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旧中山道69次を歩く(第1回)日本橋~湯島  008年3月6日 
(歩程 10,350歩 約6km)

午前9時30分,東京駅日本橋口に総勢22人集合。
先ずは,中山道の講釈:

「中山道は江戸を起点とする五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光街道・奥州道中)の一つで,東海道とともに江戸から京都を結ぶ重要な街道であった。
 この街道の道程は,江戸日本橋から武蔵国(埼玉県)上野国(群馬県)信濃国(長野県)美濃国(岐阜県)を通り近江国(滋賀県)草津で東海道と合し,京都に至る69次,135里34町10間(533.9km)であった。また信濃国木曾を通るため木曾街道ともよばれた。名称の由来は,日本国土の中間の山道ということで中仙道とも記されたが1716年,徳川幕府は中仙道を中山道と名称を統一した。」


 『北町奉行所跡』
 
 東京駅八重洲口ターミナルビルの一画に,ひっそりと小さな”案内石碑”があるだけである。ガイドが教えてくれなければ通り過ぎてしまうほどである。
 
 当時の北町奉行所は,東京駅八重洲口の”国際観光会館ビルの南隣り付近にあったというが,いまや”グラントウキョウノースタワー”という高層ビルが建っていて跡形もない。奉行という職掌は,都知事と裁判所長官と警視総監を兼ね,ほとんどが在任中に亡くなるほどの激職であったと言う。
 当初の江戸の町は,東京駅前の外堀通り辺りが海岸線となっており,神田駿河台辺りの台地から土砂を採取して埋め立てを行ない,50年ほどかけて江戸の町が築かれた。当時の人口は武士55万人・町人55万人・僧侶ほか10万人で,ロンドン,北京を凌ぐ大都市であったと言う。

 『一石(いっこく)橋』

 呉服橋から日銀方向へ向かう外堀通りが日本橋川を渡る箇所にある。一石橋のいわれは橋を挟んで北に金座の後藤庄二郎屋敷,南に呉服の後藤縫殿助屋敷があったので 両方の後藤(五斗)を合わせて一石との洒落から。最初の架橋は1600年代。
 南詰西のたもとに[一石橋迷子しらせ石標」がある。江戸時代の後半,この一石橋から日本橋にかけては盛り場であったため迷子も多かった。安政4年(1857)に,土地の有力者が世話人となり,石碑を建てた。柱の右側には「志らす方」左側には「たづぬる方」と彫られている。

 『金座跡・日銀旧本館&貨幣博物館』
 
 一石橋を渡って右手に「日銀本店旧館」がある。向かい側に「貨幣博物館」があり無料で入館できる。トイレ休憩をかねて,貨幣博物館を見学する。
さすが日銀だ!絨毯敷きの豪華な2階ホールに貨幣に関するありとあらゆる展示がされている。
 
 現在,日銀となっている場所は江戸時代,金貨鋳造所の「金座」のあったところである。1595年(文禄4)家康が後藤光次(金工)を江戸に招いて小判鋳造を始めたのが金座の始まりで,金座は江戸時代を通じて勘定奉行の支配下で,金貨(小判および一分金)の鋳造・鑑定・地金類の買収・監察などをしていたところで,江戸・駿河・佐渡・京都の4ヶ所に置かれていた。駿河は慶長年間に,佐渡は享保年間に廃され,京都金座も規模が小さくなって鋳造はほとんど江戸金座で行われていたが,1869(明治2)に廃止され1888年(明治21)に金座は日本銀行の敷地となり,1896年(明治29)日銀本館として竣工。1974年(昭和49)に国重要文化財に指定された。
 年末年始を除く平日,日本銀行の歴史や業務内容の説明を聞きながら建物内部を見学できるそうだ。(要予約

『日本橋』 

 さて,いよいよ旧中山道ウオーキングの出発点「日本橋」へ!

情けないことに首都高都心環状線に覆われてしまっている。


 1603年(慶長8)に,徳川家康が江戸東側の海岸地帯を埋め立てて町割りを行った際に架けた橋で,江戸の真ん中にあるという意味で日本橋と呼ばれるようになった。もとは木橋だが,幾度かの変遷を経て1911年(明治44),現在の石造りルネッサンス様式のアーチ橋になった。1999年(平成11)明治期を代表する石造アーチ橋の技術の達成度を示す遺構として国重要文化財の指定を受ける。
 南西詰めは”高札場跡”,南東詰は”さらし場跡”で現在は滝の広場という小公園になっている。北東詰は,”日本橋魚市場発祥の地”である。
10時45分,道路元標のある北側西詰めで全員記念写真を撮り日本橋を発つ。


