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中山道69次を歩く(第32回)大津宿~三条大橋 その1 
 010年9月14~16日
(歩程 48,000歩 約29km)

 今回は,「瀬田の唐橋」手前の「建部大社」から「京都三条大橋」をめざす最終回である。

 『一日目』 建部大社~大津宿札の辻 天気:曇り

 
(09:49) 東海道新幹線米原着。
 駅前の路面が濡れていて少しばかり雨が降ったらしいが今は止んでいて,ひんやりした空気がさわやか,快適な歩きが期待できそう。駅前で待っていてくれたバスに乗り込む。「米原IC」から名神自動車道でぼほ1時間,「瀬田東IC」で一般道に下り,
 (11:05) 「石山寺」に到着。街道歩きをする前に 雨上がりのしっとりした風情が好ましい石山寺境内をゆっくり散策。

今回の参加者14名(男性:6,女性:8)。


 「石山寺」

 1190年源頼朝の寄進により建立されたといわれる「東大門」(国重文)を抜けて,雨上がりのしっとりした石畳の参道が素晴らしい。4月下旬ころのキリシマツツジや秋の紅葉が美しいという。

 石山寺は,元々は華厳宗であったが平安時代に入ると真言宗に変わり,東寺派の別格本山(各宗派での大本山(または本山)に準じた待遇を受ける特別な位置づけの寺院)。聖武天皇の勅願により良弁(ろうべん)僧正により開基。西国33ヶ所霊場のひとつ。
 境内敷地は3万6千坪,天然記念物(大正11年(1922)指定)になっている珪灰石(石灰岩が花崗岩などの高温岩体の貫入を受けた接触熱変成岩,大理石とほぼ同義。しゅう曲の様子が明瞭に観察できる。「石山」の名の起こりとなった。)がある。

 「東大門」は、金剛力士像に守られ仁王門とも呼ばれている。瀬田川に面した石山寺の正門。鎌倉時代初期建久元年(1190)の建築で桃山時代の慶長年間(1596-1615)にかなり大規模な修理改造が行われている。一方,平安時代に造られが,織田信長・足利義昭の」戦いで当時の屋根が消失,程なく淀殿によって修復され,その証として今でも豊臣家の家紋(五七の桐)が残されているという話しもある。明治40年(1907)国重文指定。

 「大黒堂」「くぐり岩」「観音堂」「毘沙門堂道」「御影道」「蓮如堂」から「本堂」へ。

 本堂は天平宝宇5-6年(761-2)にかけて拡張されたことが正倉院文書に見える。
現在の建物は永長元年(1096)に再建されたもので天平宇頃のものとほぼ同じ規模を持つ滋賀県内最古の建物である。何本もの長い柱で床が支えられている懸造りは、京都清水寺や奈良長谷寺と同じ造りで,27年(1952)国宝指定。国宝の本堂には,聖徳太子が伝えたと云われる秘仏「如意輪観音菩薩」が本尊として安置されている。2002年、胎内から厨子に収められた小さな四体の仏像が発見され、平安時代に焼失した旧本尊に収められていたことが古文書に記されていて石山寺の創建にかかわる貴重な存在である。安産・厄除け・縁結び・福徳などに霊験あらたかな仏さまとして信仰を集めている。
 一角には紫式部が七日間もこもって「源氏物語」を執筆したとされる「紫式部源氏の間」がある。ここには,江戸時代から紫式部の人形が置かれている。
また,清少納言・和泉式部・『蜻蛉日記』の藤原道綱の母・『更級日記』の菅原孝標の女なども石山寺のことを日記や随筆に記すなど,石山寺は,芸術家や文人たちに深い感応を引き起こし,女流文学の開花の舞台となり,その後も松尾芭蕉や島崎藤村をはじめ多くの文人達に慕われている。

 さらに,「経蔵」・「月見亭」(石山寺は月の名所としても有名で、近江八景「石山秋月」に選ばれている)・「多宝塔」(下層が方形上層が円形の美しく洗練された均整の取れた優美かつ壮麗な二重塔,建久5年(1194)建築の日本最古の多宝塔,その美しさから日本三大多宝塔のひとつとされ歴史的に貴重な存在。内部には四本の柱に多数の仏の姿が描かれた柱絵があり、重要文化財に指定されている)・「芭蕉庵」などを回る。

「東大門」前で全員記念写真をパチリ!

