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旧中山道69次を歩く 熊谷~深谷        008年7月24日 
(歩程 24,700歩 約14.8km)

午前10時高崎線熊谷駅前を出発,総勢12人。
駅前通りを国道17号「筑波」交差点へ向かう途中,星川に架かる小さな橋を渡る。右手に熊谷名物「五家寶」の老舗山木屋を過ぎ,「筑波」交差点を左折して深谷方向へ向かう。この辺りは,熊谷宿の江戸寄りの木戸があった場所とされている

 『星川』
星川は,元和9年(1623)の荒川の氾濫によって出来た「玉の池」(現・星渓園)から湧き出る清流を源としている。水がことのほか清く,染物を洗ったり,子供たちが水遊びをしたという。
 昭和20年(1945)8月14日に熊谷は米軍の空襲を受けて,火を逃れてきた人々が星川に逃れ,多くの犠牲者がでたという。
  市では熊谷の玄関としてふさわしい顔づくり・文化の香り漂う市民のオアシスとして,市街地の中央を流れる星川の景観整備を進め,昭和50年(1975)から広場を設け,各広場に彫刻像を設置して「水と緑と彫刻のプロムナード」として広く市民に親しまれている。
 
 『熊谷宿』

 本陣2軒,脇本陣1軒,旅籠19軒,家数1075軒,人口3263人で中山道では四番目の宿場人口を誇っていた。(ちなみに一位は草津宿,2位は本庄宿,3位は高宮宿) 熊谷宿は珍しく飯盛り女がいなかったので次の宿の深谷宿(旅籠80軒)に泊まる旅人が多かった。
 熊谷は昭和20年8月14日,終戦前夜の空襲で市内の7割が戦災を受け,昔日の面影が完全に失われてしまっている。


「市役所入り口」交差点(この辺りが「熊谷うちわ祭り」のメイン会場)の次の信号手前右側歩道脇に
 「札の辻跡」石碑
 札の辻とは,高札場がある辻という意味で,竹井家には今でも高札が一部残っているという。

 国道の北側に渡って少し戻り右折した先に

  『高城神社』(熊谷市宮町2-93)
 
 祭神は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)で,武蔵国大里郡の総鎮守で 平安時代の延喜式にも記載されている古い神社である。 社殿は,石田三成による忍城攻めの際に兵火で類焼消滅(1590)したが,忍城主になった阿部播磨守正能が,寛文十一年(1671)に再建したのが現在の本殿である 
 境内には熊の神社や願いが叶うと赤石を奉納する珍しい風習のある天神社がある。また,各地の紺屋が奉納したと言う青銅製の大きな常夜燈(1841建立,高さ2.75m)と樹齢800年の欅の古木が有名。

 西へ向かい,「千形神社」,「陣屋跡」,熊谷寺」を経て八木橋デパートを一旦やり過ごし鎌倉町交差点を渡って国道17号南側を少し戻る

 『千形神社』(熊谷市本町1丁目14)
 
 祭神は天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)。熊谷直実の父である直貞が熊退治をした時に熊の頭を埋め,血が流れた場所に日頃,信仰している熊野権現を勧進した。そのために血形神社とも呼ばれる。交通安全・厄除け・ぼけ防止・無病息災のご利益あり。
 本殿の裏手に長屋門をもつ屋敷がある,このあたりが熊谷宿の中心地であった。

 『陣屋跡』(熊谷市本町1丁目14)
 
 千形神社の西側広場(駐車場?)は,江戸時代の陣屋跡で明治天皇の北陸東海巡幸の際の行在所と記された石柱も建っていた 。
 「熊谷宿は,忍(おし)藩の領地であったので,ここに陣屋が置かれていたようであるが,規模など詳細なことは分かっていない。 中山道からここまでの通りを,陣屋通りといい,この付近を陣屋町と呼ぶ人もいる。 」と説明板にある。 

 『熊谷(ゆうこく)神社』(熊谷市仲町43)
 
 正式には,(浄土宗)蓮生山熊谷寺。
熊谷直実が蓮生坊として出家し,承元元年(1207)に入滅した際,居住していた草庵の跡に天正年間(1573~92)に,幡随意上人が伽藍を建立したのが始まりという。熊谷直実は源平合戦「一の谷の戦い」で平敦盛(16歳)を討ち取った武将で,後に久下直光との所領争いで破れ出家して蓮生坊と名乗った。
 
