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旧中山道69次を歩く(第2回)湯島~巣鴨  008年3月22日 
(歩程 12,300歩 約7.4km)

今回は都合で土曜組に参加,午前9時30分JRお茶の水駅聖橋口前に集合。総勢30人。
聖橋(ニコライ堂と湯島聖堂の両方を望める場所にあるので”聖橋”と命名されたという。関東大震災復興橋梁の一つで(1927(昭和2)年完成)を渡って本日のスタート地点湯島聖堂脇の小さな公園でストレッチ体操をしてから歩き始める(10時)。

 本郷通りを北へ,
本郷2丁目・壱岐坂上 江戸時代この辺りは起伏の激しい台地で坂道が多かった。
本郷3丁目交差点の先に「別れの橋・見送り坂と見返り坂」と表題された文京区の説明板が立っている。3丁目交差点から北側へは道はゆるく上っている、ここ本郷4丁目に、「別れの橋」という小さな橋があって、”江戸払い”となった罪人を追放し、見送ったり見返ったりしたという巷説が出来たらしい。


 『かねやす』
 
 享保年間(1716-36)兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、本郷3丁目の角に店を開いて、”乳香散”という歯磨き粉を売り出して「本郷へ行くなら”かねやす”で乳香散”を買ってきておくれよ」などと大そう評判になった。
 享保15年大火で,町奉行(大岡越前守)は,本郷から江戸城へかけての家は,塗家・土蔵造りを奨励し屋根は茅葺きを禁じ瓦葺きの家が義務づけられた。このため江戸の町並みは本郷までが瓦葺き,それから先の中山道は板や茅葺きの家が続いた。その境目の大きな土蔵のある「かねやす」が目立ち

       本郷もかねやすまでは江戸の内

という古川柳に歌われた。
 「かねやす」の本家争いが芝神明前(芝露月町との説もある)の「兼康」(こちらは兼康祐玄が創業)との間で争われたが,本郷は”かなやす”,芝神明前は漢字で”兼康”とした大岡越前守の名裁きが伝えられている。
 
 「かねやす」は,春日通りと本郷通りの交差点(本郷3丁目)角にある。

 『東大赤門』

  赤門の軒瓦には前田家の「梅鉢」の文様,大棟には徳川家の「三つ葉葵」

東大の敷地の大部分は加賀前田家の上屋敷(江戸城近辺の将軍から拝領した大名とその家族が居住する屋敷いわば公邸)であった。「加賀屋敷」と通称されるが、実は本藩加賀藩と支藩越中富山藩と加賀大聖寺藩三つの上屋敷が敷地を並べていた。11代将軍家斉の娘溶姫(やすひめ)が加賀藩前田成斉泰に輿入れするに当たり建造された。将軍家から嫁をとる際,朱で赤く塗り上げた門,赤門を建てる決まりがあった。赤門は焼けても再建は許されない為,残っているのはここ東大の赤門だけである。
建築後180年,重要文化財。

 赤門見学後,古い煉瓦造りの理学部2号館・医学部棟を抜けて懐徳園へ
東京大学では,現在盛んに新しい建物の建設工事が進められている,落ち着きのある旧い建物が数年後には全部取り壊されてしまうのだろうか?

 懐徳館・懐徳園は,旧加賀藩前田家が明治43年に和洋館の迎賓館を造り大正6年に帝国大学と土地交換の後,寄贈。昭和20年の東京大空襲で焼失,昭和26年和風建築を植物園から樹木を移し再建。
東大130周年記念事業の一環で3月7日まで特別公開中とのことであったがわたし達は外観を垣間見るのみ。

*11代将軍家斉は,56年間もの長きに渡り将軍職に着き側室50人,子供55人(うち20人は,乳幼児時に死亡)を設け,溶姫は25番目の子供だと言う。


 『法真寺・ひぐち一葉ゆかりの桜木の宿跡』
 
 本郷通りを挟んで赤門の向かい側正面にあるのが法真寺。
江戸時代,閻魔詣で賑わったという。

 法真寺は,「樋口一葉」ゆかりの寺としても有名である。
樋口一葉(1872-1896)の作品「ゆく雲」の中に次の一文がある。

「上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて寺内広々と桜桃いろいろ植わたしたれば,此方の二階より見おろすに,雲は棚曳く天上界に似て,腰ごろもの観音さま濡れ仏にておわします。御肩のあたり,膝のあたり,はらはらと花散りこぼれて・・・・・」

