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中山道69次を歩く(第31回)愛知川宿~武佐宿~守山宿~草津宿 その1
2010年7月13~15日
(歩程 78,500歩 約47km)
『一日目』愛知川宿東(石部神社)~武佐宿東(亀川交差点) 天気:雨
(10:00) 東海道新幹線米原駅からバスで国道8号線を南下し,およそ1時間 東近江市五箇荘(ごかしょう)に到着。
街道歩きをする前に 近江商人のふる里「五箇荘金堂町を散策する。今回の参加者14名(男性:5,女性:9)。
五箇荘を散策
近江商人はその出身地により,「八幡商人」「湖東商人」「日野商人」などと呼ばれているが,「湖東商人」のふる里が,ここ五箇荘で,五箇荘小幡町・石馬寺町・三俣町・竜田町・石川町・塚本町・新堂町・簗瀬町・川並町・・・・・などからなる。
訪れたのは国道から北へ入った所にある商人屋敷が並ぶ静かな佇まいの五箇荘金堂町(平成10年 国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている)。金堂の地は大和郡山藩の陣屋と社寺を中心に形成された農村集落。それにいくつもの近江商人屋敷が加わって歴史的景観が保たれており,国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
五箇荘・愛知川・能登川・高宮など愛知川流域から出た湖東商人は江戸後期になってから登場し,特産の近江麻布を持ち下り商品として持参する全国行商を始めた。京阪や東海道で仕入れた呉服・綿製品を関東・信州で売却し,関東・東北で仕入れた関東呉服・生糸・紅花類を名古屋・近江・京阪で販売する産物廻しの商法で着実に富を貯えて,店舗を開設する程の身代になっても,中山道沿いという地の利がある近江の本家そのものは営業拠点として残し京都・大坂・江戸といった大都市に出店を構えるのを通例としたという。
近江商人としては後発であった湖東商人の多くは「売り手よし 買い手よし 世間によし 三方よし」という格言として有名な「三方よし」理念のもとに商圏を拡大し,近代企業に転身して今でも老舗企業として存続している。総合商社「伊藤忠」・「丸紅」の祖である伊藤忠兵衛や朝鮮半島・中国大陸に一大百貨店網を築いた「三中井」の中江勝治郎を生みだしている。
五箇所庄金堂地区地図(拡大できます)
「外村宇兵衛邸」
「外村宇兵衛家」は文化10年(1813),外村与左衛門との共同事業から独立して商いを始め,東京・横浜・京都・福井などに支店を持ち,呉服類の販売を中心を広げ,明治時代には全国長者番付に名を連ねる近江を代表する豪商の地位を築いた。
現存する母屋は,二代目が万延元年(1860)に建築した。白壁が映える木造瓦葺二階建て。屋敷は母屋・納屋・書院・茶室・大蔵・米蔵・雑蔵・大工小屋・川戸(かわと:屋敷内に水路を引き込み洗い場兼防火用水・魚を飼う池として利用)など10数棟に及ぶ建物,神埼郡内一番と評される程の庭が五箇荘商人本家の生活文化を偲ばせてくれる。
「外村繁邸」
四代外村宇兵衛の妹みわに婿養子吉太郎を迎えて分家したのが外村繁家の始まり。
本家の京都店の勤めから明治40年(1907)に独立。東京日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を開き活躍した。
明治35年(1902)この家の三男として生まれたのが外村繁,東京帝国大学経済学部在学中,文学を志し父の死後稼業を継ぐが,昭和8年(1933)弟に稼業を託し文学の道に専念する。
当屋敷も五箇荘商人の本宅として,家族や番頭・女中らが生活した大きな主屋や蔵があり,接待の場としての立派な座敷が往時の隆盛さを物語っている。現在,蔵は「外村繁文学館」となっている。
