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旧中山道69次を歩く 本庄~新町   008年9月16日
(歩程 25,000歩 約15km)

 まず,本庄城跡へ向かう。
本庄駅から真っ直ぐ北へ,中山道を横切り,前回,疲れの為立ち寄れなかった『円心寺』の大きな伽藍を右に見てゆるい坂を下ると,右手に市役所。手前を右折して細い道を行くと(市役所の裏手に当たる)

 『本庄城址』(本庄市本庄3)
   入り口に「本庄城址」の石碑,奥に「城山稲荷神社」。社殿の前に「大欅」(県天然記念物)が聳える一帯は,城下公園と呼ばれている。
弘治2年(1556)本庄実忠が築城,永禄10年(1567)北条氏邦の攻撃を受け落城し,戦国時代,本庄氏は小田原北条氏の配下となる。そのため天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの際,豊臣勢の攻撃を受け再び落城した。家康の関東入国後は,信濃松尾城から小笠原信嶺が城主となり,再び城下町として発展したが,慶長17年(1612),子の信之の代に理由がよく分っていないと言うが突然下総の古河に転封となり城は廃された。
 
公園を抜けて『八坂神社』に寄ってから 中山道に戻る。
”本庄駅入り口”交差点の右角,「埼玉リそな銀行」の辺りが「田村本陣跡」(当時北本陣と呼ばれた)その先左側,東和銀行と足利銀行が並び立つ辺りが「内田本陣跡」(南本陣)。何も残っていない。

『本庄宿,本陣跡』

 本陣2軒,脇本陣2軒,旅籠70軒,家数1212軒,人口4354人,日本橋から21里30町(およそ86.5キロ)

 江戸・板橋宿から近江・守山宿までの69次のうちで最大の宿場町として賑わい,明治以降も利根川の水運の便が本庄を発展させる要因となったと考えられる。

 田村本陣は,南の内田本陣に対して北本陣と呼ばれていた。田村作兵衛が勤め,建坪200坪,門構え,玄関付きで間口五間の専用道路をもち奥に門があった。本陣入り口前に高札場があった。
 南本陣は,内田七兵衛が勤めた。建坪205坪,門構え,玄関付き,敷地3反3畝10歩であった。

 両本陣は協力することもあったが,常に競争をし,半年または1年先の参勤交代や帰国にあわせて諸大名の国許や江戸屋敷への書状を送ったり,出向いて予約を取ったり,当日は宿はずれはもとより,遠く鴻巣宿や坂本宿まで出迎えをするなど両本陣の客引き合戦は激しかったという。

 足銀の先を右折,”三夜横丁”と路面に記されている。右手奥に
『あたご神社』
天正19年(1591)本庄城主小笠原信嶺が勧請したといわれている,ここにもまた大きな欅が聳える。

突き当りが,

『開善寺』(本庄市中央2-8)

 畳秀山開善寺は臨済宗,天正19年(1591)本庄城主小笠原信嶺が開基した。
慶安2年(1649)徳川家光より朱印地15石が下されている。寛永2年(1749)の本庄宿の大半を焼き尽くした「開善寺火事」など数回の火災により古い堂は残っていない。当時の広さは現在の5倍もあったという。

 本堂は昭和46年(1971)に新築された。屋根瓦に小笠原家の家紋「三階菱」。
境内に入った右手に本庄七福神の一つ「布袋尊」が鎮座する。
 
 境内の南側の道を挟んで,城主小笠原信嶺夫妻の墓所がある。もと信州松尾城主,天正18年(1590)豊臣氏の小田原攻めで本庄氏滅亡後,入城し本庄領一万石を領した。余談であるが,東京都に属する小笠原諸島は,小笠原氏の家臣が発見したという。
本庄七福神のひとつ布袋尊 三階菱 小笠原信嶺夫妻の墓
 
 再び街道筋に戻る。
看板に”創業永禄3年”とある「戸谷八商店」,創業元禄2年という「回船問屋岸谷」,昭和9年に建てられた「仲町郵便局舎」やレンガ造りの「旧本庄商業銀行」などを眺めながら西進。

 ”中央3交差点”の手前を右折,突き当たりに,「歴史民俗資料館」
この建物は明治16年(1883)に建てられた「旧本庄警察署」(埼玉県指定文化財),この時期,この地にこんなにもモダンな建物が建てられたとは驚きである。木造2階建て瓦葺,漆喰塗りの大壁造りで,2階ベランダにはコリント式列柱を配した本庄宿始めての本格的洋風建築。大正12年の関東大震災の時,多くの朝鮮人が殺害されたり,昭和23年学生と市民が民主化を求めて立ち上がった「本庄事件」など血なまぐさい歴史的現場となった場所でもあるという。
「資料館」の前に「田村本陣の門」が移設されている。

