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中山道69次を歩く(第13回)新町宿~倉賀野宿 008年10月9日
(歩程 21,700歩 約13km)

午前10時JR高崎線新町駅前集合。総勢29人。

 駅前から国道17号を歩道橋で渡り中山道に向かう。
前回見落とした場所があるので,
<新町駅前交差点>から一旦,本庄側へ少し戻り,明治天皇行在所の先を左折して200mほど右手に在るのが,

 『於菊稲荷』(高崎市新町247)   
寄進者の名入りの鳥居がたくさん立ち並んでいる,一基5万円だという。神主さん自らの手造りで,安く仕上げているからだと言う。
天正10年(1582)8月小田原城主北条氏正が厩橋城主滝川一益と神流川合戦に際して先祖伝来の守護神であるこの稲荷の社頭に戦勝祈願をした。その甲斐あって勝利した北条氏は,小祠を立派な社に再建して厚く信仰したという。

 時代は下り徳川の御代となり宝暦年間(1751~),旅籠大国屋の飯盛り女で新潟の貧農の生まれながら美貌で気立ての良い於菊がこの稲荷を熱く信心していた。ある日,突然体が動かなくなると主人の態度が変ったので宿の人たちが哀れに思い稲荷の境内に小屋を建て3年もの間養生させた。ある夜,稲荷神が現れ於菊の病を治した。感謝した於菊は稲荷神社の巫女となった。以来於菊稲荷と呼ばれるようになったと言う。

中山道に戻る道で,右手に妙見寺あり。日蓮宗独特のひげ文字で「南無妙法蓮華経」と書かれた石塔に眼を引かれる。(右下写真)
日蓮宗独特のひげ文字
 
<新町駅前交差点>まで戻り,ここからあらためて本日の中山道歩きの開始。
 すぐ左手、群馬銀行の2軒先が一茶も泊まったという。

 『旅籠高瀬屋跡』(高崎市新町   )

 小林一茶が「手枕や小言いうても来る蛍」の句を詠んだ宿。雨で川留めとなった一茶が宿泊しているところに,神流川岸に建てられた「見透し灯篭」建立の寄進にやってきた千福寺の僧侶を蛍にみなして詠んだ。相場は16文のところを一茶は12文出したそうだ。

 『新町宿』

 中山道六十九次のうち江戸から数えて11番目の宿場。武州本庄より神流川を渡った上州最初の宿。
はじめ本庄宿と倉賀野宿との間は,烏川北岸の玉村を経由するルートだったが,加賀前田家が玉村を経由しない新しい道(加賀街道)を開拓し,慶安4年(1651)に落合新町,承応2年(1653)に笛木新町(いずれも烏川南岸)に伝馬役が命ぜられ,ルートが変更された。これに伴い享保9年(1724),中山道で最も遅く落合村と笛木村を合わせて新町宿が開かれた。烏川の氾濫原に位置しており洪水に苦しんだ歴史を持つ。
 天保14年の記録では,

 本陣:2軒,脇本陣:1軒,旅籠:43軒,家数:407軒,人口:1437人
 日本橋から23里30町(約92.6㎞)

 <新町駅前交差点>から250mほど,金井医院向かいの大きな民家が,

 『小林本陣跡』(高崎市新町2634)

  家の前に見落としそうな碑がある。小林本陣の明治時代の小林本陣当主は,公金を失くしたとして切腹をした(後から出てきたが)。敷地はそのままで,現在も子孫が住んでいるという。
この辺りが宿場中心であった。もう一軒の本陣(久保本陣)や脇本陣,問屋場,43軒あった旅籠などは現在では特定できない。

 
本陣跡の標柱
 小林本陣跡の先を左に折れて直ぐ先に,

  『宝勝寺』(高崎市新町2623)

  真言宗豊山派,落合山宝勝寺・高尾山宝勝寺(山号が二つもつくのは珍しい)。天文11年(1542)の開山。
 欅造りの立派な鐘楼門や六地蔵,百度供養塔,大和郡山柳沢家夫人貞護院(新町宿で亡くなる)の墓,小林本陣家の墓所がある。
 隣接した八幡宮には宿場の飯盛り女が奉納した絵馬がある。また神仏混淆を示す屏風鳥居も珍しい。


 街道に戻りすぐ,温井(ぬくい)川に架かる弁天橋の手前左手に弁財天,右手にスリーデーマーチ記念碑。この辺りが新町宿の西のはずれとなる。

広重が描いた温井川付近の新町宿 左の山は赤城山か?

