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中山道69次を歩く(第14回)倉賀野宿~板鼻宿 009年05月9日
(歩程 27,800歩 約16.5km)

昨年10月日程が合わずパスした区間に戻っての歩きである。
(0715)バスで新宿発。上信越自動車道を藤岡インターで降り,高崎市倉賀野本陣跡(現在はスーパーベイシアマート)に(09:15)着。総勢21人(このグループは女性16人,賑やかである)

 本陣跡には駐車場の隅に石碑があるのみ,すぐ先右手に脇本陣


 『脇本陣,高札場』(高崎市倉賀野町新町1643)
 
 信号右手に脇本陣,倉賀野宿には脇本陣が二つある。ひとつが須賀喜太郎家で,千本格子と脇うだつをもつ古い宿場家屋の姿を残している(建物は明治36年に再建されたものといわれる)。西隣りに問屋場のあった須賀長太郎家。向かい側にもう一つの脇本陣,須賀庄兵衛家がある。この須賀三家は代々,倉賀野の宿役人,船問屋を勤め,宿の発展と繁栄に寄与してきたと言われる。

 須賀脇本陣の50mほど先右手に『高札場跡』が復元されておりキリシタン禁制などの定書が掲示されている。
脇本陣 復元された高札場
 
 これから先は街道筋から横道にそれて『倉賀野河岸』『八幡宮』『倉賀野城跡』に向かう。私は昨年秋,既に訪れている。
「倉賀野城跡公園」を抜けて右折,「倉賀野中学校」の先にあるのが,


 『倉賀野神社』(高崎市倉賀野町1263)

倉賀野神社拝殿

飯盛り女奉納の石玉垣

 神社の前の道路反対側に「鳥啄池跡(とりばみいけ)」というのがある,なんでも第10代祟神天皇の時代に・・・・・と書いた説明板があるから,神代の時代の言い伝えであまり確かな話ではない。
 
 入り口左手に「飯盛女奉納の石玉垣」あり。
「金沢屋内 りつ ひろ きん」などと女性の名が刻まれている。築造年代は不明,江戸時代の天保期頃ではないかと云われている。もともとは中山道倉賀野宿の太鼓橋の近く,横町(よこまち)の冠稲荷(かんむりいなり)にあった玉垣だが,明治末の神社合併で御祭神が倉賀野神社に遷されたたため,この境内に移築されてきた。宿場の繁栄を陰で支えた女性たちが厚く信仰した稲荷さまであった。

 禰宜さん(女性)が,境内を案内してくれた。
倉賀野神社は,およそ2000年前祟神天皇時代に起源を持ち,「飯玉社」といわれ,明治10年大国魂神社と改称,同43年に近隣の数社を合併して倉賀野神社と改称された地域屈指の名社であり,江戸時代は,近郷12ケ郷の総鎮守であった。いまも参拝者が絶えないという。

 拝殿内にある,狩野探雲(たんうん)の,大板4枚をつなぐ縦3m×横2.3mの大作
「八方睨み」は,参拝者の身に付着した災厄をことごとく祓い除けることから「厄除雲龍(やくよけうんりゅう)」の名がある。本殿は一間社流れ造りで正面及び背面に唐破風が付き,屋根は銅板葺きで江戸時代後期の社寺建築の特色である無彩色多種多様な彫刻(彫工北村喜代松による)は見事である。

異形板碑


  街道に戻って数分歩くと右手に
 『安楽寺』(高崎市倉賀野867)

ここには珍しい室町時代の「異形板碑」があるほか,安永4年(1775)の庚申塔,身に甲冑をつけた「勝軍地蔵尊」(建立年代未詳),裏手に古墳がある。
板碑は,埼玉県から群馬県にかけて多く見られた緑泥片岩では無く砂岩でできた将棋の駒形をしたものである。年代は不詳であるが南北朝を下るものではないと考えられている。
 安楽寺付近が倉賀野宿上の木戸があった場所らしい。


 少し先の<上町西交差点>付近に『一里塚』があったというが,現在は何の痕跡も見出せない。
更に300mほど先の信号に至ると左手前方にこんもりした森が見えてくる
”浅間山古墳”である。「クスリのマルエツ」の裏手を斜めに入る狭いあぜ道を進むと古墳に登ることが出来る。

 『浅間山(せんげんやま)古墳』(高崎市倉賀野町313ほか)

