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旧中山道69次を歩く 深谷~本庄  008年9月13日
(歩程 29,000歩 約17.5km)

今朝の高崎線は宮原駅での人身事故のためダイヤは大幅に乱れ,8時半ごろ運転は再開されたものの上野駅発着の列車は軒並み遅れが出ている。幸い湘南ラインの電車が定刻に運転されていたので,これに乗り集合時刻に20分ほど遅刻して何とか間に合った。私ほか遅れの3人ばかりが到着すると直ぐに出発。総勢15人。

 駅前通りを真っ直ぐ進み
”中山道仲町”交差点を熊谷方へ戻り一つ目の信号(本住町)を左折,国道17号を”城址公園入り口”交差点で横切り,突き当ったところが深谷城址である。


 『深谷城址』
 
 深谷城は,室町時代中期の康正2年(1456)上杉房憲が古河公方の軍勢の侵攻に備える為に従来の庁鼻和(こばなわ)城からこの地に築いた。唐沢川,福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城は,面積約20ha。
 豊臣秀吉の小田原攻めで前田軍に包囲されるが北条氏が降伏することにより開城するまで,憲清・憲賢・憲盛・氏憲と134年間にわたり戦国時代の北武蔵における上杉方の支城であったが,徳川家康の関東入国後は,松平康直らが城主になるが寛永11年年(1634)廃城となる。
 本丸を中心とした土塁や堀が輪郭式の網張りになっていて「木瓜の花」に似ているので木瓜(ぼけ)城と呼ばれた。
 深谷城が一番盛えたのは,室町時代,現在は,城址公園となっているが,石垣などはその際造られたもので,往時の遺構は全く残っていない。
 
『深谷宿』

 本陣1軒,脇本陣4軒,旅籠80軒,家数524軒,日本橋から19里5町40間8町(およそ75.2キロ)
深谷の地名は東部を北流する唐沢川が深い谷を形成していた事により名付けられた。上杉氏の城下町であったが徳川時代には中山道の宿場町として栄えた。隣の熊谷宿は飯盛り女を置いていない為に旅人が深谷宿に宿泊するので旅籠が多くなったという。深谷は深谷ネギと深谷瓦が有名。

 深谷城外堀跡近くで深谷城の鬼門にあたる位置にある『富士浅間神社』(境内にみかんの花咲く丘などの作詞をした加藤省吾の記念碑がある)や『三高院』(家康の甥の松平康直の墓所がある)を経て中山道仲町(このあたりに一里塚(江戸より19里)があった)に戻り,いよいよ本庄宿目指して西進。

 
”深谷”信号交差点の先右手に
『飯島本陣跡』

 本陣は当初,深谷氏の遺臣であった田中氏が勤めていたが当主の病弱を理由に本陣職の辞退を願い,宝暦6年(1756)より武田氏遺臣の飯島氏が勤めた。本陣跡には「上段の間」,「控えの間」が残っている。現在,隣に「飯島印刷所」の建物がある。本陣職は全くのサービスで,お金は全く貰えない,そこで大名には地元の名物などを献上してお返しとして何がしかのお金を包んでもらうこととしたと言う。

 左右には,「伊勢や」,「東白菊」,「七つ桜」「翁最中の糸屋製菓店」,「菊泉滝澤酒造」など江戸時代あるいは明治時代から続く近江商人・越後商人。深谷商人の古店が並ぶ。
菊泉 滝澤酒造の古い商家建築

 仲町交差点からおよそ800m右側道端に立つのが,
  『西の常夜燈』(深谷市田所町11)
 
 天保11年(1840)の建立。高さ4mで中山道最大といわれる常夜燈。
透かしの「三」はこの常夜燈を立てた富士講の講印。宿場の発展を願い,天下泰平,国土安眠,五穀豊穣と刻まれている。ここまでが深谷宿である。 この先道筋は左にクランク状に屈曲している。

 街道はJR高崎線と並行する。更に200m行った所を左折し高崎線踏み切りを渡った突き当たりにあるのが,
 『清心寺』(深谷市萱場441)
 
 浄土宗。境内には「一の谷合戦で」平家の大将,平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄が立てた平忠度の供養塔がある。
供養塔の脇には,忠度の妻”菊の前”が植えたと伝えられる忠度桜の三代目が今も四月に花を咲かせているそうだ。
 寺は天文18年(1549)深谷上杉家三宿老の一人,皿沼城主岡谷清英が萬譽和尚を招き開山した。八石の朱印寺。

 ”宿根”で国道17号を斜めに横断し直進,再び国道と合流し600mほど右手に
 『源勝院』(深谷市岡部786)
 
