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中山道69次を歩く(第29回)赤坂宿~垂井宿~関ヶ原宿~今須宿 その1            
 010年5月12~14日
(歩程 64,400歩 約39km)

 『一日目』(美江寺宿西はずれ~赤坂宿本陣跡)

 11:00 前回歩き終えた「瑞穂市役所巣南庁舎」前をスタート。
 参加者は12人(男性:4人,女性:8人)。

 長護寺川に架かる赤い橋を渡り巣南中学校の先を右折して田圃の中の一車線道路に入る。
大月辺りの往時の松並木道
現在の田圃の中の道

 右手に
「大月浄水公園」この辺りは太平洋戦争終戦直前までは,江戸時代初期に植えられた松並木が素晴らしい景観を保ち旅人の心に安らぎを与えていたが,その後の土地改良などにより残念ながら消滅してしまったと云う。

 千鳥の仲間である「タゲリ」数羽が田圃の上を飛翔しているのどかな田園風景の中をおよそ700mほど進むと
「揖斐川」の土手に突き当たる。左折して「鷺田橋」で揖斐川を渡る。揖斐川は,大正14年,木曽川改修に伴い現在の位置に付替えられたもので,以前はもっと西方を流れ「呂久川」呼ばれていた。

 
鷺田橋を渡った先で左手の土手下に下り下流方向に向かい,直ぐ右折。縁起のよい名前の「良縁寺」・右手奥まった所にある「郷社白鳥神社」を通り過し「蓮生寺」の先を右折して「呂久」集落へ入る。この辺りの家屋敷は,石積みで小高く盛った上に建てられていて,しばしば洪水に悩まされた土地であることが分かる。

揖斐川の出水に備えて石積みをめぐらしかさ上げした土地に建つ民家 馬淵家の長屋門

 右手に大きな長屋門を構えた屋敷があり
「明治天皇御小休所跡」石碑が立つ。ここは「呂久の渡し」の船年寄り馬渕家
 その先左手に
「小簾紅園(おずこうえん)」

 文久元年(1861)10月26日,皇女和宮は呂久川を御座船で渡った。その際,対岸の馬淵孫右衛門の庭に色麗しく紅葉しているもみじの一枝を御所望になり,これをふなべりに立てさせ

 
「おちてゆく 身とは知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」

 と詠まれたという。

小簾紅園の庭園
往時の呂久川と渡船場位置
 昭和の初め,地元の人々が,この渡船を記念してゆかり地呂久に和宮遺跡として保存しようと云う機運が起こり昭和4年4月その名もゆかしい「小簾紅園」として瀟洒な庭園が造られた。公園内には「和宮歌碑」「遺跡の説明」「呂久の渡し」「揖斐川呂久渡船場跡」などの説明板・石碑が置かれている。

 ここでお弁当で昼食休憩を取る。


「呂久の渡し,呂久渡船場跡」

 天正時代,信長が安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通が頻繁となり,赤坂ー呂久ー美江寺ー河渡ー加納の道が栄えた。中山道が整備された後の慶長15年(1610)頃,呂久の渡しの船頭屋敷は13を数え,なかでも船年寄馬淵家には船頭8人,財務7人がおかれた。その頃の川幅は平水で90m,中水で120m,大水では180mに及んだと云われている。
 大正14年木曽川上流改修に伴い,揖斐川新川付替工事により,東へ移り現在の流路となり長い歴史を閉じることとなった。現在の呂久川は幅2m程の何とも情けないちっぽけな水路と化している。


(12:20)
 午後のウォーキング開始。ちっちゃな水路と化した呂久川を渡ると,巣南町から神戸町柳原となる。
およそ400mほどで,
平野井川に架かる「新橋」を渡ると道は堤防に突き当たり右折して土手沿いに西進。いったん土手の上に出ると,土手の肩に

   
大垣輪中の土手
墨俣追分道標
 
墨俣追分道標

「左 木曾路 右 すのまた宿」
 堤防上の道は,下流で美濃街道(江戸時代東海道と中山道を結ぶ脇街道として利用された)と結ばれていたので,紀州徳川公が参勤交代の時に利用したので,「紀州街道」と呼ばれていると云う。

 なお,この堤防は,大垣一帯を囲む輪中(わぢゅう)で「大垣輪中」と呼ばれており,関ヶ原合戦の時徳川家康が,この堤を切って揖斐川の水を引き入れ西軍のこもる大垣城を水攻めにする計画があったという。