 門前左手に「三鈷の松」
弘法大使空海上人が弘仁2年(811)42歳の厄年に3カ月間石山寺で修行した大師ゆかりの松なので「三鈷(金剛杵密教の法具)の松」と伝承され1797年「東海道名所図絵」にも描かれていると言う。

 門前にある「洗心寮」という食堂兼みやげ物やで昼食。
メニューは,「しじみご膳」。

 「瀬田しじみ」は,あさり並みの大きさで,殻が厚くて光沢がある最高級とされているが,現在は瀬田川や南湖ではほとんど漁がないという。多分,韓国か中国産の輸入しじみを使っている筈だ。

 「洗心寮」の前の道路は国道422号で,琵琶湖毎日マラソンが行われる湖岸道路である。
琵琶湖マラソン大会は,大津市皇子山競技場から湖岸道路を南下し瀬田川を「洗堰」で対岸に渡り北上し大津市大萱で折り返す比較的平坦な高速コースといわれ,新人登竜門として有名である。ちなみに,過去に広島倉夫・君原健二・宇佐美彰朗・宗猛・茂兄弟・瀬古俊彦らが優勝している。

 
東大門 落ち着いた雰囲気の参道 珪灰岩の奇形 本堂内部
本堂は撮影禁止なので外からのショット
紫式部源氏の間 多宝塔 江戸時代?の門前風景 シジミご膳

(12:30) 再びバスに乗車して,前回土砂降りの雷雨のなかを歩き終えた
「建部(たけべ)大社」

 瀬田川の東岸,瀬田の唐橋から東へ500mに鎮座。東西に走る道路から,少し北へ入った場所にある。
近江の一宮。日本武尊・天明玉命・大己貴命を祀る。天平勝宝7年(755)現在地に遷座。
古くから歴代朝廷に尊信され,また武将たちの崇敬も深く,特に平安時代末,源頼朝14歳の時,平家に捕らえられて伊豆に流される途中,建部大社の立ち寄って源氏再興の祈願をし,見事にその願いがかなって以来,武運来運の神として信仰を集めたと言う。
 
 街道に戻って,
「瀬田の唐橋」に向かう。
 この辺りは,
「神領(じんりょう)」と言う地名。一宮建部大社の門前に位置し,その神料田(じんりょうでん)となったことから「神領」と呼ばれている。

 すぐに
「瀬田の唐橋」に着く。(12:50)
瀬田夕照
歌川広重「近江八景瀬田夕照」 奥に見えるのは三上山か? びわ湖大津観光協会「古都大津おくにじまん」より
 近江八景「瀬田の夕照」で知られる瀬田橋は,「日本書紀」にも登場する古くからある橋。
京都の喉元を握る交通・軍事の要衝であり,「瀬田橋」を制する者は天下を制するとまで云われ,壬申の乱など古代の戦いでは橋を切り落としたりし行軍を阻む戦略上重要拠点であった。

鎌倉時代に架け替えられた時,唐様のデザインを取り入れたため,「唐橋」と呼ばれるようになったと言う。
織田信長が現在のような大橋・小橋の形に架け替えた以降度々架け替えが行われ,昭和54年(1979)やや上流の現在位置に擬宝珠のみ当時の物を使用したコンクリート橋が架けられた。


 瀬田橋の歴史: 

672年 壬申の乱 大友皇子が大海人皇子軍に瀬田橋の戦いで敗れる。
764年 藤原仲麻呂の乱 仲麻呂軍が近江国府に入るのを防ぐため孝謙天皇軍が瀬田橋を焼く。

* 1988年に唐橋下流80mの川底から壬申の乱の時代まで遡ると思われる橋脚基礎が発見されている。

940年頃 俵藤太伝説 藤原秀郷による百足退治。

1184年 源範頼・義経軍が瀬田・宇治にて基礎義仲軍と戦う。木曽義仲・今井兼平戦士。

1221年 承久の乱 後鳥羽上皇が鎌倉幕府と戦う。

1582年 本能寺の変 瀬田城主山岡影隆が瀬田橋をを焼き,明智光秀の安土城進撃を一時阻止する。
唐橋周辺の地図
拡大できます。


百足退治伝説

 瀬田の唐橋に大蛇が横たわり,人々は怖れて橋を渡れなくなったが,そこを通りかかった
俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。
その夜,美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で,昼間,藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった
。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え,藤太を見込んで百足退治を懇願した。

