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中山道69次を歩く(第30回)柏原宿~醒井宿~番場宿~鳥居本宿~高宮宿 その1 
 010年12月3~5日
(歩程 67,200歩 約40.5km)

『一日目』 

 今須宿西はずれ(車返し地蔵尊)~醒井宿手前(一色ローソン) 天気:曇り/雨 時折土砂降り
 全国的な荒れ模様の天候で,東海道新幹線は一時運転見合わせで東京駅を遅れて出発し,更に小田原・熱海間の函南トンネル辺りで停電となりしばし停車するという初っ端から不安の街道歩きとなった。
名古屋駅着が予定より40分遅れの10時過ぎ,バスで現地に向かう。参加者20名(男性:7,女性:13)。


 
成菩提院&徳源院

 街道歩きをスタートする前に,街道からすこし外れた柏原駅北側にある成菩提院徳源院をバスで巡る。

 まず寄ったのが,「成菩提院」
 天台宗の古刹として知られ,正しくは円乗寺成菩提院という。
弘仁6年(815)伝教大師最澄が,ここ柏原小野の地に一時留まり僅かな建物を築いたのが最初と伝えられる。やがて天台宗の談義所(学問所)として鎌倉時代には形を整え,湖北一帯を治めていた京極氏の手厚い保護を得,繁栄したようだが,一時的に衰退した時期もあった。

応永年間(1394~1427),将軍足利義満の願いにより比叡山西塔の名僧であった貞舜が寺坊を再興して移り住み,寺ではこの貞舜を中興の祖として初代住職としている。歴代住職になかには徳川家康の知恵袋・懐刀と言われた二十世天海大僧正をはじめとして幾多の名僧がいる。また織田信長・浅井長政・豊臣秀吉といった武将が宿泊し,江戸時代には家康から寺領160石余りを受けていたという。

 拝観料を払ってまで内部を見ることもないということで,折から素晴らしく紅葉した庭を楽しませて戴いた

バスで,清瀧寺徳源院に向かう。いったん街道筋に戻り,JR柏原駅の先を右折し,柏原中学校の先で下車し,右手小川に沿って300mほど歩いた場所にある。

「清瀧寺徳源院」
 
 客殿で,紅葉の見事な池泉回遊庭園を眺めながら住職による寺の起源,京極家の変遷,京極家墓所,寺内の説明を拝聴する(拝観料300円)。

 徳源院は,天台宗のお寺で,中世に近江を支配した佐々木京極氏の菩提寺。京極家初代氏信が,館とともに弘安9年(1286)建立したと言われる,寺号も氏信の法号清瀧寺殿から称したもの。

 鎌倉時代中期に近江を領していた佐々木氏は,大原氏(長男),高島氏(次男),六角氏(三男),京極氏(四男)に分かれる。始祖氏信が,愛知川以北の北近江と柏原の館を与えられ,京都京極辻に屋敷を構え「京極氏」を名乗った。本家に当たる六角氏は,永禄11年(1568)信長に攻められ観音寺城から甲賀に逃亡し,次第にれきしの表舞台から消えていった。
 京極氏は一時浅井長政に勢力を奪われるが,19世高次の代には,光秀に加担したり関が原合戦では当初西軍に属するも途中で寝返るなど波乱万丈を掻い潜り,大津城に籠城したことが,結果として毛利軍の進軍を遅らせたことが家康に評価され江戸時代も大名家として続いた。鎌倉時代から明治維新まで650年間,常に歴史の表舞台と深いかかわりを持ち続けた名族と言える。

 第5代高氏(道誉)は,能・狂言・茶道・華道に長じ派手好き「婆娑羅(ばさら)大名と呼ばれた。
後醍醐天皇の隠岐への護送,北畠具行の鎌倉への護送などに関与し,京極氏子孫繁栄の基礎を築いたと言われる。境内の桜は,道譽が植えたものと伝えられ道譽桜と呼ばれている(県指定名木2代目)。

