屋敷に泊めたという。今は立派な城郭風の石垣のみが残る。
 
(13:38)「津橋の常夜燈」を過ぎて,道が二股に分かれる。庭の枝垂れ梅が満開の民家の間を抜ける左手の道を下る。

(13:42) 中山道県道恵那御嵩線が交差する<津橋の四つ辻>。左折して100m程先にある「津橋薬師堂」に立ち寄る。御堂の天井絵(半ば色が落ちてしまっているのが残念),堂前に宝暦3年(1753)と刻まれた石
灯篭,庚申塔と33体観音石仏群(名号碑・宝筴印塔・五輪塔など実際は50体以上)がある。

ふじあげ坂馬頭観音 山内嘉助邸跡 民家の庭に咲く見事な枝垂れ梅 津橋薬師寺

 
諸木坂の竹林
御殿場の東屋
 
 先ほどの交差点に戻って,左折(角に小林家)し,津橋集落に入る。
 津橋川
<津橋>(昭和37.竣工)で渡って,津橋の五差路交差点。道標に従って,ふれあいバス<津橋県道交差点前>バス停の向かいの細い道に入る。

 右手に
「南無阿弥陀仏,百番供養塔」を見て7,8軒の小さな集落を過ぎる。
 左手から後方にかけて広がる津橋の鄙びた家並み・田畑を眺めながら進むと,道はやや急な上り坂となる。左手は京都嵯峨野を思わせる程の見事な竹林である。
諸木坂と呼ぶそうだ。「津橋0.5km,御殿場0.7km」標識あり。(14:05)

(14:15)
「馬の水飲み場」続いて「御殿場」

 「馬の水飲み場」 ここは標高366.2mの物見峠と云い,往時街道の両側に5軒の茶屋があり往来の馬にも存分に飲みなさいと3か所の水飲み場があったという。

 「御殿場」 「諸之木峠展望台」 左手の階段を20段ほど上がるとちょっとした広場となっていて東屋がある。ここから御嶽山(3067m)・笠置山(1128m)・恵那山(2191m)が眺められたという(現在は樹木が茂っていて不可)。和宮下向の折,休息のため御殿を造ったので「御殿場」と呼ばれる。休憩所が建てられたのは街道の南側。
 和宮の行列は姫宮としては中山道最大の通行と云われ,4千~5千人にも及ぶ大行列で,文久元年(1861)10月28日の早朝に太田宿を出発し昼には御嶽宿にて休息,そしてここ「御殿場」でも再び休憩をとった後,大久手宿で宿泊したという。


 「御殿場」の斜め向かい側(街道の南側)に,「こんな山の中に何故?」と思わず呟いたケーキ屋さん「ラ・・ブロヴァンス」がある。御嵩方面から車でやってこれるので,休日には結構客が多いそうだ。。
 ここからは下り坂。右手に
「飼料工場?」をやり過ごして,二差路を案内板に従って直進。
「御殿場」から400mほど行った(14:35)左手の山際から湧き出しているのが

唄清水
一呑の清水
 「唄清水

 この辺り一帯は,尾張藩千村氏の知行地で,千村平右衛門征重(五歩)が「馬子唄の響きの波立つ清水かな」と詠んだことから「唄清水」と名付けられた。傍らに嘉永7年(1854)建立の句碑が建つ。
 年中絶えることなく湧き出る水は中山道を上り下りする旅人の喉を潤したことだろう。
 岐阜県名水50選に選ばれているというが,「飲めません」と注意書が掲げられている,どういうことなんだ?

 「唄清水」から更に下ると広い道(町道?)に合流(14:40)
この辺りは
<謡坂(うとうざか)>という集落である。
左手道路際に


 「一呑(ひとのみ)の清水」

 皇女和宮が降嫁の際,野点に使われた清水で,後に江戸から京へ上る際,多治見の永保寺で休息時にもここからわざわざ取り寄せ点茶したというお気に入りの名水。年中こんこんと湧き出る清水で中山道を往来する旅人の喉を潤した。
 しかしながらここも岐阜県名水50選に選ばれていながら「この水は生水での飲用はしないで下さい。御嵩町」と掲示されている。

 町道(?)を道なりにダラダラ下ると右手に「十本木立場跡碑」が立つ。この先にも「十本木立場」と云われる場所がありどちらが本物か分からない?
 ここで,市道から分かれて左の道に入る。200m程先に

謡坂の一里塚

 「謡坂の一里塚」

 江戸から94番目,美濃路では12番目の一里塚。
明治41年,2円50銭で民間に払い下げられその後取り壊された。昭和48年地元有志の手でかつての一里塚近くに復元されたもの。

 直ぐ先に「十本木の洗い場」 「十本木の立場跡」

 一里塚付近には十本の松の大木があったことから十本木の立場と呼ばれるようになった。今は小さな池と元萱葺き屋根と思しき民家が立つ。池は立て場時代の「共同洗い場」,道中の人足が駕篭や荷物をおろして休息した場所で,茶店や木賃宿が設けられ,餅・甘酒・杖・草鞋が飛ぶように売れたという。
この辺りが,安藤広重描く木曽街道69次のうち御嵩宿のモデルになった場所と云われている。

