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中山道69次を歩く(第28回)加納宿~河渡宿~美江寺宿 その1
                                         010年4月6~8日
                                             (歩程 62,000歩 約37km)

 『一日目』

 東京駅07:33発のひかり503号に乗車,名古屋着09:21
名古屋駅からバスで,名古屋高速11号小牧線~国道41号で犬山市経由,犬山橋で木曽川を渡って前回終了地点の各務原市鵜沼西町
「石亀神社」へ。
 参加者は14人(男性:5人,女性:9人),既に京都まで達している人が3人,うち一人が今回で完歩となり,東海道街道歩きにも挑戦中と云う79歳の矍鑠たるおばあさん?である。

 
犬山市のちょっと手前の見事な桜並木道(バス後部窓から撮影)
石亀神社
 
「石亀神社」に参って,今回の旅の安全を祈り,
10:30 中山道と八木山通りの交差点から西に向かってスタート。

 300mほど先右手に新しいお堂,堂内には弘法大師像が祀られていると云う「八木山弘法堂」。その隣に「六部塚石仏群」

 この先50mほどの場所に「鵜沼宿西の木戸」があったと云う。

 更に先の右手に
「衣装塚(いしょうつか)古墳」その隣に「空安寺」(10:45)

 「衣裳塚古墳」の案内板に次のような説明がある。

 各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の円墳です。
 墳丘の大きさは直径が52m,高さ7mあり,周囲は開墾のためやや削平を受けていますが,北側はよく原形をとどめています。 また、墳丘表面には葺石や埴輪は認められません。
 衣裳塚古墳は,円墳としては県下最大規模の古墳ですが,ここより南西約300mのところに,県下第2位の規模を有する前方後円分の「坊の塚古墳」が所在することや本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから,本古墳も本来前方後円墳であったものが,後世に前方部が削平されて後円部が円墳状に残された可能性もあります

 衣裳塚古墳の築造年代については,本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため正確な判定は出来ませんが,おおよそ古墳時代の前期から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して築かれたと推定されます

「都クリニック」手前を左折し直ぐ先で右折すると左手に

 「坊の塚古墳」

 各務原台地の東縁部に前方部を南西に向けて築かれた前方後円墳で,大垣市昼飯大塚古墳(前方後円墳,全長137m)についで県下第2番目の規模を有する古墳である。
 現在,前方部の南辺が道路により削られているが規模は全長120m,後円部直径72m 同高さ10m 前方部最大幅66m 同高さ8mを測る。
 墳丘は二段構成により葺石や埴輪などが見られる。
 内部主体は,後円部の中央部に竪穴式石室が構築されているが,詳細については不明である。
 周濠は,墳丘の東側および南側にその痕跡をとどめており東側で16m 南側で幅24mを測る。
 築造年代は五世紀前半と推定されている。
 本古墳は,規模からみても5世紀前半代の美濃地域における有力な豪族の墳墓であり岐阜市琴塚古墳(前方後円墳、全長115m)とともに5世紀代の美濃地域を代表する古墳である。   (各務原市教育委員会)』

 今は竹薮と化しているが,一回りすると前方後円墳であることが見て取れる。近い将来公園化する予定があるらしい。

 街道に戻り西に進む。「都クリニック」から450m程で<羽場の信号交差点>,右手に

津島神社
皆楽座
「津島神社」

 江戸時代は牛頭天王社と呼ばれていた。
拝殿が「皆楽座」という建物になっている。格子窓越しに中を覗くも真っ暗で何も見えなかった。
 回り舞台・奈落・せり・大夫座などが備わっていて村芝居が上演されると云う。明冶24年(1891)の濃尾震災により倒壊したが,明冶32年に再建された。




 450m先,<鵜沼羽場町>交差点で国道21号に合流。
(11:26)<山の前町>交差点の先左手に

「播隆上人顕彰碑」「山の前一里塚跡」

 
槍ヶ岳開祖の「播隆上人の碑」は濃尾地震と空襲爆撃に遭い真っ二つに折れてグロテスクな形を呈している。 
ここに
「一里塚」(江戸より102番目)があったとされている。脇に「旅人道中安全」の石碑が立つ。(写真左)