『弁財天&スリーデーマーチ発祥記念碑』 (髙崎市新町2611)

 昔は温井川の中ノ島であったこの場所に祭られた七福神の中の女神である弁財天は音楽・弁舌・福徳・財宝を司る神として信仰を集めていた。社は天明3年5月に建立された石の祠。

 昔,ここに清冽な清水が湧き旅人の喉を潤していた。「むすぶよりはや歯にひびくしみずかな」という芭蕉の句碑が安政2年(1855)に建てられた。広重が,この辺りから見た風景を木曾街道69次の新町宿に描いている。
 紀元2600年記念植樹と記された大きな欅あり。

 街道の反対側に『スリーデーマーチ発祥記念碑』が建てられている。
1978.11,新町において「歩け歩け全国大会全日本スリーデーマーチ」が開催された。現在は埼玉県東松山市に拠点を移しているが,新町で第一回と第二回が開催されたことを記念した石碑が建っている。直ぐ脇に「新町河原よりの展望図」が掲げられていて,天気が良ければここから,男体・日光白根・赤城・谷川・榛名・草津白根・浅間・妙義・蓼科・北八ヶ岳などが一望できることを示している。

豪農川端家の蔵群
 温井川を渡り藤岡市に入る,次のY字路を右に。
紅く色付いた柿の実や金木犀の馥郁たる香りが漂ういかにも中山道といった風情の道を進む。この辺り昔は「立石新田」と呼ばれ,桑畑が広がる田園地帯で養蚕が盛んであったという。そんな名残を伝える大きな3階建ての農家が数軒残っている。

 数分歩くと右手に白壁の美しい塀に囲まれた大きな屋敷がある。江戸時代の豪農「川端家」で,多数の建物が国登録有形文化財となっている。
やがて右に
伊勢嶋神社続いて信仰庵。 

『伊勢島神社』(藤岡市立石新田2)

 元は,稲荷神社なので狛犬の代わりに狐が置かれている。狐は「鍵(稲倉の)」と「巻物」と「宝珠」の3点セットをもつ。境内には天保5年の常夜燈,庚申塔,道祖神,二十二夜塔,宝筺印塔などの石造物がたくさんまとめられてある。
 
 『信仰庵』(藤岡市立石新田380)

 信仰庵には上部が地蔵尊,下部に橋建立供養塔と刻まれた石塔がある。宝暦10年(1760)という字が読み取れる。すぐ裏手が烏川で,この辺りは度重なる洪水に泣かされた。とくに享保2年(1742)の大洪水では多数の死者が出たと記録されている。
 

  関越自動車道の下をカルバートで潜り,烏川右岸の堤防上の伊勢崎髙崎サイクリングロードを赤城山・榛名山・浅間山の眺望を愉しみながら歩む。
この辺りは中山道は河原の中に在ったらしいルートは完全に消えてしまっている。やがて右下にこんもりした森が見えてくる。

 『お伊勢の森』(藤岡市)

 小さな社と朽ち果ててしまって字がほとんど読めない案内板がある。往時は,追いはぎの名所だったと言われているが今でも寂しい場所である。
 

 再び,土手上の道に戻り「三菱鉛筆の工場」,「千湯(お風呂屋さん)」を左手に見て過ぎ,利根川合流点より7kmの標識を過ぎてから一旦,土手をくだり中島という集落を抜けT字路を右折(この辺りに
一里塚があったという)。<中山道>という標識が掲げてある。烏川に突き当る。
昔はこの辺りに『柳瀬の渡し場』があり対岸の岩鼻村に渡ったという。

 私たちは土手上を500mほど上流へ向かい(途中に利根川合流点より8kmの標識あり)
柳瀬橋(歩道橋が併設されている)で渡る。橋上から上流側に妙義山の遠景が望める。
 烏川の北岸は高崎市。渡り終えて右手の土手上の道を下流側に向かい船渡し場跡へ。