 
 全長171.5mの前方後円墳,後円部の直径105.5m高さ14.1m(現状は木々に覆われている),前方部の長さ66.3m高さ5.5m(現状は畑地),周囲の環濠部は現状畑地・水田となっている。築造された年代はおよそ1200~300年ほど前,4世紀末から5世紀初頭。地方豪族の墳墓と考えられている。

  街道に戻り先に進む。殺風景な広い道路でこれといった目印になるようなものもなくひたすら歩く。
<和田多中町交差点>で国道17号高架下を抜け直進,新幹線高架をくぐり更に上信電鉄踏切を渡り髙崎市街地へ。この辺りが高碕宿入り口。
<あら町交差点>(右折するとJR高崎駅である)を左折してすぐ右手に可愛らしい『あら町諏訪神社』がある。江戸時代の度重なる火災から守るために本殿は総漆喰造りである。

 そのまま先に進み,”髙崎城三の丸水堀”を渡り左手に建つ高崎市役所庁舎着
(12:20)
14階にあるレストラン”香港茶房コートカフェ”で昼食。ここからの眺望は素晴らしい。西側の窓から北側,東側に順に「御荷鉾山ー八ヶ岳ー荒船山ー妙義山ー浅間山ー草津白根山ー榛名山ー谷川岳ー赤城山ー日光連山・・・・・」がぐるりと見渡せる。

 『髙崎宿』
 人口3235人(男:1735人 女:1500人) 家数:837軒。本陣:0,脇本陣:0,旅籠:15。
ここは古くは「赤坂」と呼ばれていたが,鎌倉時代になって「和田」,さらに慶長3年井伊直政によって城が築かれると「高碕」に改められ,城下町として栄えた。三国街道との分岐にもあたり交通の要衝でもあった。
城下町であったため,本陣,脇本陣は設置されず旅籠の数も少ないのが特徴。本町(3日・8日),田町(5日・10日),新町(2日・7日)とそれぞれ六斎で18回も市が立ち,絹(髙崎絹)・木綿・煙草・紙など近郷の産物が取引され,日用品,雑貨の店も並んだ。
 江戸と信越を結ぶ問屋,仲買の大商店ができ「江戸見たけりゃ,髙崎田町」と唄われたほどの賑わいを呈したという。

 

三の丸水掘
 昼食後,(13:10)髙崎城址公園をひとめぐり。

  『髙崎城址公園』 

 この地には平安時代,豪族和田義信が築城したといわれる和田城があった。下って天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの際,前田利家・上杉景勝連合軍に包囲され落城・廃城となった。その後慶長3年(1598),中山道と三国街道の分岐点にあたる髙崎に,徳川家康の命を受けた箕輪城主・井伊直政によって築城されたのが高崎城である。
 郭内だけでも5万坪を超え,北は赤坂町長松寺から,南は龍広寺までの広大な城郭であった。明治4年(1871)廃藩置県により廃城。
 現在は三の丸外囲の土塁と濠および復元(昭和52年(1977))された乾櫓と東門が残っている。敵に矢や鉄砲を射掛けたという乾櫓は,県内に唯一現存する城郭建築で寛永年間の築造と云われている。

 公園内の南西端・国道17号際に『頼政神社』がある。
元禄8年(1695),松平輝貞が髙崎城主に封ぜられ同11年,その祖先源三位源頼政(平安末期,源家再興のため以仁王(もちひとおう)を奉じて平氏追討を図ったが敗れ,治承4年(1180)宇治平等院で自刃)を祀るため建てたもの。
 また,境内に『内村鑑三記念碑』あり。

『乾櫓』『東門』を見てから午前中左折した
<あら町交差点>に戻り,新町商店街と呼ばれる賑やかな繁華街を200mほど北上した<連雀町交差点>の先を右折し突き当たったところにあるのが門扉に三つ葉葵が描かれた,
 
『大信寺』 (髙崎市通町75)

 450年の歴史があり寺領百石を持っていたという浄土宗のお寺。
寺内には三代将軍徳川家光の実弟(三男)である駿河大納言徳川忠長の墓がある。二代将軍秀忠は忠長を世継ぎにしたいと願ったが,それもならず,後,ご乱行があったとして咎められ髙崎城に幽閉され寛永10年(1633)弱冠28歳にて自害させられた。

 街道に戻って7~8分,<本町3丁目交差点>を左折(ここを曲がらず右へカーブしていく道は「前橋道」と呼ばれ,前橋につながる),すぐ左手に蔵造りの商家がある。漆喰の上に黒く塗られた重量感溢れる,明治15年(1882)頃に造られたという建物である。いまでも漆商として営業している。