JR高山線の跨線橋を渡って国道21号をひたすら西へ。
およそ500m右手に
「各務原駅」(11:42)

11:50
 <各務原町1>交差点

11:52 <三ツ池町東> 〃

11:56 <三ツ池町3> 〃

11:57 <二十軒バス停> この辺り「立て場」があった場所で,「二十軒茶屋跡」

12:00 <三ツ池町>交差点の手前左「美濃の里」で昼食&休憩。
川崎重工の塀沿いの桜


12:50 午後の歩き開始。 <三ツ池町>交差点を地下道で渡る。

12:56 <川崎町>交差点。 左手一帯は航空自衛隊岐阜基地の滑走路があり,時折離着陸する戦闘機の爆音が凄まじい。

12:59 <三柿野駅前>交差点。右手一帯が「川崎重工岐阜工場」塀に沿った桜並木が満開。

13:03 名鉄各務原線「三柿野駅」を左に見て,踏切で線路を越す。
「三柿野」
という地名の由来は明治7年,「三滝新田」・「柿沢村」・「野村」が合併した際それぞれの頭文字をとったとのこと。

13:13 <三柿野町>交差点で国道21号から分れ右手に道に入る。車の通行量が激減しホッ!

 400mほど先右手に

 「六軒一里塚跡」

 
神明社
 江戸から103里。以前は立っていたと云う「旧中山道六軒一里塚跡」案内柱は,何故か抜かれてしまっている。僅かに穴ぼこが開いていてそれと聞けば立っていたことが分かるが,ガイドのOさんも気付かずに行き過ぎるほど何も残っていない。

 ここら辺りは往時,茶屋が六軒並んでいて「六軒茶屋」と呼ばれる立て場があった所。向かい側に「竹林寺」がある。

 250mほど先右手に(13:20)

「六軒神明神社」

 
神社の鳥居と本殿の間に衝立のような塀が置かれている(左写真)。沖縄の民家で門と母屋の間に設置されて,悪霊や魔物が家の中にやってくるのを防ぐ魔よけの役目をする「屏風石」とよく似ているなあと思った。調べてみると「藩塀(ばんべい)」と云って正殿を直視しない(出来ない)ようにするとか,不浄なものの侵入を防ぐために造られたものらしい。境内左手に「三面六臂の観音様」

 各務原市の中心地繁華街へと入って行く。
およそ1.2km程で右手に豪華な
「市庁舎」
自衛隊基地があるので国から多額な交付金が入っているからだろうか一地方都市にしては立派すぎる建物である。

 更に400mほど先に
(13:55)

「市民公園」

市民公園は花見客がいっぱい
新境川の花筏
 ここでトイレ休憩。
桜が満開で,公園内では大勢の花見客が春爛漫を楽しんでいる。

 (14:15) 公園を西側から出て「新境川」に沿って下り<門前町1>交差点で街道筋へ戻り西進。
ここから900m間が
「なか21モール」という商店街。<東那加町>,<西那加町),<西野町>信号を通過して<新加納町>五差路交差点(14:25)

 前方のY字路の右の旧道に進む。
旧街道の面影が残る静かな道を350m程行くと右手奥まった所に赤い派手な鳥居が立つ
(14:30)

 「日吉神社」


 滋賀県大津市の山王総本宮日吉大社の分祀社とされ平安時代の創建と推察されている。
祭神は大山昨神(オオヤマグイノカミ)。山王・山の神・開拓の祖神・酒造の神とされている。

 境内一帯は樹齢数百年の大樹が林立していたが,昭和34年未曾有の伊勢湾台風により倒木した。また昭和47年頃までは境内に瓢箪池があり,多数の蝦蟇が生息し四月の例祭は
「がえろ祭り」と通称され親しまれている。