田村本陣の門 旧本庄警察署
 街道に戻り,次の信号交差点を右折,突き当りが,
  『安養院』(本庄市中央3)
 
 創建文明7年(1475),曹洞宗。武蔵七党の一つ児玉党の頭本庄信明の弟の藤太郎が仏門に帰依し開基したと伝えられている25石の朱印寺。

 墓地の左奥に,江戸末期本庄で料理屋を営んだ小倉紅於なる人が造ったという小倉家の墓所があり,江戸末期の文人碑が幾つも立っている。加賀千代句碑,芭蕉句碑,渡辺崋山書,其角句碑・・・・・。小倉紅於とは,よほどの好事家だったのか道楽家だったと見る。

 安養院の七福神は「毘沙門天」,新品のピカピカで,有りがたい気持ちはどうしても湧いてこない。


 『本庄普寛霊場』(本庄市中央3)
 
 安養院の裏手にある。享保16年(1731)秩父大滝村に生まれた普寛(ふかん)上人は,30数歳にして武士を捨て天台の修験僧となり,木曾の御嶽山,沼田の武尊(ほたか)山,越後の八海山などを開き,御岳講の祖と崇められているという。享和元年(1801)武州本庄において71歳で入寂し名刹安養院の墓所の一角に埋葬された。阿夫利天神社や伏見稲荷大神なども祀られている一帯は霊場という一種独特な雰囲気に包まれている。
 
神道十三派のひとつに御岳教という宗教がある。普寛上人は江戸時代寛政4年(1792)に信州木曽の御嶽山に
登拝出来る登山道(王滝口)を開いた。王滝は彼の出身地大滝に由来するという。

 街道は,JR高崎線と並行して西進する。図書館入り口バス停を越した辺りで宿のはずれ。更に600mほど行った右手に,

 『金鑚(かなさな)神社』(本庄市千代田3)

 創立は欽明天皇2年(541)と,極め付きの古い歴史ある神社である。本庄地区の総鎮守。
天然記念物の大欅と折から写生中の小学生達が迎えてくれた。
本庄城主だった小笠原氏によって創建され,本殿,拝殿,神楽殿,水屋,大門,神輿殿すべて豪奢な佇まいである,とくに社殿には,細部に見事な極彩色の彫刻が施されている,屋根には徳川家の家紋である「葵の御紋」が載っているのが確認できる。。
 弘治2年(1556)本庄城築城の時,東本庄館から本庄2丁目の大正院付近に移され,更に寛永16年(1639)頃に現在地に移転したと伝えられている。権現造りの社殿は修復されたが極彩色漆塗りは建築当時のもの。地方では珍しい「免許」をもつ神楽も有名有で,神社の氏子によって代々伝承され今日でも11月3日の大祭に奉納されているという。


社殿を飾る見事な彫刻 小学4年生が10人手を繋いでやっと囲めるご神木の大欅,高さ20m,樹齢約300年と推定されている。

 ”金鑚神社”の先は,近年開通した国道17号と関越自動車道本庄・児玉インターを結ぶ国道462号の
”千代田3交差点”である。手前左角に平成2年4月に建てられた真新しい「常夜灯」がある。
 交差点脇の麺・海鮮処「かぶとや」で昼食
(12:15~13:10)

 千代田交差点を右折して一旦県道と分かれて,国道462号を坂東大橋方向へ進んですぐ,歩道橋手前を左折して一本道を行くと,5,6分で先ほど分かれた県道が左手から合流する。この辺り,小島と呼ばれる集落。静かな佇まいの家並が続き,車の通行量も程ほどのいかにも旧街道と言った風情,ラインで仕切られただけの歩道をひたすら歩き,およそ2km,万年寺村と呼ばれた集落に入る。
”神保原陸橋(北)交差点”の300m程手前の左に「浅間山古墳」 直ぐ先右に「泪橋」に到る。この辺りに日本橋より22番目の”一里塚(万年寺一里塚”があったという。


 『浅間山(せんげんやま)山古墳』(本庄市上里神保原13)
 
 本庄市西部の本庄台地の先端部に広がる旭・小島古墳群のひとつ。形は直径約38m,高さ約6mの円墳で,古墳時代末期の築造と考えられている。
 石段を登ると左手に墳墓の入り口がある,中をのぞいても何も見えない。