 江戸時代には,高和(21代)の代に讃岐丸亀に転封,その子である高豊(第22代)が,寛文12年(1672)に領地の一部とこの地を交換して寺の復興を図り,三重塔(県指定文化財)を建立し,この時近隣に散在していた歴代の宝篋印塔をここに集め順序を正し整備したのが,境内の裏手の山裾のある京極家の墓所である。

墓所は上下二段に分かれ,上段には始祖の氏信の古塔(花崗岩製,高さ278cm)を筆頭に高吉(第18代,妻は浅井長政の姉お慶・京極マリア,浅井氏に近江を簒奪され京極氏衰亡の底にあったためか,「国敗れて山河あり」との感に堪えず,印ばかりの墓を建てよと遺名した。墓石は一番小さい。)に及ぶ歴代当主の墓18基が並び,下段には大津城主高次(第19代)の墓が石廟の中に祀られているのを中心に,木廟内の4基を含めて歴代当主や分家(多度津藩)の墓が14基配列されている。

 大きい墓,小さい墓,京極家の栄枯盛衰をそのままに表している墓を見ていると,時代の流れをひしひしと感じる。
下段の左手端に高畠具行の宝篋印塔が立つ。京極家一族の墓オンリーのこの寺では異色の存在である。

池泉回遊式庭園

 自然地形と山腹に露頭する岩盤を生かした雄大なスケールの空間構成が圧巻。かつては,清滝から水が落ち池には満々と水が湛えられていたというが,伊勢湾台風で,水源が崩れてしまい,今は枯山水状態だが,これはこれで趣がある
三重の塔

 寛文年間に丸亀城主京極高豊が建立した。 県重要文化財。
京極家墓所(上段) 京極家墓所(下段)

 左から第19代高次,第24代高距,
第25代高中。 

 バスで,街道筋に戻り柏原宿中ほどにある
「柏原宿歴史館」へ。

柏原宿歴史館での昼食で戴いた「やいとうどん」
 お灸のもぐさに見立てた,とろろ昆布が盛ってあり,火種の代わりに刻んだ紅生姜が載っている。腰の強いなかなか美味しいうどんであった。
建物の説明
拡大表示出来ます。
 館内の”ふれあいの間”で昼食後,館長の案内で内部を見学する。
大正6年(1917)に建てられた
旧松浦久一郎邸(伊吹もぐさ亀屋左京商店の分家)を改築して,98年から資料館となっている。

 玄関を入ると左手にビデオシアターがあり,柏原宿の概要や京極家の変遷を見ることが出来る。
館内には,もぐさや薬袋の資料,万治3年(1660)から昭和30年(1955)まで295年間にもわたる柏原宿の出来事を記録した萬留帳(よろずとめちょう),高札,広重と英泉の「木曽街道69次」全69枚の複製版画,印籠・薬入れ・柳行李・煙草入れ・はさみ・耳掻き・蝋燭立てなどの旅の持ち物など盛り沢山の展示がなされている。
9時~17時開館。

その後,バスで前回終了地点今須宿はずれの「車返し地蔵尊」を前に移動。
(13:40) 時折,雨が強く降るなか,街道歩きスタート。

 国道21号を
<今須>信号交差点で渡り,更に東海道本線踏切を渡ると右手に「オオツカ関が原工場」
すぐ先右手に「芭蕉句碑」が建っていて横に説明がある。


         正月も美濃と近江や閏月

 「貞享元年十二月野ざらし紀行の芭蕉が郷里越年のため熱田よりの帰路二十三日ころこの地寝物語の里今須を過ぐるときの吟。昭和五十三年二月建之 芭蕉翁顕彰會 」
ただし,「芭蕉句集」には,この句は収録されていないので芭蕉の句かどうかは疑わしいとも言われているという。
その句碑の隣に
「中山道今須宿 野ざらし芭蕉道」という小さな石碑が建っていて,これには、『年暮れぬ笠着て草鞋はきながら』 の句が刻まれている。この句は,『爰(ここ)に草鞋(わらじ)をとき,かしこに杖を捨て,旅寝ながらに年の暮れければ』という前書とともに「野ざらし紀行」に記載されている。