「中江準五郎邸」
中江家は日露戦争さなかの明治38年(1905)朝鮮の大邱に「三中井商店」を設立し,以後本格的百貨店経営に乗り出し事業を拡大したが,昭和20年の終戦と共にその資産の多くを海外においてあったため「三中井百貨店」は終わりを告げる事となった。
屋敷は2階建切り妻瓦葺で,蔵が2棟,池泉回遊式の庭が見事である。小幡人形と全国の人形が常設展示されている。
「浄栄(じょうえい)寺」
寺伝によれば,聖徳太子がこの地を訪れた際,不動坊という僧とともに,大きな金堂を建て,これが村の名前の由来となった云う。不動坊は不動明王の化身とされ,不動院を建立,この建物は朽ちてしまったが,宝冶元年(1247)浄栄法師が,この寺院を再興し浄土宗「正光山不動院浄栄寺」と号した。
「弘誓(ぐぜい)寺」
寺伝によれば,那須与一の孫「愚拙坊(ぐとつぼう)」の開基と云われる。本堂は,規模が大きく御坊格寺院のそれに匹敵する。主要部は宝暦14年(1764)に完成(国指定重文)。表門の瓦には,那須与一に由来する扇の紋が入っている。
蔵・屋敷がひっそりと佇む五箇荘金堂の町並み 外村宇兵衛家座敷
質素な造りながら高価な材を使い,造りも工夫が凝らされている。外村繁邸台所 弘誓寺本堂
愛知川が流れ込む琵琶湖の東南,静かな農村地帯に,人知れず静かな佇まいを持つ五箇荘金堂集落。国道で近くを通ったとしても,ここにこのような町並みと屋敷群があると気付く人はほとんどいないであろう。
”堂中通り”,”祭・馬場通り”をゆっくり歩きながら長屋門風の校門のある「五箇荘小学校」,「近江商人博物館」前を通り,五箇荘竜田町の「楽ごろうぇもん」という名の店で昼食。
その後「近江商人博物館」を”超駆け足見学”。
バスで愛知郡愛荘町沓掛の「石部神社」へ移動し,雨が断続的に降り続くなか,街道歩きを開始。(13:15)
「石部神社」は,古代の部民制における石作部(いしつくりべ 石を扱う技術集団か? )に由来があるとされ,平安期編纂の延喜式に記される古社である。
およそ500m程で,<沓掛>交差点。その先で道は二股となる。「道標」が残っているが街道は右手の道を進む。
右手に「愛荘町立愛知川小学校」,堂々たる2階建ての鉄筋コンクリートの校舎が2棟並ぶ。校門は御影石,歴史ある小学校と見た。
愛知川宿ゲート 近江商人亭三角屋 分地蔵と
愛知川宿北入口碑
右にゆるくカーブして小さな川を渡ると愛荘町中宿。
間もなく「中山道愛知川宿」と書かれた冠木門風のゲートが建つ。紋章のように描かれた絵は「びん細工てまり」だと云う。柱に「愛知川愛盛会商業協同組合」と書かれていた。
左手,近江鉄道「愛知川駅」への道を通り過ぎ直ぐ先左手板塀にかこまれた「近江商人亭三角屋中宿店」がある。文化庁登録有形文化財旧田中家住宅で現在は料亭を営んでいる。
(13:35) しばらく歩くと右手に「郡分(わけ)地蔵」「愛知川宿北入口」碑がある。ここから「愛知川宿」となる。
愛知川宿 えちがわじゅく 江戸から121里28町8間,65番目の宿場,町並み5町34間。
律令時代の官道東山道の宿駅で,中山道制定でそのまま宿となった。東海道土山宿へ抜ける「御代参街道」の分岐点でもある。愛知川は「恵智川」とも書かれ,宿の西はずれを流れる川の名からその名が起こっている。
天秤棒一本で行商した近江商人発祥の地のひとつ五箇荘があり,近江麻布の生産,各種物産の集散地として栄えた。
人口929人 家数:199軒 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:28
宿に入ってすぐ右手に「しろ平老舗」ほか和菓子屋さんが3軒も軒を連ねる。昔は茶店でもやっていたのが和菓子屋さんに転向したのだろうか?