『柳瀬船渡し場跡』(高崎市岩鼻町203)

 烏川(柳瀬川ともいう)は,当初は定まった渡船はなく両岸の中島村と岩鼻村の舟所有者が相対で舟賃を決めていた。宝暦9年(1750)に新町宿の問屋2名と倉賀野宿の三者で馬舟5艘,平田舟2艘を準備し渡賃一人10文,荷駄1駄14文と定めた。

 中山道は,川を渡ってすぐ左に直角に曲がり烏川北岸を上流へ倉賀野宿へと向かう。里程から推し量ると岩鼻には一里塚があってもよい筈だが,その場所は不明だという。
途中,赤城神社(ちょうど本日がお祭とかで間もなくカラオケ大会をやると云っていってオバサンたちが嬉々として集まりだしていた)と北向き子育て観音に立ち寄り,
<岩鼻交差点>で,一旦中山道を離れ,県道13号長瀞線を北へ500m行った,県営群馬の森公園でお弁当時間とする。ほとんどの人は,途中のコンビニなどで調達したおむすびなどの簡単弁当,手つくりお弁当はわたし一人だけである。いつもは朝寝坊の妻が特別早起きして拵えてくれたお弁当はボリュウム満点・栄養満点だ,美味しく戴く。あり難いあり難い!!

 昼食後,再び
<岩鼻交差点>方向へとってかえし,手前で右折して小高い丘(河岸段丘か?)の上に出る。

『岩鼻陣屋跡』(高崎市岩鼻町)

 寛政5年(1793)に上野,下野,武蔵の幕府直轄領50万石を管理する為に岩鼻陣屋が設置された。
初代代官は吉川栄左衛門,最後の代官は高畠弾正でおよそ75年間,天領を管理した。
 吉川代官をはじめとして歴代の代官は良吏が多く,その善政が民から慕われたと言う。よって,国定忠次が代官所に切り込みをかけたというのは,全くの作り話であるという。

 慶長元年(1865),木村甲斐守が関東郡代として着任し,上野の幕府直轄地,旗本領,寺社領,大名の預かり所と武蔵国6郡を支配。
 慶応6年(1868)明治新政府は岩鼻県を設置,旧代官所跡が岩鼻県庁となり,旧代官所とほぼ同じ地域を支配し,明治2年(1869)吉井藩を併合,明治4年(1871)岩鼻県廃止。第一次群馬県が成立し県庁は髙崎城内に移された。

 以後,軍の火薬貯蔵庫となった。現在はこの辺り一帯には
「日本化薬」の工場,事務所,社宅が多いことに納得。

 『観音寺』(髙崎市岩鼻241)

 岩鼻陣屋跡の表側(中山道から見て)にある真言宗のお寺。
境内には初代岩鼻代官の吉川栄左衛門の墓や岩鼻刑場にあった「南無阿弥陀仏」と刻まれた刑場供養塔がある。。


 現在は国道121号となっていて交通量の多い中山道を倉賀野へ向かう。正面に妙義山が遠望できる。
<新柳瀬橋交差点>で国道17号を渡り更にJR高崎線(上り線)陸橋続いて八高線(実質的には高崎線下り線ではあるが,高崎線はこの区間だけ形式上単線ということになる)陸橋を越える。街道は,左斜め方向の旧道に入るがすぐに,現国道121号に合流し<倉賀野下町交差点>に達する。
逆Y字形の交差路の三角部分に常夜燈が立っている,ここが倉賀野宿の入り口かつ
日光例弊使街道との追分である。

 『追分』 (髙崎市倉賀野2225)

 中山道は倉賀野宿の東,下の木戸を出ると日光例弊使街道中山道の追分となる。
追分の常夜燈と道しるべ 後ろのたてものは閻魔堂

「是より右江戸道 左日光道」の道標,常夜燈,裏手に閻魔堂がある。

 常夜燈文化10年(1814),これまで日光へ行くのに本庄方面への道に間違う人が多かったので,五料多宿の高砂屋旅籠の主人であった高砂屋文之助が寄付を集めて建てたもの。台座の四面には各地の問屋・旅籠,著名人312名の寄進者の名前が刻まれ松本幸四郎や市川団十郎などの歌舞伎役者や雷電為右衛門・鬼面山与五郎など38名の力士も含まれる。
高さ373cm,台座高さ68cm,灯篭高さ305cm