芭蕉句碑 近江・美濃両国分寝物語の里」碑

 「寝物語の里」

 
街道は「長久寺」集落に入って行くがその手前左手に「近江・美濃両国寝物語」碑が建つ。

ここは,かつて小川というよりも僅か数十センチの”溝”を挟んだ「美濃」と「近江」の境で知られ,近江側に「かめや」,美濃側に「両国屋」という旅籠が溝を挟んで並んでいたので,隣り同士が2階に寝そべりながら,国境向こう側の店で同じように寝ている人たちと話ができたことから,寝物語の里と呼ばれるようになったと言う。
 また,源義経が奥州へ落ちて行ったので,妻静御前もその後を追ってここまで来たが,隣の宿の話し声から家来の江田源蔵と気づき「奥州まで連れて行って貰えないか」と頼んだところ,快く承諾してくれた。それが寝ながらの物語であったので,この名が起こったとも云う。
この外異説が幾つもある。

  
 「近江中山道」


 ここから近江路。東日本と西日本を結ぶ接点に位置し,古代から交通の要衝としての地位を占めてきた近江には,日本を代表する幹線道路が走っている。一つは東海道,そしてもう一つは中山道である。
近江と美濃の境,寝物語の里より始まる近江中山道は,伊吹もぐさで有名な「柏原宿」,澄んだ水の流れる「醒井宿」,山あいの「番場宿」から琵琶湖を望む摺針峠を越えて,北国街道との分岐点「鳥居本宿」,多賀大社の参拝口として栄えた「高宮宿」へ。
近江商人の香りが残る「愛知川宿」「武佐宿」,比叡山の東を守る「守山宿」「草津宿」で,東海道と合流し,「大津宿」を経て,一路京へと向かう。

 ダラダラ坂を上り,「長久寺」集落を抜けると街道は,「かえで並木」となる,江戸時代は「松並木」であったと言う。
右に
「神名神社」と僅かな区間だが残っている「東山道」の標識が立つ。この辺りは,「野瀬坂」と呼ばれていた。
更に先に進むと,街道は左に折れて東海道線踏切を渡っていくが,直進して200mほどで右手に

 「白清水(しろしみず)」

 
小さな泉で古くより玉の井と呼ばれれている。
「古事記」に,日本武尊が伊吹山の神に悩まされ傷ついた時,この泉で正気づいたとあり,また中世の説話「小栗判官照手姫」に姫の白粉で清水が白く濁ったことから白清水というようになったとある」(山東町教育委員会)。
現状は,石積みの小さな池があり,水は枯れている。

 戻って,この先の坂を下り踏切(「野瀬踏切」)を渡る。すぐ右手に,

 「照手姫笠懸地蔵・蘇生寺」

 2体ある地蔵のうち右側の小さい地蔵が
「照手姫笠掛地蔵」
傍らの説明板に長文で謂れが記されている。
 現在はここに祀られているが,元はこれより東,野瀬踏切を越え野瀬坂の上,神明神社鳥居東側平地に在った蘇生寺の本尊ということから
「蘇生寺笠地蔵」ともいう。

 中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地蔵である。
 昔,常陸国(茨城県)小栗の城主,小栗判官助重が毒酒のため落命の危機に逢いながらも,餓鬼阿弥となり一命を取止める。これを悲しんだ愛妾照手姫は,助重を箱車に乗せ,狂女のようになり懸命に車を引張ってここ野瀬まで辿りついた。そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ,自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ,地蔵は次のお告げをした。