 藤太は快諾し,剣と弓矢を携えて三上山に臨むと,三上山を七巻き半もする大百足が現れた。
藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の1本の矢に唾をつけ八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた
。藤太は龍神の娘からお礼として,米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また,龍神の助けで平将門の弱点を見破り,将門を討ち取ることができたという。

 秀郷の生れ故郷である下野国には,日光山と赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた男体山(または赤城山)の神を猿丸太夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという伝説(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残る)があり,これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。

 瀬田橋の東詰下流側に
 「橋守神社(龍王宮秀郷社)」「雲住寺」

 
竜宮の主に見込まれ,三上山の百足を退治した藤原秀郷(俵藤太)は,龍王乙姫と結ばれ,後に各々が龍王宮に祀られたという。
また雲住寺は,秀郷の子孫によって建立され,秀郷の遺品と伝えられる太刀や槍の穂先,。系図などが保存されている。

 瀬田橋東詰の上流側に,明治29年(1896)9月3日から12日にかけての大豪雨により琵琶湖周辺一帯が大水害に見舞われた際の記録した最高水位を示す標柱が建てられている。

 瀬田橋西詰上流側の小公園に日本の道100選 唐橋」のプレートがある。

西詰から西へ進み,「石山寺商店街」,左手に京阪石山坂本線「唐橋前」駅,踏切を渡ってすぐ先の<鳥居川>交差点で右折。
すぐ先左手に「明治天皇鳥居川御小休憩処碑」が立つ。

 北へまっすぐに伸びる道をおよそ450mほどで,京阪線路踏切を越えその先100mで,<松原町西>交差点を左折。
京阪&JR東海道線
「石山駅」南口前に出る。階上駅舎を通り抜けて,駅北口に出る。
ここから「ジャパンエヤガス㈱工場」の塀に沿って北西方向へ200mほど進み,小さな川(
「盛越(もりこし)川」)を渡って左折した先左手に

「今井兼平の墓」

今井兼平の墓
膳所城勢田口総門跡碑
 木曽義仲に最後まで従った家臣の一人。義仲の幼馴染で,兄弟のように育ったという。義仲の妻巴午前は兼平の妹である。

 ここ粟津(あわづ)で義仲とともに戦って悲壮な最期を遂げた。義仲が討たれたことを知ると,自ら刀を口に逆立てて馬から飛び降りたという話は,謡曲(ようきょく)「兼平」の素材となって語られている。

 兼平の墓は,元は山手の「墨黒谷(すみぐろだに)」にあった粗末な塚であったが,江戸時代になって,兼平を尊敬した膳所(ぜぜ)藩主本多俊次が寛文元年(1661)に墓石を建立し,寛文7年(1667)に次の藩主本多康将によってこの地に移された。「今井四郎兼平」と彫られた丸みのある石でできている。
 敷地内には墓石の他に兼平の末裔によって建立された灯篭や記念碑が数多く残されている。

 
駅前に戻って,左手「ルネサス関西セミコンダクタ㈱」工場の塀に沿って,北に進む。 

 この辺りは
「晴嵐(せいらん)2丁目」。往時は松が青々と繁り葉ずれの音が嵐のように聴こえたことから「粟津の晴嵐」(近江八景のひとつ)と呼ばれた。松林が続く粟津の浜に多くの帆船が風に寄せられる,そんな清々しいかつての光景は,今は,僅かに残された松数本と工場のフェンスの間から垣間見える琵琶湖の湖面から偲ぶ
のみ。

 「日本電気硝子」工場「大津市立粟津中学校」を過ぎて,「滋賀県衛生科学センター」の先の<晴嵐>交差点を越して直進,この辺りは「御殿浜」という地名。江戸時代以前は,このあたり一帯は「粟津野」 と呼ばれた古戦場である。