 本尊は阿弥陀如来で,両脇に観世音菩薩が脇侍し,本堂屋根の四隅に逆さ獅子が配され,熊谷家の家紋 「ほやに向かい鳩」・徳川家家紋 「三つ葉葵」 ・浄土宗宗紋 「月影杏葉」 が付けられている。 三つ葉葵が付いているのは,徳川家康から御朱印三十石を賜わっていたことによる。 
 江戸中期には本堂・十王堂等多くの建物があったが,安政元年の火災で焼失した。 本堂は大正四年(1914)に再建された高さ十一間(21m)・間口十四間(25.5m)・奥行き十六間(29m)の堂々たる建物で総檜造りである。 本堂の西側には、熊谷直実の墓と伝えられる宝筐印塔がある。 なお、明治維新による廃藩置県の際,熊谷県が誕生した時は県庁として使われたこともあるという。
 残念ながら中に入ることは出来なかった。参観は日曜日だけ,それも個人に限ってできるとのこと。
『竹井本陣跡』(熊谷市本町1-150) 

 この本陣も大きかったようで,「間口14間(約27m),奥行きは星川にまで至り」と記されている。敷地1600坪。建坪700坪・部屋数47と有数の規模を誇っていた。明治17年(1884)と昭和20年(1945)の二度の火災で跡形も無く焼失した。

 「鎌倉町」交差点から左手に入り星渓園へ,

 『星渓園』 

 荒川の洪水により西方にあった土手(北条堤)が切れて池が生じ,「玉の池」と呼ばれた。竹井本陣の最後の当主竹井澹如翁が慶応年間から明治初年にかけて,ここに別邸を設け「玉の池」を中心に竹木を植え,名石を集めて回遊式の庭園とした。
 数奇屋風の正門をくぐり園内に進むと,玉の池を囲むように散策路があり,四季折々の景観を楽しむことが出来る。春には熊谷草と敦盛草が競って咲くという。
皇室をはじめ著名人が利用したとある。現在は,持ち主から委譲を受けて市の管理になっている。玉池は昭和30年代に湧水が枯れてしまい,現在は荒川の水を六堰から導水している。 

 竹井澹如は,天保10年(1839)群馬県甘楽郡南牧村羽沢の豪族市川家に生まれ幼名を萬平と言い幽谷と号した。明治12年(1879)初代の県議会議長となり,政府の要職をすすめられたが,始終一貫、熊谷地方のために貢献した。
 熊谷県庁の誘致・旧熊谷堤の修築と桜の植樹・養蚕業の振興・私立中学校(セキテイ学社)の創設などの偉業を残し,大正元年(1912)8月74歳で永眠。 

 再び「鎌倉町」交差点を北側に渡り八木橋デパートへ。
正面東口前に
「中山道跡石碑」「蓮生坊がたてし碑の 旅はるばると 泪あふれぬ 賢治 」 と刻まれた宮沢賢治の文学碑があった。

 さて中山道はこのデパートの中を通過している,化粧品売り場の前を2,30m抜けると正面西口に出る。ここにも中山道跡石碑が建っていた。平成元年にこのデパートが増築した際に旧中山道が建物内に取り込まれてしまったと言う。

 県道407号を横切って一番街という商店街の道を進む。わずかに旧街道の雰囲気が残る道筋であるがなんとなく侘しい。一番街は,戦前から戦後にかけて繁盛したが,駐車場のある郊外の大型ショッピングセンターに客を奪われ,今は,かつての賑わいはなくなってしまったと言う。ところどころの店先に「平成19年8月 40.9℃・・・・・」と記された幟がはためいている。暑さを逆手にとった熊谷のキャッチフレーズである。地元の女子高生が二人「暑い!あつい!」と言ってすれ違う。「熊谷の人でも暑いの?」とわたし,「今日は特別だよ~ どこまで行くの?」 「深谷まで!」 「げ~っ 倒れないようにねッ」。手元の温度計をチェックすると既に35.4℃を示している。
 フーフー云いながらおよそ500mほど,「石原歩道橋」で再び国道17号へ。「石原駅入り口」交差点を過ぎて少し行ったドライブイン風レストラン「とんでん和食レストラン」で早めの昼食
(11:25)

 冷たい水と濡れタオルで顔・首筋・腕を冷やす。
(12:10)再び街道へ。 残りはまだ10km近くある,この暑さの中,午後の厳しい歩きが始まった。気温は既に37℃を超えている。
 2,3分歩き交差点を左に入る。


 『秩父道の道標』
秩父道との追分に三基の秩父方面への道標と説明碑が建てられている。
 3基はそれぞれ年代が違うが,
「ちゝぶ道志まぶへ十一リ」「秩父観音巡礼道11里」「寶登山道(ほどさんみち)8里15丁」と刻まれている。これ等の石碑は,以前は秩父街道の入口にあったが,道路拡張により此処に移されたものである。