その先「滋賀銀行」のある交差点を渡った所に「ポケットパーク」。広重の愛知川宿の画と,現役の黒塗りボックス型の郵便ポストがある。
ポケットパークの広重画
広重が描いた木曽海道六拾九次の「恵智川」は,宿場南外れを流れる愛知川に架けられた
”むちん橋”の様子を描いている。
交差点から150m程先右手に
宝満寺
「親鸞聖人御旧跡&宝満寺」
旅の途中で親鸞上人が立ち寄りその際植えたと云われる「紅梅」が残る。上人直筆と云われる「掛け軸」も保存されていると云う。
またこの寺は,蓮如上人御影道中の定宿として知られる。「御影道中」とは,本願寺中興の祖である蓮如上人の御影を抱いた門徒一行が,京都東本願寺から吉崎御坊(現 福井県あわら市)までを歩いて往復する行事。毎年5月7日の晩に愛知川の家々は提灯を掲げ,御上洛(帰路)の一行を迎えるという。
「宝満寺」の先「日本生命営業所」のある辺り一帯が「本陣跡」だと云うが往時の面影は全く無い。
その先「八幡神社」の向かいに「高札場跡」碑。少し先左手に「脇本陣跡」碑と「問屋場跡」碑があるというが,見つける事が出来なかった。
本陣西沢家は建坪142坪,門構え玄関付き。脇本陣藤屋は建坪131坪同じく門構え玄関付きであったと云う。
漬物のマルマタ 更に歩くと左手に赤カブ漬けの「マルマタ」,さらに150m程先に「割烹旅館竹平楼」。竹平楼は「竹の子屋」の屋号で宝暦8年(1758年)から旅籠を営んでいたという老舗。庭園を生かして料亭竹平楼となる。鯉の飴煮が人気とか。
料理旅館竹平楼
明治天皇が明治11年(1878)北陸巡幸の際,ここに立ち寄った。記念の「明治天皇御聖跡」碑が建つ。
この辺りが愛知川宿の南出口。
250mほど先に小さな川が
「不飲川(のまずかわ)」
昔この川の源,野間津池で激戦があり池水に血が流れ込んだため,ひとびとはそれを嫌ってこの池の水を飲まなくなったとか,藤原秀郷が京へ平将門の首を持ち帰る時,その首を池で洗ったため水が汚れたと云う伝説からこの名前が付いたと云う。不飲川は昔は彦根との水運路であった。
不飲川(のまずかわ)
愛知川西の一里塚跡碑
御幸橋
明治11年明治天皇巡幸の際掛けられたので「御幸橋」。上流に近江鉄道,新幹線の橋梁が架かる。往時の「むちん」橋は御幸橋と近江鉄道橋梁の間を斜めに渡っていた。
「不飲川」を渡ると入口にあったと同じ冠木門風ゲートが建つ。その先で街道は国道8号に合流して左折。
国道の西側に122番目の「愛知川西の一里塚跡碑」
600mほどで愛知川に架かる「御幸橋」に到る。
<御幸橋>交差点の手前左手に「祇園神社」,境内の隅に大きな「常夜燈」が立ち,国道脇に,「むちん橋」の説明板が掲げられている。
この「愛知川常夜燈」は,高さ4.75m(積石部分は除く),笠部の幅が2mもあり中山道にふさわしく,弘化3年(1846)2月の銘があり,愛知川・五箇庄の寄進者・世話方・石工などの名が多く見え,彼らの努力によって建立されたことを示している。
愛知川の川越えは,この「常夜燈」や「むちん橋」により安全に川を越えることができるようになったことだろう。あの珍道中の弥次さん喜多さんも江戸への帰り道はこの無賃橋を渡ったとか。
現在の御幸橋は昭和36年(1961)国道8号線の新設とともにデビューした。明治11年秋,天皇巡幸の際建設した木橋から5代目の橋である。
「愛知川」は大洪水のたびに溺死者を出したため,文政12年(1829)町人成宮弥次衛門と五箇荘の3人が私財を拠出し寄付を集め橋をかけた(天保2年(1831)完成)。当時の渡り橋は通行料金を払うのが普通であったが,慈善事業のため無賃としたので多くの旅人に喜ばれた。橋のたもとに「むちんはし はし銭いらず」と書いた柱が描かれていたと云う。