本庄台地は、古くより用水が整備され、北側の利根川流域とともに肥沃な土壌に恵まれていたので、古代より沢山の人々が居住していたと云われている。旭・小島古墳群は、他に前の山古墳・御手長山古墳・小島八幡山古墳などがあり、前の山古墳から出土した「笑う盾持ち人物埴輪」は、本庄市のマスコット「はにぽん」の元になっているそうだ。

浅間山古墳 泪橋
 
『泪橋跡』(本庄市上里神保原2011)
 
 民家の庭の隅,中山道に面したところに橋の欄干と思われる石二つと庚申塔,由来を書いた石碑がある。今まで見てきた泪橋とちがって,近在の人々が伝馬役く助郷)に苦しみ,橋に憩い,涙したという。
 多分,この先の御陣馬川に架けられていた橋であろう。


 「御陣馬川」を渡り,「神保原駅への交差点」を過ぎて400m,「上里町神保原1」T字路を右折して直ぐに国道17号を”上里町神保原(北)”交差点で横切り,西進する。この辺り金久保と呼ばれている集落である。およそ250mほど行った左手に二十三夜塔や庚申塔等の石塔が10数基並び中央奥に小さな祠がある。素朴な感じが好ましい。あちこちから集められここに安置されている石碑群だという。 
ここで水分補給小休憩。

 両側に静かな佇まいの住宅が並ぶ街道を600mほど進んだ右手に『金久保八幡神社』 。何の説明板もない寂れた感じの神社。更に先の道路際に高さ2mほどの石柱に
「金窪城址入り口」の表示があり,右折。300m先にある「萌美(もえみ)保育園」の先を左に曲がり突き当たり右に小さな公園,左に,

 『金窪城址』(上里町金久保1555)

 神流川に臨む要害の地に,平安末期の治承年間(1177~81)に武蔵七党の一党である丹党から出た加治家治によって建てられ別名太琊(たや)城とも呼ばれた。元弘年間(1331~34)に新田義貞が修築して家臣の畑時能に守らせた。室町中期の寛正年間(1460~66)には斉藤実盛の子孫が居城した。
 天正10年(1582)6月滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦で一族ことごとく討死にし斉藤家は没落した。その後,家康の関東入国に伴い,川窪氏の所領となり陣屋が置かれたが,川窪氏の丹波(兵庫県)転封により陣屋も廃されたという。
 現在,城址の大部分は,畑地や雑木林に変わっているが,石垣や堀や土塁の一部がかすかに残る。


 中山道に戻り少し進んだ左に,
『陽雲寺』(上里町金久保701) 

 「鎌倉初期元久2年(1205)創建,曹洞宗。
元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願し不動堂を造立し,新田勝軍不動堂などと称された。天文9年(1540),金窪城主斉藤定盛が諸堂を修復し寺名を祟栄寺と改めたが,天正10年(1582)神流川合戦の兵火で焼失した。その後再建され,武田信玄の弟信実(長篠の戦で戦死)の嫡子川窪信俊が養母である信玄の正妻三條の方を伴って入封。夫人は仏門に帰依しこの寺の境内に居住し元和4年(1618)97歳の天寿を全うしたという。夫人の法号である陽雲院をとり寺名を改めた武田家ゆかりの寺である。

寺内には元金窪城主・畑時能供養塔,三條夫人墓所,元禄銘のある銅鐘(国指定重要美術品)もある。

 ところがひとつ疑問がある!! 武田信玄夫人三條の方の墓所は甲府市円光院にもある。一体全体どっちが本物か?


武田信玄夫人の墓
 
 街道を更に800mほど進むと
”勅使河原北)”交差点で国道17号に合流。
その手前右手に『勅使河原一里塚跡』。日本橋から23番目,何故か小さな祠が祀られている。

 信号を渡って国道の左側歩道を進み直ぐ左折,JR高崎線ガードをくぐり右手に,

『大光寺』 (上里町勅使河原1864)

 臨済宗円覚寺派の寺で,建保3年(1215)に武蔵七党の一党である丹党の,勅使河原本権三郎有直が創建。
天正10年(1582)神流川合戦により総門を残し焼失,明治42年2月に高崎線の灰煙を被り全焼したため,本堂を再建し現在に至る。
 江戸時代,神流川の渡しの灯台的役割を果たした「見透燈籠」(右岸側に立てられていたもの)と呼ばれる大きな常夜燈が残されている。英泉の本庄宿の浮世絵には大名行列が神流川を渡る様子が,この燈籠と共に描かれている。
見透燈籠
上武ニ州の国境を流れる神流川は,往古より暴れ川で出水毎に川瀬・道筋を替えて旅人や伝馬を悩ました。文化12年(1815)本庄宿の戸谷半兵衛が,川の両岸に燈籠を立て,夜になると灯をともし夜道を往来する旅人の安全をはかったという。