 更に広い通りを西へおよそ400m余(この辺りが髙崎宿の中心であったと思われる)で
<本町1丁目交差点>に到着する。ちょうどこの辺りが高碕宿の出口で,右折していくのが,中山道から分岐する『三国街道』
私たちは直進,ここから途端に幅狭い道に変る,赤坂通りという旧街道の風情いっぱいの静かな町並みの坂道をを下る。少しばかりで右手に,

 『長松寺』(髙崎市赤坂町30)

 曹洞宗。上州七福神のひとつ。
本堂天井絵(龍)・向拝天井絵(天女)涅槃画像は見事である。いずれも江戸時代狩野探雲の作。探雲は甘楽郡野上村(現富岡市)の出身,狩野派の主流である探林の門人として修学,幕府画所に15人扶持をうけ江戸城西の丸の画作に従い後,絵師の最高位である法眼を与えられた。

 庫裏は,髙崎城内から移した建物を,少しく広げたもので,徳川忠長(さきに見た大信寺に墓所がある)が自刃した部屋が,現在も居間として使われている。


      
天井絵(龍)  向拝天井絵(天女) 岡醤油醸造所

  さらに数分歩くと左手に赤レンガ煙突を有する「岡醤油醸造所」が見える。天明7年(1787)創業の河内屋が明治30年にこの地で開業したという。斜め向かい側にもレンガ塀が見える。「山田文庫のレンガ塀」である。
 街道は山田文庫に沿って右折,およそ700mで
「君が代橋」東詰。

『君が代橋』

 烏川にかかる国道18号の橋梁。東詰は国道17号と18号の分岐点,さらに東側から県道354号も合流していてさながら高速道路のインターチェンジの様である。
 小さな公園に「君が代橋親柱」が残されている。説明板によると”君が代橋”という名は,明治11年9月明治天皇が北陸・東海行幸の際,馬車で木橋を渡ったことを記念して命名されたとある。”親柱”は,昭和6年木橋から鋼橋に架け替えられた時のもの,昭和52年に三層構造のインターチェンジが建設され,君が代橋も新たに架け替えられた。  


 君が代橋(国道18号)を渡り,階段を下って高架下をくぐり道路の右手に出た所に『万日堂』がある。
堂の中に高崎市指定重文「みかえり阿弥陀様」が安置されているというが,姿を見ることはできない。顔は左横向きやや下方を見ているので寝釈迦(涅槃像)ではないかという説もあるという。見返り阿弥陀像は全国で五体しか見つかっておらず,何故ここ万日堂に伝来しているのか?

 いったん国道に出て
<君が代橋西交差点>を右手に入り国道406号を約およそ500m先のY字路を左に向かうのが旧中山道である。ここに二つの「道しるべ」がある。
 

 『下豊岡の道しるべ』(高崎市下豊岡61)

 ひとつはY字路三角地帯の真ん中に立つ小さな自然石の道しるべ。
これには「右はるなみち くさつみち」と刻まれている。ここより右に折れる道は
「信州道」と呼ばれ,草津温泉へと通じる道であることから「草津みち」とも呼ばれる。現在は長野県大町を起点とし高崎市君が代橋を終点とする国道406号となっている。

 もうひとつは,分岐点から10数m旧中山道に入った右手の”だるま工房”入り口角にある。
高さ198cm,巾34cm,厚さ36cmの安山岩で造られた尖塔角柱。
正面に「榛名山 草津温泉 かわなか かわらゆ温泉 はとのゆ」
左側面に「左中山道 安中 松井田 横川」
右側面に「従是 神山三里 三の倉五り半 大戸九り半」
とある。


 国道406号との分岐点に現在の”道しるべ”もあり,板鼻宿まで4.5kmと記されている。
 街道沿いには,何軒かの”だるま売店”が並んでいる。少林寺拳法だるま寺が近いことを知る。分岐点からおよそ750m右手「豊岡小」を過ぎてすぐ左手に


 『若宮八幡宮』(高崎市中豊岡町1428)

 平安末期,八幡太郎が奥州下向の際ここに一宿したと言われ,天徳元年(957)に山城国男山八幡を勧請したものと伝えられている。また源頼朝が義仲を追討した時,社殿を修復し下って武田信玄が上州攻略に成功した際,祭典を行った。
太々神楽が完全な形で残っているのもこの神社の貴重な遺産で,無形文化財に指定されている。
 群馬八幡の分社である。