 立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ

 勇気を得た照手姫は喜んで熊野に行き,療養の甲斐あって夫助重は全快したことから,再びこの地に来り,お礼にお寺を建て石地蔵を本尊として祀った。 これを「蘇生寺」と云い,。近くの長久寺(廃寺)の末寺として栄えたが,慶長の兵火で焼失,その後再興されることなく石の地蔵のみ残り,「照手の笠地蔵」として親しまれてきた。
この辺りには照手姫に関わる伝承地として道中の大字長久寺に
「狂女谷」が地名として残り,姫の白粉のため水が白く濁ったという「白清水」などがある。

 以上が柏原に伝わる説話であるが,すこし内容が異なるが,「赤坂宿」と「垂井宿」の中間,
青墓に「照手姫水汲みの井戸」がある。


 小さな橋を渡って間もなく右手に「東見付け跡碑」
ここから近江路最初の宿場「柏原宿」である。

 
 柏原宿 かしわばらじゅく
 江戸から114里27町8間,60番目の宿場,町並みは東西に13町(1.4km)で中山道では10番目の長さ、近江路(柏原~草津宿)では最長。

 古くから東山道の宿駅として,美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の境の宿場、交通上の要所とされていた。建久元年(1190)源頼朝が,初上洛の際,宿陣したという記録がある,近江源氏の本拠として多くの武将が足跡を残した地である。

 江州やいと(お灸)の里。古くから伊吹もぐさが特産品である。「かくとだに えやはいぶきのさしも草 さしもしらじな もゆる思ひを」小倉百人一首に詠まれた地でもある。

 江戸時代前半は幕府領,後半は郡山領。

 人口1468人(男:740人 女:728人) 家数:344軒 本陣:1 脇本陣:1 問屋:6 年寄り(宿役人):8 旅籠:22

 宿に入ってすぐ右手に「八幡神社」。300mほど先で,JR柏原駅入り口を過ぎた辺りが旅籠や本陣・脇本陣が並んでいたところ。残念ながら旅籠は,一軒も残っていない。
右手の郵便局手前に
「脇本陣跡」で,郵便局の先に「問屋場」「本陣」が並んでいたと言う。すでに古い建物は残っていない。

「脇本陣跡・本陣跡」

 
 脇本陣は,南部本陣別家が勤める,問屋も兼ねていた。敷地228坪,建坪は73坪。

 本陣は,南部家が問屋を兼ねて勤めていた。建坪138坪。文久元年(1861)10月24日和宮泊。
明治になり,柏原小学校前身の開文学校がここに創設された。その後建物は,明治中期に岐阜垂井の南宮神社宮司宅へ移築された。

 「脇本陣」「本陣」の中程に,「問屋役,年寄 吉村逸平宅」があり,案内板に(映画監督吉村公三郎の実家,祖父:柏原宿最後の庄屋,父:広島市長,兄:朝日新聞「天声人語」執筆)と書かれていた。

 街道の左手には,多くの旅籠屋跡が並ぶ。天保14年(1843)の頃,ここ市場町,東隣の宿村町,西部の御茶屋御殿辺りに22軒の旅籠があった。同じ年の宿内記録に,もぐさ屋:9,造り酒屋:3,請負酒屋:10,炭売茶屋:12,豆腐屋:9,他商人:28,大工:10,鍛冶屋:1,諸職人:13,医師:1とある。

 この辺りで,雨が激しく振り出す。「市場橋(初恋橋とも云う)」を渡った先,左手に
「伊吹堂」
亀屋七兵衛左京
連子格子の古い大きな家,「伊吹堂」という大きな看板が掲げられている
。店先に「伊吹もぐさ」と書かれた吊るし板。創業350年を数える老舗で今も昔の姿のままで営業している。
木曽海道六拾九次之内 柏原 (広重)

 幕末,広重描く柏原宿の看板は,なんと言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で,現在の建物そのままである。
当時,伊吹もぐさを商う店は10指に余り,総て屋号は「亀屋」を称していた。もぐさは中山道有数の宿場名物であった。
この店は「広重」が描いていることでも知られている,今も等身大に近い二代目「福助人形」が置かれているというが,この荒れ天気で,確かめることが出来なかった。
福助とは,この番頭で,働き者で店を繁盛させた功労者だという。