 「八木長本店」の角を右折し100m程行った左手の

『三浦按針屋敷跡』
に寄る。

 ”三浦”は与えられた領地の名,”按針”は航海士の意味だという。ここ日本橋に約1000坪の屋敷があったそうだ。三浦按針屋敷跡

 中央通りに戻って北進,左手に三越(「現金掛け値なし」で繁盛した呉服店「越後屋」が前身),その右手のビル(三井中央信託銀行)との間から以前は,富士山を望むことが出来たそうだ,そのため駿河町という地名が残っている。
江戸時代,この辺りは,伊勢,近江,京都に本店を置く上方商人の江戸店が軒を連ねていた。

 追分(中山道と日光・奥州街道の分岐点)を過ぎ,

 『十軒店跡』

 「寛永江戸図」に「十軒店」と記された町で,五代将軍綱吉が京都から雛人形師を十人招き,桃の節句や端午の節句に人形を売る店が十軒あったことからその名があると言われている。江戸時代この付近は「鴻巣」・「越谷」とともに関東三大雛人形」の生産地として賑わっていた。数十年前まで一軒のみ残っていたそうだが,いまは人形を扱う店は無い。

 『長崎屋跡』

 長崎出身の薬問屋である「長崎屋」は参勤交代を真似て長崎からやってくるオランダ商館長らの江戸での定宿となっていた場所。シーボルトもここに滞在したという。当時長崎~江戸は2ヶ月もかかり,3ヶ月江戸に滞在し,また2ヶ月かけて長崎へ戻ったという。半年以上もかかる大旅行である,大変なことだ!。

 『石町時の鐘 鐘撞堂跡』

 江戸時代には鐘をついて人々に時刻を報せていた。この鐘は,石町(現在の日本橋室町4丁目付近)にあり,近くに長崎屋があったので,「石町の鐘はオランダまで聞こえ」の川柳がある。徳川家宣時代1711年(宝永8)に鋳直された鐘は現在日本橋小伝馬町十思公園に鐘楼を設けて保存されている。


 今川橋を過ぎて,神田駅北口方でJR高架をくぐり須田町方面へ。
今川橋は,神田と日本橋を画す堀があったが1950年(昭和25)埋め立てられ橋の名前だけが地名として残っている。日本橋は商人の町,神田は職人の町であったという。
 須田町には松屋,伊勢丹が当初店を構えていたが,関東大震災で消失しその後銀座,新宿へと移っていったという。(この話初めて聞いた!)

 『神田青果市場発祥の地』

 中央通りが靖国通りと交差する手前の横道を左に入り100mほど行った右手の老川ビル(千代田区神田須田町1-10)前に「青果市場跡の案内掲示板」のみがある。石碑は現在,千代田区教育委員会で保管しており,神田須田町・多町一帯で計画されている区画整理事業が完成した段階でしかるべき場所に再設置されるらしい。(石碑は,現在多町通りと靖国通りに交わる四辻のコンビニエンスの前に設置されている。2011.01.14記)

余談であるが,この辺りは,ニコライ堂が近くにあることからか,太平洋戦争中の空襲を受けず,現在も銅板葺きの壁を持つ家屋が一軒残っているのを発見。

「神田青果市場発祥之地」の碑文から「旧神田青果市場の由来」
 

 この市場は慶長年間に今の須田町付近,当時は八辻ヶ原と称していたこの地一帯において発祥した。(やっちゃ場の語源か?)
 徳川幕府の御用市場として,駒込・千住と並び江戸三大市場として栄えた。
 市場の若い衆が白装束に身をかため,かけ声も勇ましく”御用”のお札を上に青物満載の大八車を引いて徳川幕府賄所青物御所をめざして,かけて行く姿は実に”いなせ”であった。巷間,江戸の華といわれた,いわゆる神田ッ子なる勇み肌と有名な神田祭はこの神田市場にその言葉の源を発している。江戸,明治,大正,昭和まで続き,この地を中心に神田多町二丁目・通り新石町・連雀町・佐柄木町・雉子町・須田町にわたる一帯となる。震災で全滅したが復興し東洋一となったが,昭和3年12月1日に閉鎖、秋葉原北側に移転した。


 
秋葉原駅北側に移った青果市場も手狭になって平成元年度に閉鎖。今は大田区の大田市場に移転し,跡地には近代的な巨大ビル群が建ち並んでいる。

 須田町交差点の角に建っているビルが老舗「万惣」。
神田青果市場発祥之地の痕跡は,この万惣だけか?
いまや八百屋と言うより果物屋さんで,フルーツパーラーやレストランとしてのほうが有名。値段に糸目をつけなければ,千疋屋や新宿高野と同じくここでは1年中スイカでもみかんでもメロンでも何でも手に入る。