 秩父道はここで中山道から分かれ寄居,釜伏峠,三沢を経て秩父に至る。ところでここは公園風のグリーンベルトが南北に続いているが,実は
東武鉄道妻沼線軌道跡で,戦時中に群馬県太田の中嶋飛行機に資材を輸送するために,建設が進められたが戦後,妻沼から先の工事が中止され,1983年に赤字で廃線になったという。 

 再び国道17号線を北へ。右手に熊谷警察署がある大きな交差点(左国道140号秩父方面,右国道407号太田・妻沼方面)を越え,「石原北」交差点の先を斜め左に入り国道と分かれる。
 すぐに右手に欅の大木が見える。ここが

 『新島一里塚(植木一里塚)』

 日本橋から17番目,推定樹齢300年,高さ12mの欅の大木が立つ。一里塚は両側に五間四方の塚が築かれていたが,今は東側の塚しか残っていない。熊谷には,久下新田・柳原(現在は曙町)とここ,三つの一里塚があることになる。

 ここで水分補給休憩。時刻は12:30 気温はとうとう39℃を示し以後,常に39℃台で,最高39.8℃を記録した。

 新島一里塚から数分歩くと左手に

 『忍(おし)藩領界石標』

 徳川御三家に次ぐ親藩であった忍藩が安永9年(1780)に16箇所に立てた藩境の1本で,明治以降長らく行方不明だったが,昭和14年に発見されここに再建されたものだという。
「 従是南忍藩 」と刻まれている。最初は木製であったが,利根川の酒巻河岸から50人の人足が2日かかって運んだといわれる石材を使って建替えられた。

 およそ1.5km進み,左手に「県農林総合研究センター」,国道17号を「久保島歩道橋」で渡ると,「玉井」という地名になる。直ぐに小さな水路に架けられた橋に至る。

『筋交橋』

 ただの細い水路があるのみであるが,江戸時代は「玉井窪 川越場」といって,満水の時は往来を人足にて渡すことがあったと記録されていて,道中の難所の一つで,かなりの川があったらしいが,現在は一面の田んぼである。

「玉井南」信号交差点で熊谷バイパスを横断しおよそ1km,右手に小さな観音堂がある。 道路際に建てられた庚申塔の下部には,玉井邑(たまいむら)の文字が見えた。ここで小休憩。 
 更におよそ500m行った右手のスーパー「ベルク」で15分間の休憩。
冷房の効いた店内で,抹茶入りアイスクリームを頬張り,ペットボトルに冷水を補給し,水に浸し直したタオルで火照った身体を冷やす。コンクリートの照り返しの酷暑のなかを歩む私達にとって,スーパー店は,砂漠の中のオアシスに感じるありがたい存在である。
 生気を取り戻し
(13:45)再び街道へ。気温はとうとう39.8℃となる。

「ベルク」を出てすぐに左 高崎線籠原駅へ通じる道との交差点を渡って左側に『明治天皇の小休所地の石碑』がある。ここは,江戸時代の『志がらき茶屋本陣跡』でもある。

 「新堀北」の信号交差点を渡ると中山道の右側が深谷市東方,左手が熊谷市別府,やっと深谷に入る。ここからしばらくは見るべきものがないので,ひたすら歩く。途中,江戸から18番目の『東方一里塚』(僅かに残る欅の木が塚木ではないかと言われているが痕跡無し)を通過。

 およそ2km,東方町幡羅郵便局向かいに
熊野神社へ向かう参道入り口に到着。
参道沿いには木立も無く全くの炎天下を往復800mほど歩かなければならない。実のところ,わたしは”神社”にはあまり興味がな無い,それにこの暑さにかなり参っているので,熊野神社参拝はパスした(ほかに二人が付き合ってくれた)。角の石屋さんの軒下を借りて休憩,日陰でも温度計は36℃,微かな風が肌をかすめる。
(14:25~14:50)

『熊野神社』(深谷市東方1709-2)
  深谷上杉氏の家臣であった秋元氏が天正年間(1573~92)に碓氷峠の熊野神社を勧進した。三間社入母屋造り。

 熊野神社入り口から800mほど進むと愛宕神社,続いて幡羅中学が見えてくる。
左手のスーパー「YAOKO」先の信号を左折,300mほどで国道17号に出て国済寺正面門から境内へ
(15:05)。この間,暑さに参った女性二人は,「YAOKO」で休憩。

『国済寺』(深谷市国済寺521)