 
「墨俣道標」の直ぐ先<大島バス停>から再び,土手下を右手に下り進むと右手に「平野井川」に架かる「柳瀬橋」がある。この辺りに江

大垣輪中の土手に珍しい花「シラーペルヴィアナ」が咲いていた。

戸より109番目の「柳瀬一里塚」柳原または大嶋一里塚とも呼ばれている)があったとされている。一里塚標柱と説明板は,平野井川の対岸(左岸)の「神明宮」の境内外れにあると云う。

 再び輪中の堤防上に出て,これを横断し,西側に下ると
大垣市大島町・坂下町となる。
右手に
「大垣輪中坂下水防庫」を見て,県道の下を通るトンネルを抜けて200m程先,右手に「三回り半」標柱が立つ。ここで左折して道は赤花町に入り200mほど先で右折そして左折するくねくねと曲がる道なので「三回り半」と呼ばれている。

 右手にこの辺りでは珍しい洋館と古い和式の家が並んだ屋敷が(写真下 右から二番目)見えた。どんな御仁が住んでいるのだろうか?
 最初の曲がり角に
「素盛鳴社」がある。裏手が廃タイヤ置き場となっていて,祠はタイヤの山に押しつぶされそうである。

三回り半標柱 くねくね街道の様子 洋館と和館の並ぶ屋敷 七回り半標柱


 (12:50) 曽根排水路に架かる「境橋」を渡る

 (12:54) 小さな排水路横断

 (12:56) <三津屋3丁目>交差点

 左手に「秋葉神社」「稲荷神社」

 更に350mほど西に進んだ交差点の右角に
 

 「聖観世音菩薩道標」

 ここは昔の「観音道」で,祠に納まった観音像には「右ぜんこうじ道,左谷汲山,ごうど,いび近道」と刻まれている。この聖観音は道標の役割も果たしていた。

くねくね道でも案内板がしっかり立っているので安心あんしん!
加納薬師如来お堂標
 この先50m程から再び曲がりくねった道が始まる。「七回り半」である。

 「加納排水路」「西浦橋」で渡り,右方<中沢>交差点から来る広い車道を横断して直ぐ右折,100m足らずで県道230号線に突き当たり左折する。300m程先で右折,直ぐ先右手角に

 「加納薬師如来 是より北八丁」道標と「御堂」

 
がある。ここを右折して真っすぐ西進。「七回り半」はここで終わりとなる。

 間もなく「養老鉄道」の線路を横切る,右手に
「東赤坂駅」

 途中で,赤坂方向から歩いてくる30人ほどのグループと出逢う。私たちと同じく中山道を江戸へ向かって歩いている人たちである。「今日はどこまで行くの?」「今須宿まで」「頑張ってね~」と声を掛け合ってすれ違う。

 踏切を渡ると直ぐ
<菅野1丁目>交差点,菅野川に架かる「菅野橋」を渡って,およそ200m先のY字形分岐で 県道230号線と分かれて左手の街道らしさが感じられる細い道に入る。大垣市枝郷と云う集落である。
池尻一里塚跡


 300m余で農業用水路を渡ると左手に
「白山神社」がある。創建年代は古いらしいが,社殿は最近造ったばかりらしくぴっかぴか!
ここで小休憩をとる。
(13:30)

 この先左手に


「池尻一里塚跡」

 江戸から110番目。案内標柱が立っているだけ。「青木小金橋の一里塚」とも云う。

 更に西へ進み,車の通行量の多い道を斜めに横断しておよそ250m程左手に「多賀神社」,右手に「赤坂小学校」を過ぎると,左手後方からの国道417号(岐阜県大垣市~福井県南条郡南越前町)と合流し(「美濃路追分」),杭瀬川に架かる「赤坂大橋」を渡る。国道は<赤坂大橋西>交差点で右に曲がり北上していくが中山道は直進する県道216号となる。

 ここから
「赤坂宿」となる。

 赤坂宿 あかさかじゅく
 江戸から110里1町8間,56番目の宿場,町並み7町18間。

 東山道時代,杭瀬川の舟待ち宿として青墓にあった「杭瀬川駅」から発展した宿で,江戸時代には川港(赤坂港)が整備され,米・材木・酒・特産の石灰など物資の集散地として栄えた。東西に連なる町筋は東町・子安町・羽根町と続き本陣・脇本陣をはじめ旅籠17軒と商家が軒を連ね繁盛していた。また谷汲街道・養老街道が通っており分岐点である宿の中ほどの四つ辻に「道標」が立つ。