新加納立場付近の静かな町並み
>日吉神社
狛犬ならぬ狛蛙
 この辺りから

「新加納立場跡」「新加納間の宿」

 鵜沼宿から加納宿までは4里10町(およそ17km)と遠く,旅人が休息できる茶屋などが必要であったため,立場茶屋や高札場を設け道標も設置された。
ちなみに宿間距離が長いトップスリーは,①和田~下諏訪(21.5km)②鵜沼~加納(16.7km)③鴻巣~熊谷(16.3km)である。

 立場茶屋は,尾張屋・美濃屋・梅村屋の屋号が記されており,特に梅村屋は御小休止本陣(茶屋本陣)を営んでいた。

 皇女和宮降嫁の際にも休息所とされ,正式の宿場ではないが長すぎる鵜沼宿と加納宿のちょうど中間に位置することや小規模ながら6500石の旗本・坪内氏の城下町的な意義をもつことから
「間の宿」として栄えた。



 上の地図で青線ルートは新しいショートカット道。
分岐点のバス停際に
「新加納一里塚跡」その手前右手に「茶屋本陣跡」真っすぐ進んで突き当たって「枡形」。そこに「高札場」「道標」があり「右京道 左木曾路 南かさ松」と刻んである。

 古絵図に
「御典医」と書かれた場所に今もお医者さん「今尾医院」がある。裏手に立派な門と周囲を囲む堂々たる塀に囲まれた屋敷が健在。

 奥に
「善休寺」(正式な入口は二つ目の枡形を曲がった街道に面している)更に奥に「少林寺」

一里塚標柱 枡形に立つ道しるべ 今尾医院の邸宅 少林寺境内

 「善休寺」

 天台宗の流れを汲む寺院で「光暁坊」と称していたが貞永元年(1232)頃,親鸞聖人の来駕を仰ぎ,以後浄土真宗となる。慶長時代(1596-1615)の善休寺と改名し今日に至る。
 織田信長にゆかりの深い本光院(京都市上京区七本松)の帰依深く,筋塀(塀に3本筋入り)を許され菊花紋入りの品を寄付され祈願所と定められている。また,尾張徳川家が各務原に狩りの折,宿所として以来信仰篤く特別に「葵の紋」を賜る。

 「少林寺」

 
鎌倉時代の応長元年(1311),尾張国葉栗郡小網島村(現各務原市川島小網町)にかなり大きな伽藍をもつ臨済宗南禅寺派の寺院として開山するも,境川(現木曽川)の氾濫に悩まされ続け正中2年(1325)には洪水により大きな被害を受けるなどして荒廃する。

 明応8年(1499)臨済宗妙心寺派の寺院として再興され現在地に移転。永禄8年(1563),織田信長の美濃攻め(新加納の戦い)で焼失,関ヶ原の戦いの後,松倉城(現各務原市にあった戦国時代の城)城主坪内氏が羽栗郡各務部を治める大身旗本となり新加納に陣屋を築き,少林寺を菩提寺として再興し現在に至る。
 境内にある坪内氏の墓所および地蔵堂は各務原市指定文化財。

 
 (15:10)「一里塚跡碑」のある交差点に戻って,本日の街道歩きを終了。 歩行歩数:20700歩 歩行距離:およそ12.5km
 
 今夜の宿は,岐阜市湊町の長良川河畔に建つ創業万延元年(1860)の老舗旅館「十八楼」。1688年に芭蕉が詠んだという
「このあたり目に見ゆるものはみな涼し」という句碑が庭にあり,十八楼という名の由来は,芭蕉が記した「美濃の国 長良川に望みて水楼あり(中略) かの瀟湘の八の眺め西湖の十のさかひも涼風一味のうち 世をおもいこめたり 若し比楼に名を言はむとすならば十八楼とも言はましや」(芭蕉十八楼の記より)と云われている。温泉は上流2kmで動力揚湯して引いてくる「鉄冷鉱泉」(16.3℃)。

 宿に到着したのが16時ちょっと過ぎ,荷物をおいて岐阜城見学。

 
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