 例弊使街道:日光東照宮は初め東照社と呼ばれていた。正保2年(1645)朝廷から宮号(ぐうごう)を賜り,このことを伝えるため勅使が京都から日光へ派遣された。以後この例にならいご神前に金の御幣を奉るため奉幣使が遣わされた。これを日光例幣使と呼びその通った道が例幣使道。

 50~80人の規模で宿泊のため大名も本陣を譲るほどの権威を持った。朝廷の権威を広く民に知らしめるとともに,文化面で街道沿いに京文化が伝わったといわれている。正保4年(1647)の第一回の日光例弊使派遣依頼,慶応3年(1867)の最後の派遣まで221年間1回の中断も無く継続されたという。

 例弊使街道は,倉賀野から玉村への道をとり下野楡木で壬生道,今市で日光道に入る。一般には倉賀野から楡木までとされており,13宿中,上州5宿(玉村,五料,芝,木崎,太田),野州8宿があった。


 閻魔堂:元々は阿弥陀堂,ここに住まっていた尼さんが大の賭け事好きで,負けが込んで阿弥陀様を売り払って仕舞い,後に閻魔様が鎮座する事になったのだという。閻魔大王は地蔵菩薩の化身といわれ,信仰すれば地獄に落ちず救われるといわれている。8月16日には例大祭が行われ,夜には数珠を皆でまわし,鉦を叩きながら念仏を唱える百万遍が行われる。天井絵が素晴らしいといわれる。元の阿弥陀像は本陣跡の向かいにある「九品寺」に安置されていると言う。

『太鼓橋』(高崎市倉賀野1816)

 当時の宿場は江戸から近い方から「下町」「中町」「上町」と呼ばれていた。追分から300mほど行ったところ,下町と中町の境小さな川が流れ,ここに架かっていた橋は,当初は粗末な板橋で少しの増水でも流されることで有名であった。旅人の難儀を見かねた倉賀野宿の飯盛り女達が200両を寄進し江戸の石工に依頼し享和3年(1802)石橋(写真を見ると石積アーチ橋と思われる)に付け替えた。橋には寄進した女たちの名が刻まれていたとのこと。飯盛り女が橋の上から銭を投げて客の入りを願ったので有名だったという。
 現在は,川は流路の名残を残す曲がりくねった幅狭い道路となり,橋も残っていない。それにしても飯盛女たちがこんな大金を出すとは恐れ入った。


 <中町交差点>を右折し,すぐ右手の公民館でトイレ休憩,(休憩しているとはす向かいの山田屋さんの主人が「倉賀野めぐり」という立派な観光案内パンフレットを配布してくれた)。
先刻の太鼓橋が架かっていた川(現状は道路)の上流を渡り右折し100mほど先に左手奥に,


『養報寺』(高崎市倉賀野1832)
山門天井絵

真言宗。至徳3年(1386)開山。山門は天正4年(1576)に倉賀野城主金井淡路守が鬼門除けとして建立したが現山門はその後改築されたもの,しかしながら柱と扉の精巧な獅子の彫刻や天井の絵が素晴らしい。境内に入ってすぐ目にとまるのが「小鳥この頃 音もさせずに 来て居りぬ 鬼城」という村上鬼城の句碑(市指定重文)。左手に石仏5体(市指定重文),養報寺の末寺である長賀寺山古墳石室内に安置されていたたといわれる。凝灰〔ぎょうかい〕岩で造られかなり風化している。鎌倉初期に木喰〔もくじき〕上人が刻んだと伝わる。

『倉賀野宿』

  城下町高崎の玄関口。岩鼻陣屋が置かれ,日光例幣使道の分岐点でもあり位置的に重要な宿場であった。烏川・利根川・江戸川を利用する水運の最上流の河岸として人,物が頻繁に動くことにより栄えた。明治から昭和初期にかけての古い倉や家が多数残っている。「烏川が逆さまに流れない限り,お天道様と米の飯はついてまわる」と唄われ,その賑わいは想像以上のものがあったとという。