 明治時代になってからも300隻もの舟が舫うほどの賑わいを見せていたと云うが,大正に入り鉄道の開通とともに衰退していった。

 東海道の赤坂と同じ名前で間違えられることも多く,当時は「美濃赤坂」と呼ばれることが普通だったと云う。

 人口1129人(男:576人 女:553人) 家数:292軒 本陣:1 脇本陣:1  旅籠:17


 杭瀬川から200mほど先右手に

「赤坂湊跡」

 
 江戸時代以前の杭瀬川は,株瀬川とも書かれていて,現在の杭瀬川より西方200m位の所を流れて,揖斐川(伊尾川とも書く)の本流であった。古くは,「壬申の乱」(672)で矢傷を負った「大海人皇子」(後の天武天皇)が矢の根川ので水で傷を洗ったところたちどころに治り,そこでこの川を「苦医瀬川」と呼んだと伝えられ,また「平治の乱」で(1159)敗れた「源義朝」が柴舟でこの川を下ったことでも知られている。赤坂湊は、最盛期には、一日あたり50隻を超える船が出言いする水運の要衝で港のルーツは平安時代末期にまで遡る。

 享禄3年(1530)の大水で水路が大きく変わり川幅も狭くなったが上流の池田山からの豊富な湧き水で港としての機能は十分果たし,ここから揖斐川本流に出て伊勢湾を通って桑名への物資輸送に使われ,明治以降も栄え、周辺 では石灰石や大理石などの石材が多く産出され赤坂港から全国へと運ばれ、数百艙の船が盛んに往来したと云う。しかしこの港も、その後の鉄道の発達によって次第に衰退。現在、杭瀬川沿いに赤坂港跡の石柱と常夜燈が立ち、往時の姿が
偲ばれる。


赤坂湊跡 大きな火の見櫓   旧岐阜懸警察赤坂屯所
本庄宿にあった警察署もこんなモダンな建物だったっけ!

 「赤坂湊」の手前左手に

 
「赤坂宿東口御使者場跡」

 他の宿の番所・木戸に相当するもの。
大名や公家などが通る時,宿役人や名主がここで見送りや出迎えをしたと云う。

 「赤坂湊跡」の向かいには,赤坂宿のシンボル,モニュメントともいえる「火の見櫓」
 同じく「赤坂湊跡」の先隣りに、モダンな建物「旧岐阜懸警察赤坂第五分区屯所」が復元されている。
 現在、「赤坂港会館」として赤坂宿や赤坂湊に関する資料などが展示されているというが、入館無料と掲示されているもののどういうわけか鍵が懸かっていて入れず残念。

その先に「ボランティアガイドセンター」

 ここで詳しいパンフレットをゲットしようと思っていたのだが,ここも鍵が懸かっていて入れない。

200mほど先で

「西濃鉄道貨物線踏切」
を渡る。

 
石灰石採掘で山の形が
すっかり変わった金生山
赤坂の北方に標高200mちょっとの小さな金生山(”きんしょうざん”と呼ばれているが正式には”かなぶやま”と呼ぶ)がある。全体が石灰岩で出来ており,江戸時代より石灰岩,大理石の採掘が行われている。当時は赤坂湊から水運によって運び出されていたが,大正8年(1919)開業の東海道本線支線(美濃赤坂線)や昭和3年(1928)開業の西濃鉄道で運搬されている。現在も石灰を運ぶ貨物列車が一日3回程度通過すると云う。

 金生山は,約2億6千年前の古生代ぺルム紀の石灰岩よりなり,巻き貝,二枚貝,ウミユリ,さんご,フズリナ,三葉虫などの化石の山としても地質学的価値が高い。
間もなく開館50年となる「金生山化石館」がある。

本陣跡公園
所郁太郎像
 
 「西濃鉄道踏切」の先左手に

「本陣跡」
間口24間4尺,敷地820坪,建物はおよそ240坪,玄関・門構えの豪勢な建物であったという。

 宝永(1624-43)以降,馬淵太郎佐衛門に次いで平田又佐衛門が代々本陣役を天明・寛政(1781-1800)以後,矢橋広助が二代務め,明治維新となり一部解体され町役場・旅館となったが,現在は「赤坂本陣公園」となっている。

 公園内には,「和宮顕彰碑」,赤坂出身で幕末の蘭医学志士で井上聞多(後の井上馨)が刺客に襲われた時,外科手術を施したと云う「所郁太郎像」が立っている。


 赤坂宿から南方に500mほど離れた所に「東海道線赤坂駅」がある。
その先にある
「安楽寺」へ,バスで移動。

 「安楽寺」 「岡山の陣」

安楽寺
家康寄進の梵鐘
この梵鐘は,関ヶ原合戦の時西軍石田三成方の勇将「大谷吉継」陣中の兵士の士気を鼓舞したり,合図用に播州(兵庫県)から持参した陣鐘で,戦後 徳川家康が戦利品として「安楽寺」に寄進した歴史的にも由緒のあるもの。
 「安楽寺」は,推古天皇元年(593)聖徳太子が創建し,関ヶ原合戦で徳川家康の陣が張られたことで知られる。