(13:50)道が左にカーブする右角の”森本宅”前に「膳所城勢田口総門跡碑」が建つ。現在は石碑のみ。

 
その先左手に壁を「べんがら」色に塗った古い家がある。
道はくねくねと曲がる。膳所はもともと城下町として,敵方を防御するために街道には沢山の鍵形が設けられている。現在の道路路線から往時の鍵形を正確に辿るのは難しいが,何度も曲がりを繰り返す。

 左写真は膳所の街道筋にある民家の「ばったん床几」。上方の脚を前に引き出して下側の梁を回転軸にして下方に倒すと即席縁台になる。

 京阪線の「宮町踏切」を渡ってすぐ右手に

「若宮神社」

「白鳳4年(675)天武天皇がこの土地に社を建てることを決断し,4年後に完成。九州の宇佐八幡宮に次ぐ古さ 」 とある。
 社殿は幾多の戦火により焼失したが,膳所城完成後は城主の寄進を受けて建物の修繕などが行われてきた。鳥居の先にある表門は,明治3年(1870)に廃城になった 「膳所城の犬走門」 を移築したものとされる(大津市指定文化財)。瓦には旧膳所城主・本多氏の立葵紋が残されており,歴史を物語っている。
 粟津の森八幡宮といっていたが,若宮八幡宮となり,明治担って以後「若宮八幡神社」になった。 

 ここで,水分補給をしながら小休憩。
「若宮八幡神社」の先で右折,「大津中庄郵便局」の先で「京阪電車踏切」を渡る。左手に「瓦ヶ浜」駅。(14:02)
弁柄色の古い民家を見ながら更に250mほど先左手に(14:05)

「県社篠津神社」


 祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)。創始年代不明。古くから産土神(うぶすながみ)として庶民の信仰を集め,江戸時代には代々膳所藩主の篤い帰依を受けたという。

 神社の表門は,膳所城の北大手門を明治5年(1872)に移築したもの。本瓦葺(ほんかわらぶき)の高麗門で,膳所城の堂々とした姿を偲ぶことができる。


「粟津晴嵐

歌川広重「近江八瀬粟津晴嵐」 びわ湖大津観光協会「古都大津おくにじまん」より

若宮八幡神社

篠津神社表門
 

 道は「奥村歯科」の建物に突き当たり左折。
「中庄」駅踏切
手前を右折。およそ350m先左手に長屋門を持った「大養寺」
 その先の交差点(右にローソン,左に金子工務店)を左折すると「膳所神社」,右折すると「膳所城跡公園」に到る。

 
まずは,「膳所城跡公園」に向かい,S氏が機転を利かせて買ってくれたアイスキャンデーを頬張りながら暫時休憩。
城の面影はほとんどないが,琵琶湖に突き出したような場所で前面に「近江大橋」彼方に草津矢橋からの船便の着いた港「矢橋帰帆島」が見える。

びわ湖に突き出した場所に造られた膳所城本丸跡
今は,公園に姿を変えている。
びわ湖大津滋賀観光振興協議会協会「大津 湖都を駆けぬけた戦国武将を訪ねて」より

近江大橋
「膳所城跡」

 膳所(ぜぜ)城 は,徳川家康が大津城に代え,慶長6年(1601)に,藤堂高虎に命じ大津城を解体しその資材にて築いた城で,琵琶湖に浮かぶ水城としてまた天下を治めた家康が最初に造った城として有名。

 瀬田の唐橋を守護する役目をも担った膳所城は,琵琶湖の中に石垣を築き本丸・二の丸を配置し本丸には四層四階の天守が建てられたいた。 

 京都への重要拠点であったので,徳川の譜代大名を城主に任命し,初代は廃城直前だった大津城を預かっていた戸田氏。
戸田氏が僅か2年で没した後,本多氏→菅沼氏→石川氏と続き,慶安4年(1651),再び本多氏が城主になりそのまま幕末まで続き,最後の藩主本多康穣(やすしげ)が廃城願いを新政府に提出し270年余り続いた城の歴史は幕を閉じた。

その後,城門や櫓などは膳所神社・篠津神社をはじめ各地に移築され現在も当時の姿をとどめている。
 現在城跡には石碑が建ち復原された表門らしきものを残すのみで,地元住民の憩いの公園となっている。