広重が描いた木曽海道六拾九次の「恵智川」は、宿場南外れを流れる愛知川に架けられた”むちん橋”の様子を描いて,後世にこの善行を伝えている。
御幸橋を渡ってすぐ左折し近江鉄道の踏切を越した右角にも「常夜燈」(小幡の常夜燈)が立ち,祇園神社境内の常夜燈と結んだコースが中山道の「むちん橋」が架かっていた場所である。
小幡人形を売る店 「愛知川」西岸の常夜燈から中山道に戻り,100mほど先左手の「愛宕神社」で小休憩。
御代参道道標
ここは東近江市五箇荘小幡町となり右手に年賀はがき切手にも採用された「小幡でこ人形」を飾った家がある。300年の伝統を守る九代目細居源吾さんの工房だと云う。ショーウインドウに人形が飾ってなかったら見過ごしてしまうところだった。
(14:24) バス停<出町>
近江鉄道踏切を通過しておよそ300m,変則四差路。左折すると近江鉄道「五箇荘駅」,左斜め前方へ進む道は,
「御代参街道」
「いせようかいみち きょうみち」と刻まれた道標が立つ。
元は公卿たちが「伊勢神宮」や「多賀大社」へ向かう時に使ったが,江戸時代に入ると公卿に代わって代参をを勤める人々が通ったので,「御代参街道」と呼ばれるようになったという。
更に100mほど先で二股,旧道は右にゆるくカーブして行く。(15:36)すぐ右手に
「正眼禅寺」
臨済宗のお寺で,ベトナム辺りと交易していた証拠とされる「御朱印状」(国指定重要美術品)が保存されているという。
近江商人が遠くベトナム辺りと交易していた貴重な証拠でもある。
西澤梵鐘 用水路を渡って,国道8号から分れて来た道に突き当たり左折,右手に「五箇荘郵便局」「東近江市役所五箇荘支所」(ここでトイレ休憩,観光パンフレット・地図類を戴く)。
御代参道常夜燈
少し先左手に幕末から梵鐘造り一筋の「西澤家」。門前に釣鐘が置かれている,三俣鋳物師は300年の伝統を持つと云う。事前に依頼すると工場内を見学させて呉れるとのことである。
(15:04) 更に進むと二番目の「御代参街道」分岐点,左角に「右京道 左いせ・ひの八日市」と書かれた常夜燈が立つ。伊勢へ通じる脇街道として近江商人の重要な道であったという。
地名が「五箇荘三俣」から「五箇荘北町屋」に代わり信号のある交差点に「金堂 石馬寺」と書かれた標識がある。右に行くと国道を越えて,午前中散策した近江商人屋敷のある「五箇荘金堂」に通じる。
(15:09)交差点の先左手に再び「ポケットパーク」があり,「明治天皇北町御小休所」碑が立つ。実は休んだところは向かいにある大きな家(旧市田邸)で,
ここも数種類の石碑が置かれている。
大郡神社入口
(15:11) 右手「大郡神社入り口」
ういろうを売っていた茶店
(15:13) 点滅信号機のある交差点wo
渡った右角に修復中の「藁ぶき屋根の家」。”ういろう”を販売し大名や公家なども休憩に使った家(旧片山家住宅)だと云う。茶屋本陣的な役目をしていたものと思われる。家の脇に「金毘羅大権現」と彫られた常夜燈が立つ。
(15:15) 左に「五箇荘山本郵便局」
このあたりに「一里塚」があったとされるがその痕跡は全く無い。
(15:23) 国道8号に合流し左折。合流点に肩に「天秤棒」を担いで全国を行商していた「近江商人」の銅像が立つ。
(15:25) 国道を信号付き横断歩道で右側に渡り直ぐ右斜めに入っていく旧道を進む。
近江商人像