 艾(よもぎもぐさ)は,お灸に用いるもので「蓬の葉」から作られる。
伊吹山は,古くから薬草の自生地で知られ,特に良質の蓬が採れたので,それを原料にした伊吹もぐさが評判になったという。ところで,「お灸を据える」などと云う言葉は,若者の間では今や死語となってしまっているだろう。

昼食を摂った「歴史館」横で,トイレ休憩。雨は時折激しくなったりしながら依然降り続く。
「歴史館」の先も,古い家が所々に見られる。
左手に
「荷蔵跡」「銀行跡」が見られる。

 「西の荷蔵跡」「銀行跡」

 運送荷物の東西隣宿への継立が,当日処理出来ない場合,荷物を蔵に預かった場所が荷蔵である。藩年貢米集荷の郷蔵でもあり,宿には東西の2箇所にあった。
柏原宿は,中山道二番目に寺院の数が多く,寺院が荷蔵や宿屋にも利用されたと言う。

 明治34年(1901),江戸時代もぐさ屋の山根為蔵家は,同業者・旅籠屋・呉服屋など5軒に働きかけて自宅別棟に柏原銀行を創設した。
中世~江戸期を通して大きな宿場として栄えた柏原村は,その当時も多くの商家が立ち並び,醒井,近江長岡,今須村一帯の中心地であった。柏原銀行の支店・出張所は,米原・醒ヶ井・近江長岡・野一色・今須にも設置された。
昭和18年(1943)滋賀銀行に合併するまでの42m年間,この地方の産業活動を支援した功績は大きいと云われている。

 50mほど先に「薬師道道標」

 左折する細い道の角に,「従是明星山薬師道」の石標がある。
明星山明星輪寺泉明院こと通称「西やくし寺」への道しるべ。最澄が創立したというが,現在は門徒も四散し衰退しているが,往時は仲々賑わったお寺だった。
「従是明星山薬師道」「屋く志へのみち」「やくし江乃道」三面とも書いてある内容は同じ。
この道標は享保2年(1717)と陰刻され,案内も三字体と非常に珍しく,滋賀県下でも道標として古いものの一つである。この先の「長沢」に集落にも京から来た人々の為に同じ道標がある。

 更に50mほど先,右,「徳源院」に向かう交差点の右角に

「お茶屋御殿跡」

 
江戸時代初期,将軍上洛下向の際に,宿泊休憩した館で,元和9年(1623)建立,幕府の権力が安定し上洛の必要性がなくなったため,元禄2年(1689)に廃止。この間に家康が休憩6回・宿泊2回,秀光が2回と1回,家光が2回と1回利用したと言う。当時使っていた井戸跡が残るのみ。赤坂宿にも同じ施設があった。

柏原銀行跡 亀茶屋御殿跡 郷宿跡
柏原宿に唯一現存する郷宿

 この先左手に

「郷宿跡」

 黒板塀の加藤家が,郷宿(ごうやど)跡。
郷宿とは,脇本陣と旅籠屋の中間の施設で,武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用されたと言う。

 中井川橋(下流は天野川となりゲンジボタル発生地)と丸山橋を渡って左手に,

「柏原一里塚跡」 ちょっと先に「西見付跡」標識も立ち,宿の西はずれに当たる位置に江戸より115番目の一里塚があった。すでに塚跡は残っていない。

この先は,楓や松並木が続く山裾の静かな道,およそ300mほどで,道は二手に分かれる。中山道は右へ。
すぐ先右手に,

北畠具行卿墓400m」標識

 北畠具行は,後醍醐天皇の側近として,鎌倉幕府討伐を図った「元弘の変」の中心人物であった。しかし失敗に終わり幕府に捕らえられて,鎌倉に護送される途中,護送人であった京極道誉の助命嘆願及ばず,元弘2年(1332)6月19日,当地で斬首されその生涯を閉じた。
具行の生き様に感銘した道誉の計らいでここに墓が建てられた貞和3年(1347)。
京極家菩提寺徳源院にも宝篋印塔が建てられている。