 曹洞宗。岡部藩主の安倍氏が慶長の初めに創建した50石の朱印寺。安倍氏の菩提寺。
安倍氏は信州伊那谷の諏訪一族,駿河安倍川上流に移り安倍氏を名乗った。今川家に仕えた後,家康に仕え武田軍のとの戦いで戦功を上げた。家康が関東入国時,初代安倍信勝が岡部領を与えられた。表門を入った左に信勝の亡父元真の碑,奥の左に屋根付きの二代信盛から十三代信賽までの墓が並ぶ。初代信勝の墓が無いのは関が原合戦の前,家康に従い大阪城に詰めていた際,死亡し大阪の鳳林寺にほ葬られたため。岡部藩は2万石。

 ”源勝院”の反対側
”岡部北”交差点を左折しさらに右折したところに,
 『岡部陣屋跡,高島秋帆幽囚の地』(深谷市岡部1200)
 
 岡部藩安倍氏の陣屋跡。幕末の「蛮社の獄」で,鳥居耀蔵らの中傷に遭い獄に投ぜられた高島秋帆は,弘化3年(1846)から嘉永6年(1853)まで岡部藩預かりとなり,この陣屋に幽閉されるが,藩は客分扱いで厚遇し藩士に兵術を学ばせたという。その後冤罪が晴れ幕府砲術指南となる。

 「岡部北」交差点から450m ”普済寺”交差点の手前右奥に,

 『普済寺』(深谷市普済寺973)

 参道が100mほど続く。入り口に「武州榛名軍岡部領石碑」が建つ。
岡部六弥太の開基といわれる。一度街道に戻り,”普済寺”交差点を右折し300mほど行った,普済寺の裏手に岡部六弥太の墓がある。三基並ぶ五輪塔の中心が六弥太で,左が夫人,右が行忠の墓といわれている。
岡部六弥太の墓

 国道を750mほど進むと分岐 右:中山道 左:17号国道。その間に,
 『雲雀塚碑』(深谷市岡) 
 「原中や 物にもつかず 啼雲雀」の芭蕉の句が彫られている。近くに一里塚があった。

分岐から500m先右手に,
『島護産泰神社』 (深谷市岡)

 旧榛澤村の総鎮守。創建時期は不明。この地方が利根川の氾濫により度々被害を受けたのでこれが守護神として信仰された。和宮も下向の途中参拝したといわれている。
深谷バイパス「岡東」交差点脇の道の駅”おかべ”で昼食&休憩。(14:00~14:50)

再び中山道に戻り直ぐ左側に,
 『全昌寺』(深谷市岡3315)曹洞宗
更に200m,左折して200m,国道17号との角地に,
『岡廼宮神社(聖天宮)』(深谷市岡谷3226)

 室町時代から水難除けと豊作を祈願して奉納する獅子舞が現在も続いている。精巧な彫刻を施した中国風の造りには目を見張る。入り口に恐竜の足の様な大欅がある。
拝殿の彫刻が素晴らしい  入り口にある大欅

 街道に戻り進む,右にカーブして下り坂となる。ここは
豊見坂,ここから左手に赤城山が見られるという。下った先左道端に,
 『百庚申』(深谷市岡谷3195)

 万延元年(1860)は庚申の年なので村の有志により建てられた。この年は「桜田門外の変」があり世情騒然としていた。現在約60基が残っている。

 ”岡”交差点で深谷バイパスを横切り前方に広がる田んぼの中を進む,小山川を「滝岡橋」で渡る。ここから本庄市である。この辺り中山道は,消え失せ,滝岡橋のやや上流を”渡し”で渡り,その先200mほど行った付近で現道に合流するルートであったという。
 
 滝岡橋からは,両側に田んぼが広がる無味乾燥な道を進む
今日は,体調悪く,常にしんがりばかりを歩いているが,このあたりから私の歩みが極端に遅くなる。ストライドが延びずペースが上らない!皆に付いていけなくなる,ドンドン離される。
およそ1.7km行った
”藤田小”交差点の先の左右にあるのが,

『宝珠寺』(本庄市西53)『八幡神社』(本庄市牧西558)

 八幡神社は,牧西(もくさい)村の鎮守。金鑚神楽宮崎組を現在に伝えている。この神楽に使われる面は,正徳年間(1711~16)以前のもの。拝殿の天井には花鳥絵が描かれている。 

宝殊寺の参道

 更に1.3kmほど進んだ地点で街道は大きく左に曲がる。真っ直ぐ行く道は
「三国脇街道」といって前橋方面へ向かう道だという。このあたりに「一里塚」があったという。

 ここから今日の解散地本庄駅までは,およそ3km弱。道は一本道で迷うことは無いし,残っている立ち寄り先は 『円心寺』(本庄市本庄3-3-2)だけである。お寺はあまり興味が無いので,ここからグループについて行くことを諦め,休憩しながらマイペースで行くことにした。
 
 
(17:40)やっと,JR高崎線本庄駅着。
 本日は体調不良!常に,しんがりをやっと皆について行く状態であった。海外旅行から帰ったばかりで疲れが残っていたのか,帰国した翌々日からおなかを壊して2日ほど下痢状態だったことに加えて折からの厳しい残暑に参ってしまったらしい。つくずく無理は出来ないと自戒する。今回は,今まで出一番厳しい一日であった。

 
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