道中合羽に笠をかぶり,前後に商品を付けた荷を担ぎ歩む銅像。
すぐ右手に「清水鼻の名水」。
清水鼻の名水
毎分1.2リッタℓの湯数量湧水量とか
湖東三名水(他の二つは彦根の十王水,米原の居醒の清水)のひとつとして著名。最後尾で到着したわたしは,名水を立て続けに3杯飲みほし,タオルを冷やして首に巻きつけ,ひと休みする間もなく先行するグループを追いかける。
ここは,五箇荘清水鼻町という集落で「清水鼻立場」として賑わい,名物「焼米はぜ(爆米)」(砂糖で味付けされていない雛あられみたいなものか?わたしが子どもの頃,鉄製の圧力容器に米や麦を入れて熱し,急速に蓋を開けるとドカーンと云う音を出してネットの中にはじ弾け飛ぶいわゆる”爆弾コーン”のようなものだろう)が売られて人気だったと云う。
200mちょっと先で,連続する集落の途中なのに東近江市から近江八幡市安土町石寺に変わる。
(15:33) 地先が変わって150m程で左折(直進する道は,近江八幡へ行く道である)。小さな用水路を越し,およそ400m程で左手を走る国道8号に合流する。(15:35)
国道を300mほど進んで,新幹線高架をくぐって更に400m程で,「右観音正寺」の標識のある交差点で地下横断歩道で国道の南側に渡り国道と分かれて南へ進む。なお「観音正寺」は,聖徳太子建立と伝わっている。西国32番札所として)古くから多くの信仰を集めていたが,平成5年に本堂は焼け落ちているという。
(15:46) 前方右手に鬱蒼と生い茂った森が見えてくる。「老蘇(おいそ)の森」&「奥石(おいそ)神社」である。
「老蘇(おいそ)の森」
伝説によれば孝霊天皇(七代天皇)5年の時代,この地一帯は,地割け水湧いてとても人の住める所では無かったため,石辺大連という人物が松・杉・桧を植えて神に祈ったところ,忽ち大森林になったと云う。
石辺大連は森の主となり百数十歳の長寿を保ち元気であったので,老蘇と称され,それから「老蘇の森」と云うようになったという。往時は現在の数倍の大森林であったと云われ,平安期以来,中山道の歌所として和歌・紀行文・謡曲などに詠まれている見事な森である。
夜半ならば老蘇の森の郭公 今もなかまし 忍び音のころ 本居宣長
身のよそにいつまでか見ん東路の 老蘇の森にふれる白雪 加茂真淵
「奥石(おいそ)神社の森」
石辺大連が神恩に感謝し,老蘇の森に神壇を築き大蔵皇子を祀ったことに始まると云われている。
日本武尊蝦夷征伐の折,弟橘姫命が上総の海で海神が荒振るのを静めんと「我胎内に子在すも尊に代わりてその難を救い奉らん,霊魂は飛び去り江州老蘇の森に留まり永く女人平産を守るべし」と誓い,そのまま海中に身を投じたとあり,爾来安産の守護の宮として祈願する人ひとが多いと云う。
奥石神社本殿は三間社流造,檜皮葺,天正9年(1581)の再建。安土桃山時代の豪華さの中に優美な落ち着きをもつ建造物で安土町の国指定重要文化財では唯一の寺社建築である。再建は,織田信長が柴田勝家に造営させたと云われ,城下町を形成する施策に関連して寄進したものと考えられている。
「奥石神社」の大鳥居をくぐって街道に戻り,「東老蘇公民館」の直ぐ先左手に
「福生(ふくしょう)寺」
福生寺は浄土宗の寺で,天正16年(1588)に僧光阿の開基と伝えられ,」現在の本堂は江戸時代中期の建立とされている。本尊は鎌倉中期の作と伝えられる木造阿弥陀三尊像。
境内に,この先の「轟橋」際にあった「轟地蔵」が移されている。小幡人形の可愛い千体仏で,安産祈願のお地蔵さんである。慶応元年(1865)の福生寺の絵図には記載が無く,恐らく明治以降,轟川改修時にここに移されたものと考えられている。