 この辺りで西からやってきた「東山道」は,中山道と分かれて山越えして「徳源院」のある清滝へ下り,右へ折れ「成菩提院」の北側を東進し「JR野瀬踏切」付近で再び中山道と合流し,「長久寺」を経て東へ向っていたと言う。

 「北畠具行墓」標識からおよそ500m,右手山の上に「白山神社」「奥手川」を渡った先左手に先ほどと同じ

「薬師道道標」
がある。

ここから
「長沢(ながそ)」集落を通過,古くは「小川」「粉川」あるいは「古川」とも呼ばれていたと言う。
集落を抜けると,中山道は右手の細い荒れた山道(
小川坂)に入って行くが,道がぬかるんでいて歩くのは困難だというのでわたしたちは左手の舗装路を行く。
分岐点に

「小川関跡」説明板あり。

 
「近江坂田郡誌」に稚淳毛両岐王(わかめけのふたまたおう)の守りし関屋(関所の施設,現存しない)と書かれ,大字柏原小字小黒谷,大字梓河内小字小川の辺りに比定され,小川,古川,粉川または横川の転訛せし地名としている。
一面どこも植林されあるいは原野となっているが戦前は,食糧増産のため開墾,畠となっていた所である。したがって現在は往時を偲ぶよすがは無いが,旧道(前記のぬかるんだ道)の山側には整然と区画された屋敷跡(館跡)を確認することが出来ると云う。


 
「長沢」集落中ほどに,

 
「菖蒲ケ池」 

   
君が代のながき例に長沢の 池のあやめは今日ぞ引かるる  (大納言俊光)

 昔は,天野川の水源だったとされ,200m四方ほどの池であったというが,江戸末期には消滅してしまったらしい。
長沢から梓に下る街道沿いの鬱蒼とした杉並木道

 うっそうとした杉並木の緩い下り坂をおよそ1kmほどで,国道21号線
<梓河内>信号交差点に出る。
そのすこし手前に

「番の面(ばんのおもて)遺跡」説明板

 近畿地方で最初に発見された縄文時代中期末(4000年前)の遺跡。
竪穴式住居跡や関東地方と深いかかわりがある土器・和田峠の黒曜石で作られたヤジリなどが発見されており,広い交流圏をもった遺跡と云える。

 
 国道には,進まず北側に並行する道を進むと,「梓」集落となる。

「梓関所跡」説明板があり,ここら辺りが,「東山道横川駅」があった所とされているが,その場所は特定されていない。美濃国「不破駅」近江国「鳥籠(とこ)駅」の中間に当たる。

「梓」から右手に流れる川に沿った松並木道(梓川並木道と呼ばれている)を進む。桜も植わるのどかな道で,春にまた,来てみたいところだ。
 およそ550mで国道21号と合流,すこし先のコンビニストア「一色ローソン」前で,すこし時間が早いが雨が降り止まないこともあり,本日の街道歩きはここで終了となった。

 余った時間を有効?利用。
 翌々日,近くを通るのだが,街道から1kmも離れているので,街道歩きの途中で寄るのは,ちょっと厳しい「高宮宿」「愛知川宿」の中間にある「阿自岐神社」へ,バスで移動して見学することにした。

 国道21号,8号を通っておよそ20km,30分ほどで到着。
雨がようやく上がるも,夕刻が近づくとさすがに冷え込んでくる。そさくさと神社にお参りをして,びわ湖畔の今夜の宿に向かう。(「阿自岐神社」については3日目に記載することとする。)
  
   今日歩いたルート


本日の歩行歩数:11,800歩 歩行距離:およそ7km 
ホテル着:
16:50
 
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