文中の御梵刹が法真寺,濡れ仏はこの寺に安置されている観音さまである。此方の二階とは境内のすぐ東隣にあった一葉の家である。一葉は明治9年から14年まで(4歳~9歳)の5年間この家に住んだ。一葉にとって最も豊かで安定した時代であったと言う。
一葉が生涯を閉じる直前の初夏,病床で書いた雑文の中で幼少期を過ごしたこの家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんだ。


『森川宿,本郷(森川宿)追分』 

 右手に東京大学の広大な敷地を眺めながら本郷通りを北へ。
正門を過ぎて,農学部との間に公道(言問通り)があり,本郷通りと交差する。
 この辺り一帯は江戸時代,旗本2300石の森川金右衛門と言う者の屋敷があって森川追分・森川宿と呼ばれた。
宿(じゅく)とは,人馬が休みをとる建場(たてば)のことで,中山道の警備にあたった先手組(さきてくみ)の与力六騎・同心50人が組屋敷に住み組頭が森川姓であったため森川宿と呼ばれた。
明治5年に岡崎藩主本田家の屋敷と先手組屋敷とを併せて森川町と名づけられた。昭和41年町名変更で,味も素っ気もない「本郷六丁目」となった。

 東大農学部正門前辺りが本郷追分(森川宿追分あるいは駒込追分とも言う)
日光御成道(岩槻街道)との分かれ道(追分)で,中山道最初の一里塚があった。
18世紀中頃まで榎が植えられていたが,度重なる災害と道路拡張によって昔日の面影をとどめるものは全くない。日本橋から1里である。
 角にある高崎屋は宝暦年間(1751~64)の創業。江戸時代には酒屋と両替商を営み,現在も酒屋を営んでいる。現在の建物は明治7年(1874)の建築とか。

ここ(駒込追分)で左に回り込み,日光御成道と分かれる。
 途端に道幅が狭くなり,交通量も一気に減るが,れっきとした国道17号である。しかしながら交通の幹線路としては,旧日光御成道の本郷通りと白山通りに譲り”白山上”でふたたび旧白山通りという名前がつくまでの区間は,「R17 ふれあい通り」という名がつけられている。つい30年ほど前には両側に風格のある店舗や家屋が建ち並んでいたのを記憶しているが,マンションなどのコンクリート造建物が多くなり様変わりしているのに驚く。 
 本郷追分~白山上の両側は旧・本郷区駒込東片町である。昭和41年からの新住居表示では,西片・白山(西側)と向ヶ丘(東側)に分かれてしまった。(東片町は何故か消滅!)
 
 日差しが強くなって来たので日陰となるの左側歩道を歩く。税務署・水道局を過ぎた所で左折。



 『円乗寺』

中央は寺の住職が,右側のはお七を演じ好評だった岩井半四郎が寛政年間(1789~1689)に,左側のは近所の有志の人たちが270回忌の供養で建立したもの

浄心寺坂(旧小石川指谷(さすがや)町から白山前町を経て本郷駒込東片町へ上る坂,別名於七坂と呼ばれる)を下って行くと右手に八百屋お七の墓,円乗寺がある。
 
 円乗寺は江戸観音12番札所として知られる天台宗のお寺。
 井原西鶴の名作「好色五人女」などで有名なお七(1668~1683)の墓がある。
 お七は駒込片町の八百屋の娘で,天和の大火(1682.12)で家が焼けて菩提寺の円乗寺に避難中に寺の小姓佐兵衛(又は吉三郎)と恋仲になった。再建された家に戻ってからも佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕えられ数え16歳で火あぶりの刑に処せられた。井原西鶴の「好色五人女」など古来いろいろ書かれ語られているが異説が多い。

 
 