直ぐ先からおよそ300m続く石畳道(謡坂石畳)となる。
ここにも
石窟に入った馬頭観音がある。京から東へ向かう旅人は,「牛の鼻欠け坂」から紺のあたりへと続く坂道に息を切らせ,苦しさを紛らわすために唄を歌いながら坂を登ったことから「うたうさか」から「うとうさか」へと転化し地名になったと伝えられている。

100m程先に
「マリヤ像分岐標識」。右の小径に入りおよそ200m程で広い道に出て右折すぐ右手に

「聖母マリヤ像」

 この地は七御前(ななごぜん)遺跡と呼ばれていて古くから仏教の墓石である五輪塔が多数あったが,昭和56年(1981)道路工事の際,地中から「十字架」などを陰刻したキリシタン信仰の遺物が3点発見され,これを契機に近在各所からも同じような発見が相次ぎ,かつて信者が幕府の眼を逃れ信仰を続けていたことが分かった。

 先祖の霊と人びとの幸福を願って聖母マリア像が建立された。ここと小原・謡坂地区で発見された「隠れキリシタン」に関する遺物は,御嵩町郷土館(中山道みたけ館)に保管展示されているという。
 道路反対側に休憩所とトイレが完備されている,マリア像の手前に「子規句碑」(撫し子や 人に見えぬ 笠のうら)あり。近くに「ヨーゼフミカエル館」がある。

広重描く「御嶽宿」
御嵩宿から離れた山間の「木賃宿」の様子が生き生きと描かれている
左のモデル?となった民家 謡坂の石畳 聖母マリア像

 石畳み道に戻り,150mほどで町道に出る。(15:10)

「西洞(さいどう)0.4km,耳神社0.2km,御殿場1.5km30分,一呑清水0.8km15分,聖母マリア像0.4km,6分」
と書かれた案内板あり。
 左折して緩い坂を下ると右手に


 
耳神社
お礼に奉納されたすだれ状錐
「西洞(さいと)の耳神社」

 全国的にも珍しい耳の病気にご利益があると云われる神社。病回復の願をかけ,平癒したらその人の歳の数だけ錐をお供えする習わしがあり,錐は本物でも竹などで似せたものでもよく,紐で結んですだれ状にしてお供えする。小さな祠に奉納された錐がいくつも下げられてあった。人びとの厚い信仰が伺える。

 最近,「御父さん耳が遠くなったね!」と妻に云われる私,15,6段の急な石段を上り,心をこめて真面目に掌を合わせてきた。はてさてご霊験あらかたとなるかな?
 元治元年(1864),水戸天狗党が中山道を通った際,耳神社の幟を敵の布陣と勘違いして刀を抜いて通ったと伝えられている。
 


 耳神社の先の二股道を右に入り<西洞(さいとう)>集落を抜け,右手の山道を上る(分岐点に「牛の鼻欠け坂0.5km10分」との案内板あり)。
 100m程で石室に入った
「寒念仏馬頭観音」(明和2年(1765)建立)を右に見て,九十九折れの急な下り坂にかかる。
ここが,

 「牛の鼻かけ坂」

 岩を削った急カーブの坂のため往来する牛馬の鼻が擦り切れ欠けるほどの難所であったという。今も地元には「牛坊 牛坊 どこで鼻欠いた 西洞の坂で鼻欠いた」という唄が伝えられていると云う。

 急坂を下りきって田圃の中の道を200mほど進むと広い道にぶつかる。(15:40)
左折すると前方に国道21号を走る車列を見る事が出来る。
600mほど進んで更に広い道に出てこれを横断して直ぐに右折。
<井尻>集落を通過して,2回ほど鍵型に曲がり国道21号に出る(15:45)
 
 右折してすぐ
<東濃鉄道井尻バス停>の先,右手に薪をいっぱい積んだ民家の裏手に

牛の鼻かけ坂を描いた図 和泉式部廟所

 「和泉式部廟所」

 和泉式部は,平安時代中期の情熱的詩人で歌を詠いながら東山道を辿って御嵩まで来た時,病に倒れ寛仁3年(1019)この地で没したとされている。天文5年(1563)に建立されたという石碑には
     「ひとりさえ渡れば沈む浮橋に あとなる人はしばしとどまる」
と刻まれている。
 和泉式部の墓と云われるものは他にもいくつかある。どれが本物か? まっ それはあまり詮索しないでおくのがいいのかなあ~


 本日はここまで 歩行歩数:18000歩 歩行距離:およそ10.8km
国道沿いにあるコンビニで待機していたバスに乗って,岐阜県から愛知県犬山へ移動(およそ1時間)。

 今夜の宿は,中山道からちょっと外れるが,犬山城直下で,木曽川に臨む「ホテル迎帆楼」
目の前は犬山頭首工で堰き止められた木曽川の満面の水面が望める。
温泉(アルカリ性低低張性冷鉱泉 源泉温度23.4℃9に入ってゆっくり休む。

犬山頭首工 ライトアップされた犬山城

 
  
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