 臨済宗南禅寺派。常興山国済寺。
康応2年(1390)深谷上杉氏の祖,第六代関東管領上杉憲英が開基した。
総門・三門・本堂が直線的に配置された簡素な禅宗らしい美しい建物である。特に三門が美しい。また,室町時代作の仏像が多数安置されているという。
 徳川家康から天正十八年(1590),寺領三十石の朱印状を下付された。本堂の裏に,応永十一年(1404)八月二日の没年を記した憲英の墓など上杉家の墓所がある。 
 寺の裏手には憲英が築いた庁鼻和(こばなわ)城の築山と土塁が残っている。


  YAOKO交差点に戻り”休憩した”二人を加え再び中山道を北へ。
この辺り往時は450本もの松並木が美しかったと言うが,いまは銀杏並木に変っていて,昔日の面影はない。
右手は
「幡羅(ばたら)中学校」・「常盤小学校」・「深谷第一高等学校」が並び深谷の文教地区といったところである。
 500mほどで,国道17号と斜交する
「原郷歩道橋」。その手前左手の三角地にあるのが

『見返りの松』  

 深谷宿に泊まった旅人が江戸に向かう時,振り返って前夜ちぎりを交わした遊女と別れを惜しんだといわれている。さぞや好い思いをしたんだろうな~。初代の松は平成18年2月枯死してしまい,2代目が植えられてはいるがまだ背丈が2mちょっと,あと数十年経たなければ,樹齢300年とも500年とも言われた初代の風情は期待できないだろう。

 見返りの松を過ぎ,深谷宿へ入る。300m程行った右手に
 『常夜燈』(深谷市原郷29)

 右側に大きな常夜燈が立っている。常夜燈は,講信仰の対象だけでなく,宿の出入り口の目印と街灯の役目も果たしていた。深谷宿はここから西の田所町常夜燈まで1.7kmほど続く。現在の常夜燈は明治の建立で,高さが約4m,中山道中最大級の常夜燈といわれている。常夜燈が建つ場所には,今は閉鎖された日本煉瓦製造㈱と深谷駅を結ぶ軌道跡(現在は遊歩道)が中山道を横断して南北に延びている。
 
 『大谷邸,行人橋,旧商屋,脇本陣』 
常夜燈から100m程行った右手に和洋折衷の立派な屋敷が建っている。昭和初期の大恐慌時に失業救済の為もあり建てられた江戸時代からの豪商の私邸,『大谷邸』(深谷市稲荷町2-3-4)である。深谷にこんな素晴らしい邸宅があったのかとしばし見とれてしまう。

 更に400mほど行くと
唐沢川に架かる

『行人橋』
(左岸:深谷市本住町,右岸:稲荷町三丁目)
 
 木橋が主流だった江戸時代でも,行人橋は石橋(当時の永久橋)だった。ここからが宿の始まりだという説もある。明治31年(1898)には当時の最新建材である煉瓦を使って建設されている。行人橋の右岸橋詰に,「橋の改修由来碑」が立っているが,摩滅していて全く読めない。

 行人橋~本住(もとすみ)町交差点~仲町交差点にかけての400m区間には,木造の古い商家が並び,旧中山道に沿った深谷市の古い町並の風情が感じられる。
 

 宿場時代からの袖蔵のある建物で営業している
米屋「大政(だいまさ)」も健在だ。
 現在も
「きん藤旅館」として旅館業を営む『脇本陣』
 煉瓦造りの「卯建(うだつ)」をもつ商屋。1階から2階まで続く巨大なうだつは見事。

大谷邸 煉瓦造りの”うだつ”のある商家 わき蔵のあるお米屋さん
 深谷の古い町並みは絶品である。
街は明後日に控えた
「深谷祭り」や8月3日の「深谷花火」の準備で賑わっていた。ところが深谷は現在区画整理事業が進行中で,ところどころに櫛の歯抜け状に空き地が目立ち,数年後にはこの古い町並みも姿を消していくと言われている。

 仲町交差点を左折して400m行くと,まさに
「煉瓦の町深谷」を象徴するJR高崎線深谷駅。日本煉瓦製造製の深谷煉瓦が東京駅にも使われたことから「東京駅を模した駅舎」としたのだという。もちろん深谷が生んだ実業家渋沢栄一の像も駅前に鎮座している。

 駅前着
(16:10) まだ気温は37.5℃もある。
駅舎内にあるエヤコンの効いた観光案内所でしばし休憩して,16:23発上野行き電車で帰京。
 今日は,路面からの厳しい照り返しで,気温39.8℃にも達するなか,15kmものウォーキング。考えていた以上の疲労困憊。水分補給と濡れタオル,途中自主休憩をとって無理をしないなど熱中症対策おさおさ怠り無く,なんとかダウンせずに完了。でも,きつかった~!!


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