(14:40)
「膳所城跡」から先ほど右折してきた<ローソン交差点>まで戻りその先にある「膳所神社」へ。

 膳所神社は,「天武天皇6年に,大和国より奉遷して大膳職の御厨神とされた 」 と伝えられる神社。中世には諸武将の崇敬が篤く,社伝に豊臣秀吉や北政所,徳川家康などが神器を奉納したという記録が残る。

 膳所という地名は,天智天皇が大津宮を作った際,この地を「御厨所」と定められた。「御厨所」とは天皇の料理をする場所という意味で,料理に使う魚を調達したこの地が「陪膳浜(おものはま)」と呼ばれるようになりやがて膳所となったと言う。
膳所神社表門


 本殿・中門および拝殿の配置は、直線上東正面の琵琶湖に向かって建っている。表門は,明治3年(1870)に廃城になった膳所城の二の丸から本丸への入口にあった城門を移築した
薬医門で,本瓦葺のどっしりとした構えを見せており,国の重要文化財に指定されている。

 街道に戻り大津宿を目指す。
 170mほど先左手に
「梅香山縁心寺」(膳所城主・本多家の菩提寺である,また膳所城初代城主戸田氏夫妻もここに眠っている)。裏手に,「膳所高校」の校舎が見える。

 更に160mで同じく左手に

「和田神社」

 祭神は高竈神で,白鳳4年(675)に勧請,古来から八大龍王社とか正霊天王社とも称されたが,明治に城主が和田神社 と名付けたと言う。

 透かし塀に囲まれた本殿は一間社流造,軒唐破風付で国の重要文化財に指定されている。 桧皮葺きの屋根は安土桃山期に改築されたもの。側面の蟇股(かえるまた)は鎌倉時代の遺構。門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)の門。

 境内にある樹齢600年以上を誇るイチョウの大木(樹高24m,幹周り4.4m)があり, 石田三成が京都へ搬送される時つながれたと伝えられる。当時は,この辺りの湖上交通の目印にもなっていたらしい。

 更その先の二差路を左折して200mちょっとで,「響忍寺(こうにんじ)」(膳所城周辺にあったが火災により焼失。宝暦元年(1751)膳所藩家老屋敷跡に再建された。表門と中門は屋敷門が使われている)前で右折して,100mほどで左折(角の電柱に「木下町10 旧東海道は左折するとの矢印案内」がかかっている),「響忍寺」を回り込むようにして裏側に出て小さな川を渡ると左手

 
「石坐(いわい)神社」

 天智天皇が創祀されたと伝わる古社。
むかし干害にあったこの地の人たちが雨乞いをしたら,ひじょうな応験があって,水の神様として里人の信仰が深かったと伝えられる。
 私たちが訪れたときは,拝殿に収穫されたばかりの稲束が収められていた。

 
街道は,「西の庄」という町に入って行く。
右に「うなぎ屋さん」,左にべんがらの古い民家が1軒,また1軒。
右手に曲がる枡形があり,右角の笹川宅前に
「膳所城北総門跡碑」が立つ。見落としてしまいそうである。(15:17)

(15:24)
400mほど先左手に

義仲供養塔
土壇の上に宝きょう印塔をすえたもの
御代参道常夜燈
「義中(ぎちゅう)寺」

 この辺り古くは
粟津ケ原といい,景勝の地であった。朝日将軍木曽義仲公の墓所がある。

 治承4年(1180)木曽義仲は信濃に挙兵し,寿永2年(1283)5月,北陸路に平氏の大軍を打ち破り,7月京都に入る。
翌寿永3年正月20日,鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上がってきた源範頼・義経の軍勢と戦い,利なくこの地で討ち死に。享年31歳。

 その後,年あって見目麗しい尼僧がこの墓所のほとりに草庵を結び,日々の供養ねんごろであった。この尼こそ義仲の側室巴御前の後身で,尼の没後,この庵は,
「無名庵」あるいは「巴寺」といい,木曽塚・木曽寺また義中寺と呼ばれた。

 芭蕉は余程ここが気に入ったと見え,度々訪れて句会を催し,さらに芭蕉は大阪で亡くなったが「亡骸は木曽塚に送るべし」との遺言によって当寺に葬られている。

 義仲寺の境内には義仲公墓,芭蕉翁墓のほか翁堂・巴塚・曲翠墓・山吹塚・巴地蔵堂や芭蕉や門弟などの句碑が所狭しと林立し,そのなかに

   
 「木曾殿と 背中合わせの 寒さかな」 
   「古池や 蛙飛込む 水の音」
   「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」