 樹間を渡ってくる涼しい風を感じながら10分間の休憩後,再び街道を西進。およそ450m先左手に

『飯野茶屋本陣(「上豊岡茶屋本陣」)』 (髙崎市上豊岡町133-12ほか)

 茶屋本陣は,大名の参勤交代や上級武士・公郷の喫茶や昼食などのために設けられた休憩施設。
上豊岡茶屋本陣は,19世紀の初め頃飯野家の居住用主家(18世紀中頃築造)と接続する離れ座敷として増築された。大名などが休息する「お座敷」はそれぞれ8畳の”上段の間”・”次の間”の2室からなる。私たちも上段の間に座りボランティアガイドの説明に耳を傾ける。書院造りの様式をとどめる違い棚・床の間,部屋の周りは幅一間の入側(いりがわ 座敷と濡れ縁との間の細長い通路。畳を敷いたものを縁座敷という)をめぐらし落ち着いた雰囲気である。

 つい最近まで飯野家個人の住居として使用してきたが,上段の間と次の間は江戸時代のまま一切手を加えていないという。平成9年に主家とともに高崎市が買い取り維持・保存,一般公開されている(無料)。
飯野茶屋本陣門 上段の間

 街道を更にてくてく歩き,<上豊岡交差点>で国道18号に合流する。
向こう側に渡り
碓井川左岸の土手上を進むとやがて土手右下に見えてくるのが,

 『藤塚一里塚』(高崎市上豊岡町229-1)

 群馬県唯一現存の一里塚で江戸から28里目。
南側のものは旧状をよくとどめ,塚の上に推定樹齢200年を超えると思われる榎の大樹が歴史の重みを伝えている(基部は一辺約9mの正方形)。北塚は国道18号の拡幅により原位置から移動しているが中山道では唯一両側の塚が残るものとして貴重である。

 再び,碓井川左岸の土手道を西進,対岸に「達磨寺」が見える。境内からは高崎市内が一望できる絶好のビューポイントだというが急な階段を登る元気は無いし時間的余裕も無い。

 しばらく行くと右手の国道際に大きな鳥居が立つ,『上野一社八幡宮』参道入り口の一の鳥居である。本殿は鳥居から更に750m歩いてJR線路の先にある。往復およそ1.5km,見物も含めるとたっぷり30分はかかるので,土手の上から皆でニ拝・二拍手・一拝す。(これでご利益を望むのは虫がいいか!)

 
この辺りで,”高崎市”から”安中市板鼻”となる。
500mほど行った所で土手から下り
<板鼻東信号>で国道の向こう側に渡り西進。
<板鼻下町交差点>で国道18号と分かれ右手県道26号に進みすぐのY字路を左手国道137号へ。この道が旧中山道である。板鼻へと向かう道すじには,いくつもの庚申塔・お地蔵さん・寒念仏橋・供養塔,男神と女神が瓢と盃を持った道祖神・・・・・・やっと街道らしさが残る町並みとなる。

 信越本線の踏切を渡り
<板鼻2丁目>のT字路右角に「榛名道」の道標,同じく「ここより板鼻宿」との旧中山道案内板もある。ふ~っやっと着いたか!半年振りの街道歩きで最後の2,3km少しピッチが落ちてしまったが無事完了。
 300m先が
<板鼻宿交差点>,すぐ先右手が本陣跡(現在は板鼻公民館が建つ)。

『板鼻宿』

 江戸から14番目の宿場。板鼻宿の町並みは,東西十町三十間(約1150m)で戸数312軒本陣1脇本陣1旅籠54軒。中世には碓井川・九十九川・秋間川の合流地点で筏交通の集散地でもあり,中山道でも有数の大きな宿場であった。戦国時代に入ると伝馬役を負担する伝馬宿となり,幕末には天領として幕府直轄地となる。宿場の出口に大雨が続くと川留めとなる碓井川を控えていたことと城下町で規制がうるさい高碕宿を敬遠して気軽な板鼻宿に止まりを決め込む旅人が多かったなどの理由で,上野七宿中でもっとも旅籠屋の数が多く,他に商店や茶屋も90軒もあって繁盛していた。旅籠のほとんどは飯盛女,下女を擁していたという。

 (17:05) 板鼻本陣跡着。向かいのスーパーで缶ビールをもとめ一気に喉を潤す。
待機していたバスで帰京。高速道土日割引きの影響で渋滞を心配したが全くスムースに走り午後8時前新宿着。

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