 武蔵の国から上野の国へ
 
国道17号に戻り神流川橋を渡る。渡りきったところは群馬県髙崎市新町。
神流(かんな)川は,私にとって懐かしい川である。若い頃,新町から西へ入った神流川中流の鬼石という町でひと夏を過ごしたことがある,また,群馬県の各地や上越国境三国峠周辺で仕事をしていた頃,この神流川橋をマイカーで,数え切れないくらいの回数渡った,もちろん関越自動車道が出来るはるか前のことである。

神流川橋 神流川の常夜燈レプリカ
 
 気も軽やかに橋を渡りきると右手に,

 『神流川古戦場跡碑』(右写真)

 天正10年(1582)6月18日,滝川一益北条氏邦・氏直が戦った場所。
滝川一益は,織田信長に仕え,武田氏討伐の功績により佐久・小県ニ郡と上野の国が与えられ,天正10年3月,甲府を出て,各地の諸将を掌握しながら
「厩橋城(前橋城」)へ入城。一方,小田原を中心に勢力を張った北条氏は,北の要所として「鉢形城」に氏邦をおき,勢力を維持し「金窪城」は両者の最前線となっていた。
 天正10年6月,
「本能寺の変」で,織田信長が討たれたのを機にここぞとばかりに北条軍が進出してきて両者の戦いが始まった。6月16日北条軍は倉賀野表へ出陣し6月18日未明,戦いの火ぶたは切られ,激しい戦いとなったが,滝川側が金窪城を落とし北条氏邦が敗走。だが,翌日北条氏直の援軍が到着し形勢逆転,今度は滝川軍が敗走した。
 滝川軍は,1万6千,北条軍は1万5千人で,北条氏の勝利におわり,滝川軍の戦死約3760余と云われている。
 神流川は今も変ることなく清らかに流れている。


 右手に自衛隊新町駐屯地を過ぎて,中山道は国道17号と分岐して,新町宿へと入っていく。一つ目の信号の先右手に,
 『八坂神社翁塚』(髙崎市新町2762)

 昔この辺りに柳の大木があり,傍らの茶屋を柳茶屋と言った。新町宿の俳人小渕湛水・笛木白水らが柳にちなむ芭蕉の俳句を撰して,
天保10年頃句碑を建てた。
 
 「からかさにおしわけ見たる柳かな」

 新町東コミュニティセンター向かいの横丁に入り突き当たりにあるのが
 『諏訪神社』(高崎市新町558)

 境内裏手に元禄の鳥居と言われる古い鳥居が半分土にうずまった状態で保存されている。笛木村の鎮守で本屋敷から宝永5年(1708)ここに移転された。元参道の鳥居の一基で元禄15年(1702)と彫られた新町最古の神明鳥居である。

 左隣が専福寺,更に左に浄泉寺(北条家に縁があるらしく瓦に三つ鱗紋)が見える。
 新町郵便局から200m先右手,笠原家の庭に『高札場跡』 と記された木の標札がある。当時はここまでが笛木新宿で,この先が落合新宿だったという。
更に400mほどり進む,右手公園の奥に,

 『明治天皇新町行在所』(高崎市新町827)

 明治天皇は,明治11年8月から11月にかけて,北陸・東海の巡幸(視察)に出かけた。その途中9月2日新町に宿泊した施設がこの行在所。ここが選ばれた理由は明治に入った早い時期に二軒在った本陣が廃業していたからではないか?
 当時は木造瓦葺平屋建ての本屋と附属棟の2棟で,中山道に面して正門を設け,周囲は高さ9尺の総板塀で囲い,庭には数株の若松が植えられたという。

 街道を挟んで向かい側に
「酢屋製菓」という新町銘菓を売る店があり,この家で,復元された行在所を管理しており,事前の連絡で内部を見せていただけた。お礼に皆で,中山道最中・味噌饅頭・月餅など安くてかつ美味しいお菓子を買い求める。

 ひとつ先の信号を左折して国道17号を歩道橋で渡り新町駅(16:50)過ぎ到着。
すぐやってきた上野行き快速電車に飛び乗る。

 今回は,体調も回復,いつものペースで快調なウォーキングをすることが出来た。

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