などの芭蕉や又玄の句がある。(国史跡 拝観料200円)

 (15:40)
京阪石山坂本線の踏切を渡る,右手に「石場」駅。
 踏切を越えた辺りは,江戸時代
「立葉場茶屋」が並んでいた。

この辺りから
「大津宿」が始まるという。

 大津宿 おおつじゅく
 東海道53番目,中山道69番目の宿場。
町並は南北一里十九町,東西十六町半。

 大津の名が歴史に登場するのは,西暦667年の天智天皇の大津京遷都である。壬申の乱をへて僅か5年で滅びたが,8世紀の平安遷都により都の玄関口となり古津(古い都の港)から大津(都の港)になった。

 北陸や奥州,蝦夷地の産品が敦賀や小浜で陸揚げされ荷駄と船で大津港に運ばれ,また,東海道や中山道そして北国街道などを利用した人や物資が行きかう重要な要路となった。

 また,都で争いが起こると,坂本・大津・膳所が戦いの場となり,戦国武将もこの地の重要性に注目して,信長は坂本に坂本城,秀吉は浜大津に大津城を,家康は膳所に膳所城を造った。

 家康は慶長7年(1602),大津城を廃し大津を天領にして大津陣屋を置いた。
 また東海道の開設に伴い宿場を置き,大津は,宿場町と近江上布を扱う店や大津算盤,大津絵など近江商人の町としても発展し天保年間頃には,人口が1万4千人を越え,家数3650軒と中山道・東海道中で最大規模の宿場町であった。
 人口14892人(男:7306人 女:7586人) 家数:3650軒 本陣:2 脇本陣:1  旅籠:71

 京阪線踏切からおよそ400m,広い通りを横断して更に直進,右手に
「浄土宗西栄寺」,左手に「浄土宗清源寺」を過ぎ,「滋賀県庁」の前から延びる道を横断,左角に「滋賀会館」・「県庁前郵便局」

宿場町であった面影はほとんどないが,電柱に
「東海道」の案内板が掲げられている。
旧東海道が通る道は京町通りと言って,スーパーやデパートのある湖岸通りや県庁などのある官庁街の近くにも拘わらず喧騒を忘れた静かな佇まいの通りである。

 
<中央通り>交差点を渡って進むと古い民家(元旅籠かな?)の前の十字路左角に

「露国皇太子遭難の地碑」


 明治24年(1891)5月11日,日本を訪問中東京へ向かうロシア皇太子ニコライがここで,警備していた津田三蔵巡査に斬りつけられた。
いわゆる
「大津事件」である。
政府は強国ロシアに謝罪の意を含め被告の死刑を強要するが,大審院児島惟謙は法律上一般人と同じとし無期懲役の判決を宣し司法の独立を堅持したことでも有名。

旧東海道案内表示 露国皇太子遭難の地碑 「札の辻標柱」
脇に説明板と「大津市道路元票」がある。
路面を走る京阪電車京津線

 <中央2丁目>交差点を渡って,200mほど先で<京町1丁目>交差点で,京阪電車京津線が路面を走る「西近江路」に出る。東海道はここを左折して南進する。真っ直ぐ進むのが「北国西街道」で,坂本や堅田などびわ湖西岸を通り駿河へ抜ける道で「鯖街道」として知られている。

 この辺りが
「札の辻」

 交差点を渡った左角に
「札の辻」標柱と「大津市道路元票」とその説明板が立つ。

「札の辻」とは,江戸時代,幕府の法令を記した高札が建てられた四辻であったことに由来する。
旅人や馬や人足を提供する大津宿の人馬会所もこの角にあった。
 ここは,東海道と北国街道(西近江路)の分岐点でもあり,京都から来た東海道は東に向かい,西へ行くと「北国街道」であった。
 
(16:10)
 本日のウォーキングはここまで 歩行歩数:21,300歩 歩行距離:およそ12.8km
 バスで本日の宿泊先 京都二条城前の「京都国際ホテル」に向かう。
 
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