 関ヶ原合戦の直前,徳川家康は,この寺の墓地の裏山「岡山(後に「勝山」(標高53m)に陣を張り,一里ほど先の「大垣城」の石田三成軍と対峙し,「ここから長躯して直接大阪城を攻める・・・・」などの謀報を流し,関ヶ原の野外戦誘い出しに成功し,勝ち運を開いた寺である。戦勝記念に「三葉葵」が贈られ,戦利品の「梵鐘」などが寄進された。寺には「三つ葉葵」の紋が到るところにある。

 墓地には,町人の道徳を平易に説いた「心学」の普及に尽くした「久世友輔」の墓や大垣藩正使として赤穂城を無血開城させた家老「戸田権佐衛門」の墓,幕末の志士達の墓など数多くの古い石像・供養塔など歴史にまつわる物語や人物の遺構が残されている。


 「岡山の陣」
「岡山の陣」から大垣市街


 関ヶ原合戦の前 慶長5年(1600)8月24日,東軍は西進して赤坂一帯を占拠,翌25日,ここ「岡山」を家康の本陣と定め,家康が到着するまでの約20日間,岡の麓や周囲に布陣し砦を築いて大垣城を本拠とする西軍と対峙した。
 9月14日正午頃,およそ3万の軍勢を率いた家康が赤坂に到着し岡山の陣に入る。その日の午後,西軍の島右近らが自軍の士気を鼓舞するため大垣城を出て杭瀬川一帯で東軍と戦い勝利した(杭瀬川の戦い)。家康は昼食を摂りながら,この戦いの様子を飯粒をこぼしたのも気付かずにここ岡山の丘の上から観戦したと云う。

 
 本日の街道歩きはここまで。
バスで大垣市街に向かい,
「奥の細道結びの地記念館」を見学後,大垣城を囲むように流れる外堀で,大垣に集散する物資の主要水運路であった清流「水門川」沿いに造られた遊歩道「ミニ奥の細道」を散策しながら今夜の宿大垣駅前の「APAホテル」に着く(16:15)

 奥の細道むすびの地 大垣

 元禄2年(1689)の秋,俳聖・松尾芭蕉は,約5カ月に渡る世に名高い「奥の細道」の漂泊の旅をここ大垣で終えた。
その折,芭蕉は, 「蛤のふたみに別行秋そ」 と詠んで,水門川の船町港から桑名へ舟で下った。芭蕉が最初に大垣を訪れたのは貞亨元年(1684),「野ざらし紀行」の旅の途中,俳友・谷木因(ぼくいん)を訪ねたのが始まりで,以後3回来垣している。
 芭蕉と木因とは,京都北村季吟の門下生であった。当時,大垣の俳諧は,大垣十万石の城主戸田公の文京奨励もあって,谷木因の市道のもと,大垣藩士らを中心に盛んであったが,芭蕉の4回にわたる大垣への訪れは大垣俳壇に新風を吹き込み,これを機に。「蕉風」俳諧は美濃一円に広がり,以後美濃俳諧としての基礎が固まった。

                       (大垣市観光協会パンフレットより抜粋)


 夕食は駅北側に最近出来たという
ショッピングセンター(「AQUA WALK」)内にある豆腐料理屋,それほど上等な料理は望めないが2時間バイキング方式で,ちょいと食べ過ぎになるのが欠点であはあるが極めて!リーゾナブルなコストで上がった筈である。

 夕食を終えての帰り道で,大垣駅北側の再開発ゾーンの一角に異様な建物が取り残されていることに気付く。国鉄関連施設の残骸かと思ったが実はこの辺り一帯は
「オーミケンシ大垣工場」があったことが判明。かつては隆盛を極めた繊維工場のなれの果てである。今は先刻のショッピングセンターと広大な駐車場に変わっている。それにしても何故この建物だけが残されているのだろうか?文化遺産として保存するのだろうか?

なんじゃもんじゃの花
”ミニ奥の細道”の途中で見つけた「なんじゃもんじゃ」(一葉(ひとつば)たご)の花。一昨年6月,鴻巣宿鴻神社境内で見かけたが,花を見るのは初めて!雪をかぶったような真っ白な姿と周囲の新緑の木々とのコントラストが美しさにく目を奪われる。
オーオーミケンシ大垣工場の遺構

  本日の 歩行歩数:18900歩 歩行距離:およそ11km
 
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