 本陣:1軒,脇本陣:2軒,旅籠:32軒,家数:297軒,人口:2032人,日本橋から25里12町(約99.5km)


 <中町交差点>の先左手にスーパー「ベイシアマート」がある。ここが勅使河原本陣跡だという。いまはその片鱗ひとかけらも残っていない。<倉賀野駅入り口>交差点の先の倉賀野上町バス停を挟んで両側に「脇本陣」があったと言われる。
 
スーパー「ベイシアマート」先を左折して烏川河岸に出る。


『倉賀野河岸跡』(高崎市倉賀野1464)
倉賀野河岸があった付近 背景の橋は共栄橋

 烏川に架かる共栄橋の上流左岸に『倉賀野河岸跡碑』。 
永禄4年,年貢米を江戸に運ぶ為,住人10名が最初の舟問屋を開設。慶安中頃(1648~52)に隆盛を極め76軒の業者があった。
下り舟で米,麦,煙草,高崎で生産された繭や生糸・織物,木材などを江戸に運び,帰りは塩,油,茶,砂糖,干鰯(ほしか)などを運んだ。江戸からは物品だけではなく華やかな町人文化も運ばれたという。
天明3年(1783)浅間山の大噴火により大量の火山灰が流れ込み運行が困難になり衰退し,明治17年(1884)鉄道の開設に伴いその役割を終えた。


 河岸跡碑の少し先,民家の庭内に「大杉神社跡」がある。
文化4年(1807)に倉賀野河岸の問屋衆の寄進により茨城県阿波(あんば)の大杉神社から大杉大明神(水運の神様)を勧請。明治42年(1909)八幡神社に合祀された。

 
来た道を少し戻り左手石段を駆け上がると
『八幡神社』(高崎市倉賀野1460)

 正保3年(1646)倉賀野城三の廓跡の古井戸から一夜にして水が湧き出て八幡大神が現れたのが起源と伝えられる。町の人たちから井戸八幡と呼ばれ親しまれている。井戸は今も残り,その上に神輿が保管されている。
 
英泉が描いた烏川で釜を洗う女と水遊びする子供達  倉賀野城址から烏川を望む,奥は秩父の山々
八幡神社を抜けて烏川の河岸段丘上に出る。一帯は倉賀野城が在った場所である。

『倉賀野城址 』(髙崎市倉賀野5556)
 
  倉賀野城は烏川を見下ろす河岸段丘上に立っていた。
南北朝時代の応永年間(1394~1428年)に武蔵児玉党の流れを汲む倉賀野氏が建てたとされる。戦国期には,関東管領山内上杉,武田信玄,上杉謙信,北条氏などの勢力争いの場となり度々の戦乱に巻き込まれた。1565年に武田信玄に攻められ落城,1590年に城主が小田原に籠城して討ち死に,碓氷峠から攻め込んだ前田利家,上杉景勝らの大軍の前に降伏開城し以後廃城となった。

現在は住宅地,児童公園になっていて,「倉賀野城址」と刻まれた石碑と解説板が立っているのみで,遺構は何もない。


 北に道をとり住宅街を抜けて中山道を横断し,倉賀野郵便局前を通過してJR高崎線線路の手前左手に,
『永泉寺』 (髙崎市倉賀野1043)

 曹洞宗。天正元年(1573)倉賀野城主金井淡路守の開基。門前に「不許葷酒入山門」(臭いの強い野菜やお酒を持ち込んではならない)と刻まれ結界石と「千部供養塔」の石塔が目に付く。
境内には金井淡路守の墓や,参勤交代の途中で亡くなった加賀藩の御典医森良斎の灰塚がある。
 しかしなんと云ってもこの寺の目玉は,山門を入って左手にある「幽霊石」である。金井淡路守の奥方を埋葬する為に掘った穴から出てきたという幽霊の顔をした石を石仏としたものである。一度みたら,その晩は眠られないという前宣伝だったが,それほどの形相ではなかった。気味悪いことは悪い!
 この辺りが倉賀野城の北縁にあたり,用水堀跡が残っている。

 本日はここまで。
およそ13キロのウォーキング,予定より早く倉賀野駅発
(16:24)の電車で帰宅。
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