 右手に「交通博物館跡地」をやり過ごしJR中央線の赤煉瓦高架壁沿いに進むと,直接江戸城から発している”御成道”が中山道の道筋を横切ることを示す表示板がある。この道は往時,中央線高架部分を突っ切った後,神田川を”筋違橋”で渡っていたとのことであるが,その痕跡はまったく残っていない。

 わたし達は,『昌平橋』を渡る。


 この橋のある辺りは,室町時代には「芋あらひ橋(芋洗い橋)」と呼ばれる橋がかかっていた位置だといわれる。神田川の切通しができ,小石川方面からの水がこちらに流れるようになったのは江戸時代に入ってからのこと(1620年)だが,それ以前にもここから下流にはすでに川が存在しており,それを利用して海岸埋め立て土砂を本郷台地の山を削り搬送したものと思われる。
 昌平橋の架設はきわめて古く,寛永年間(1624~44)と伝えられている。1691年(元禄4)将軍綱吉が湯島に聖堂を建設したとき,相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたこの橋は,孔子誕生の昌平にちなみ昌平橋と改名された。
 明治維新後に相生橋と改められたが,1873(明治6)に大洪水で落橋,1899(明治32)再架してまた昌平橋として復したそうだ。
 現在の橋は,昭和3年(1928)12月8日に架設された。

 坂を上り,右手に神田明神,随身門をくぐり,先ずは中山道街道歩きの旅の安全を祈る。 
この坂は,以前都電19番線(日本橋~王子)が走っていたルートで,昭和40年前後の大雪の時,車輪が滑って登れず,徒歩で駒込まで帰宅したことを懐かしく思い出した。


 『神田明神』

 
神田明神は今から約1270年前の730年(天平2),武蔵の国豊島郡芝崎,現在の千代田区大手町将門塚周辺に大巳貴命を祭神として創建。
 約200年後,平将門が俵藤太に討たれ,その首が京都で晒されたがこれを奪い返して塚を築き葬った。さらに1309年(延慶2)には将門公の霊をも祀り,神田明神と名付けた。1590年(天正18)徳川家康は江戸を幕政の地と定め大規模な城下の造成工事を開始し,1616年(元和2)には現在の場所に移り,江戸城の鬼門の守護神となった。
 その後,桃山風の豪華な社殿が築かれ,歴代将軍の崇敬厚く,江戸鎮守として庶民にも親しまれてきた。
 随身門,酒屋組合が寄進した天水桶,石獅子や銭形平次の碑などがある。裏手にはいくつもの小社がごちゃごちゃと建てられている。社殿はすべてコンクリート造りで派手な色彩が目立ち,境内に立体駐車場が幾つも造られていて,商売熱心な明神様と察した。

 『湯島聖堂』

 湯島聖堂は,神田明神の向かい側にある孔子を祭った廟である。
1630年に林羅山が上野忍ヶ岡に建てた孔子廟を1691年(元禄4)に徳川綱吉によってこの地に移り大成殿とその周りの建物をあわせ聖堂と総称した。

 寛政2年(1790)八代将軍家斉の時に,幕府直轄の昌平坂学問所が併設され,1797年(寛政9)に孔子廟としての聖堂と教育機関としての昌平坂学問所とに分離された。
大成殿は,大火で3回も消失しその都度再建され現在の建物は1935年(昭和10)に再建されたものだという。入徳門(にっとくもん1704年建立,現在改修工事中であった)以外はすべてコンクリート造りの新しい建物である。大成殿は土日のみ開門される,孔子像や四賢人像が安置されているとのこと。
 敷地内には,台湾から寄贈されたという世界最大の孔子像や,楷書字体の基になったと言われる楷の木がある。
 
 昌平坂学問所は,現在の東京医科歯科大・附属病院や順天堂大学・附属病院のあたり一帯の広大な敷地を占めていたそうで,明治維新(1868年)に至るまで70年間,官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。

 明治維新により聖堂は新政府の所管となり明治4年に文部省が置かれたほか国立博物館,東京高等師範学校(東京文理科大→東京教育大学→筑波大学),東京女子師範学校(今のお茶の水女子大学)などが置かれ,近代教育発祥の地でもある。
大塚茗荷谷にあるお茶大,なんで”御茶ノ水”かと疑問に思っていたのだが,このことを知って納得した。  

13時30分 JR御茶ノ水駅聖橋口にて解散

 このウオーキング,歩くペースが早い。皆さん健脚だ!
歩くのは早くても結構だが,各々のポイントでの案内説明が終わるとすぐ移動してしまうので,メモを取ったり写真を撮ったりする余裕時間が極めて少ないのが難点である。
そのため一眼レフカメラを持って出かけた今回は,写真をほとんど撮れなかった。
次回からは,コンパクトデジカメを使ってフットワークをよくして出かけようと思う。


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