「根来陣屋跡,根来陣屋小路」
「東老蘇公民館」前の小路に「根来陣屋跡」の案内標示があり,古くから陣屋小路と呼んでいるという。この小路の奥に江戸時代「根来陣屋」があった。
鉄砲の根来衆で有名な根来家始祖盛重は和泉国熊取谷(熊取町)中左近家出身で根来寺の僧であった。秀吉の根来寺焼き討ち後家康の家臣となり,数々の戦功をたて,大和・近江・関東に領地(知行所)を拝領し3450石の大旗本となる。当地東老蘇・西老蘇(699石)が根来家の知行所となったのは寛永10年(1633)であった。元禄11年(1698)領地替で関東の1500石と愛知郡上中野886石,野洲郡五条・安治・富波沢700石とを交換。この時期当地に陣屋が設置され代官所が置かれていた。
東老蘇は代々坪田恒右衛門家が在地代官を勤めた。元禄13年(1700)四代正国は奥石神社旧拝殿と鎧・兜(現存)を,天明4年(1784)九代正武は参道の大鳥居(現存)を寄進する。福生寺の本堂は陣屋の書院を移築したものと言われている。
(16:03) 「轟川」「轟橋「轟地蔵跡」碑
往時「轟川」の川幅は狭く「轟橋」と云われる3枚の石橋が架かっていた。その橋石は現在奥石神社公園地内に保存されているという。
奥石神社本殿 轟地蔵 「轟川」,「轟橋」
橋の脇に説明板と「轟地蔵跡」碑がある。
(16:07) 「安土老蘇郵便局」
<大連寺橋>交差点を渡る。
学校帰りの小学生が「こんにちは!」と声をかけて行く。左手に「老蘇小学校」
(16:15) 右手に「東光寺」 秀吉の祐筆だった「建部伝内」の寓居跡。
もともとの東光寺は,清水鼻にあった六角氏ゆかりの寺であるが,六角氏の居城観音寺城(清水鼻の北西にある山城)が織田信長に攻め落とされた後,この地に移ってきた。
境内の伝内堂には,元禄8年の造立銘の建部伝内の木造が安置されているという。
町指定の文化財である木造阿弥陀如来立像はよくまとまった優品で豊満な体躯やゆったりとした衣文から藤原時代后期の作品と考へられると云う。
(16:20)「東光寺」から400mほど進んだ<亀川>交差点着。ここから「西老蘇」から「西生来」となる。次の宿場「武佐」は指呼の距離である。
本日のウォーキングはここまで 歩行歩数:20,000歩 歩行距離:およそ12km
バスで本日の宿泊先 近江八幡市 「ホテルニュー近江」に向かう。
ホテルに入る前に,僅かな時間であったが「日牟礼八幡宮」に詣うでた後,雨にけぶる静かな「八幡堀」(写真左)を散策。(16:40~17:00)
近江八幡は天正13年(1585)に18歳で領主となった豊臣秀次(秀吉の甥)が八幡山城を築き開町したことに始まる。八幡堀は琵琶湖と城下を繋ぎ湖上を往来する船を城下に寄港させることにより人・物・情報を集め更に楽市楽座制を実施することで城下を大いに活気付けたと云われている。彼は近江八幡を商都として繁栄させるのに貢献したが謀反に罪をきせられ28歳で自決。近江八幡における治世はわずか5年であったが,その思いは近江商人を代表する八幡商人のルーツとなったと言われている。
東は北之庄,西は南津田延命寺湖岸近くの外湖とを結ぶ全長約5kmの八幡浦と呼ばれた運河で,大津・堅田と並ぶ琵琶湖三大港の一つである。今も残る堀沿いの土蔵・倉庫群は往時の繁栄を物語るとともに近江八幡商人の活躍を生み出した源流を思わせてくれる。
今日歩いたコース
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