 『大円寺』

元の道に戻ると右手に大円寺がある。都立向丘高校の裏手にあたる。

地蔵様の前には,ほうろくと呼ばれる素焼きの皿のようなものに氏名と願い事を書いて納められている

 この寺にある「ほうろく地蔵」は,天和2年のお七火事の後,火あぶりの刑に処せられたお七の罪業を救う為に熱した焙烙(ほうろく)を頭にかぶり,自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵さまと言われている。享保4年(1719),お七供養の為に渡辺九兵衛という人が寄進したと言われている。
 その後,頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気に霊験あらたかな地蔵として有名になったそうだ。

 また境内には高島秋帆の墓や,明治期の小説家斎藤緑雨の墓がある。
高島秋帆は,幕末の砲術家で徳丸ヶ原(板橋区高島平)で初めて洋式の砲術訓練をした。高島平という地名はこれに由来する。墓は,墓地の一番奥に奥にある。
 わたしはパスして日陰で一休み。


 『白山神社』
 

牛蒡しめ縄,上部が丸くなだらかに拡がる唐破風蔵様の屋根が特徴的な建屋

”白山上”交差点隅にある公衆トイレを借りてから旧白山通りを”白山下”方向へ向かう。この辺りは,ごちゃごちゃしていて歩道も幅狭で落ち着きのない町である。こんな狭い道によくぞ都電(18系統 志村坂上~神田橋)が走っていたものだと思う。

 都営地下鉄三田線白山駅で右折して突き当たったところが白山神社である。この横道に,客が列をつくって待っている食べ物屋さんがある,いつも並んでいるそうだ,どんな美味しいものを食べさせてくれるのだろうか?
 
 白山神社は,そんなに大きな神社ではないが,梅・躑躅そしてもうすぐサクラが開花しそうだ。紫陽花寺としても有名である,白山公園にかけて,約3,000株の紫陽花が自生しているそうだ。満開の頃また訪れることにしよう。

 白山神社の創建は古く,天暦年間(947~57)に加賀一宮白山神社を現在の本郷1丁目の地に勧請したと伝えられている。後に元和年間(1615~24)に,二代秀忠の命で巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移ったが,その後5代将軍職に着く前の館林藩主綱吉の屋敷の造営のため1655年現在地に再度移った。この縁で綱吉と生母桂昌院の厚い帰依を受けた。
 
 神社の裏手の大きな桜の木のある広場で休憩後,”白山上”に戻り通称「白山地蔵通り」と呼ばれている小路を抜けて本郷通りへ。

 『駒込土物店(つちものだな)跡』

 本郷通りに出た右手が交番,その向かい左手に「天栄寺」というお寺がある。
このお寺と本郷通りを渡った正面にある駒本小学校あたり一帯が駒込土物市場跡である。
神田・千住とともに江戸三大市場の一つで,幕府の御用市場であった。元和年間(1615~24)近郷の農民が野菜を担いで江戸市中に向かう途中,天栄寺境内の”サイカチの木”の下で毎朝休むことにしていたところ,付近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが始まりと言われている。土物とは大根・牛蒡・人参など土のついたままの野菜である。
 街道筋に点在していた問屋は,明治34年(1901)高林寺境内(現駒本小学校敷地の一部)に集結したが,道路拡幅などで昭和12年(1937)豊島区巣鴨に移転し豊島青果市場となって現在に至っている。
 

 再び中山道に戻り,巣鴨駅までただひたすら歩く。見所のない単調な道が続く。
途中左手に東洋大学の正門から続く階段と高層化した校舎にびっくり!!


 『巣鴨に住んでいた徳川慶喜』

 巣鴨駅手前左側の歩道脇に豊島区教育委員会の案内板があるのみで,現在その片鱗は些かも無い。

 15代将軍慶喜は,大政奉還後の静岡での長い謹慎生活の後,明治30年11月(1897)この巣鴨の地に移り住んだ。巣鴨邸は中山道に面して門があり庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており,町の人から「ケイキさんの梅邸」と呼ばれて親しまれたという。その後,すぐ脇を鉄道(目白~田端間の豊島線,現在のJR山手線)が通ることが決まりその騒音を嫌って小日向第六天町(現在の文京区小日向1・4丁目)に移り巣鴨に住んだのは明治34年12月までの4年間であったという。

 13時10分 JR巣鴨駅にて解散
 駅前の書店に寄った後,徒歩約15分で帰宅。

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