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中山道69次を歩く(第15回)板鼻宿~松井田宿 008年11月4日
(歩程 29,700歩 約17.8km)

 新宿を7時半にバスで出発し板鼻に向かう。
(09:45) 板鼻公民館前に到着。総勢28人。(女性が21人と賑やかである)

 公民館の直ぐ裏手にあるのが,


 『旧板鼻本陣書院』,『皇女和宮資料館』(安中市板鼻1)
旧板鼻本陣書院
 板鼻宿の本陣は,今の板鼻公民館の辺りにあったという。

 書院は,板鼻宿本陣敷地内の西側につながっていて,その上段の間は参勤交代の諸大名や多くの貴人の宿として使われた。幕末に皇女和宮が京都から江戸に下向の際,文久元年(1861)11月10日この書院に宿泊した。
本陣敷地が公民館用地となりここに二部屋のみ,解体曳移転された。外装などに補強の為手が加えられたが,内部は昔日の面影が偲ばれるように控えめの施工が行われたという。

 現在は
「皇女和宮資料館」として使用されており,和宮の使用した草履,料理に使われた俎板,和宮の銅像写真,花嫁行列の様子を絵と文字で記した巻物,警護の伊賀者が潜んだという床下の穴などが残されている。
 花嫁行列は京都方1万人,江戸方1万5千人,京都からの通し人足4千人で,長さ50キロにも及んだという。


『板鼻堰用水路』

 和宮資料館のすぐ北側に清冽な水が勢いよく流下している水路がある。今からおよそ400年前,慶長年間中期から後期(1604~14)に開鑿された用水路で,碓氷川,九十九川の水を取り入れ,安中市板鼻,高崎市八幡町,剣崎町,豊岡町の田畑150haを灌漑し烏川に落水する延長15kmの用水路である。江戸後期の浮世絵師渓斎英泉が用水路の冬景色を描いている。

左中央に旧橋台,裏手の山が鷹之巣城跡
 およそ350mほど西進して碓氷川を「鷹之巣橋」で渡る。
現橋の上流側左岸にレンガ造りの橋台が残っている。江戸時代は,冬季間は仮橋で,増水期は徒で渡ったという。明治10年木橋が出来た。レンガ橋台跡はその名残である。碓氷川左岸の崖地上には「鷹之巣城」が在ったという。

 鷹之巣橋を渡って直ぐの交差点(中宿)の左手角に
「諏訪神社」
 その裏手に
『蓮華寺』(安中市中宿685)

 宝治元年(1248)栄朝禅師(1165年上野国那波郡の生まれ,京都建仁寺で栄西に学び,臨済宗を修める)による開山で,天台宗の寺。開山堂にある寄木造りの栄朝禅師木彫坐像(総高108cm,座高70.6cm)は鎌倉期のもので県重要文化財。

 <中宿交差点>を北側に進み突き当たりを左折,この道が中山道である。壊れかかった出し梁造りの建物も見られ旧街道らしい風情の残る道である。およそ300mほど行った辺りに「一里塚」があったらしいという。

左手に

『板鼻庚申塔』(安中市中宿1丁目5-14)


 一の宮道の道標を兼ねた享和2年(1802)の庚申塔。「従是 一宮,大日街道」とある。一の宮は富岡にある貫前神社のこと。

 先に進むと道は碓氷川の土手にぶつかる。中山道は,この辺りで川を渡っている筈だが道は消えてしまっている。左角に「寒念仏供養塔」が建つ。寒念仏とは,1年で最も寒さの厳しい小寒から節分までの30日間にわたり鉦を叩き念仏を唱えながら諸所を巡る一種の苦行である。

 左手の道を辿って国道18号に出る。左手にJR信越本線安中駅,その向こう側に東邦亜鉛の工場
「久芳橋」
(江戸時代は
「二つ橋」と呼ばれたそうだ)を渡る。かすかに噴煙を上げている浅間山がよく見える。
<下野尻信号>で左手県道125号に進む。およそ650m,信号の右手に「安中宿下木戸跡碑」のみが建つ。ここから安中宿である。

 『安中宿』

 安中はその昔,野後という地名であったが,永禄2年(155) 越後新発田から安中忠政がこの地に移り城を築いて安中城と称したことから安中と呼ばれるようになった。安中宿は,安中藩3万石の城下町でもあった。
1615年(元和元) 伊井直勝が下野尻村から上野尻村までの約400mの細長い町を作りここに65軒の家を建て伝馬宿としたのが安中宿の始まり。
日本橋から29里19町40間,15番目の宿である。人口348人(男162,女186),家数64,本陣1,脇本陣2,旅籠17軒。城下町ではあったが,とても小さな宿場であり,困窮度が甚だしく中山道の定式である人馬の50人・50匹の役務を果たすのが難しく1783年 の浅間山大爆発で壊滅的な被害を受けている。

 
「ちゃんころりん」
 少し先の左手「安中郵便局」が
 『須藤本陣跡』

 
建坪192坪,門構え・玄関。須藤家が勤め,本陣横で問屋場,人馬継立て一切を取り仕切っていた。碑が建つのみで何も無い。

 脇本陣2軒は,須田家,金井家が勤めていた。遺構も無く本陣に比して狭いものだったという。


 郵便局と反対側の道に入り,順に「大泉寺」「西広寺」「熊野神社」を巡る。

  『浄土宗大泉寺』(安中市安中3-21)
  山門を入ってすぐ右手に「ちゃんころりん」という五輪塔の一種がある。夜な夜な丸い石が「チャンコロリン」といって町中を歩き回るので,大泉寺の和尚が釘を打って止めたという言い伝えがあるそうだ。

 右手奥の墓地には,「井伊直政正室の墓」「井伊直好生母の墓」がある。井伊家といえば,彦根藩というのが常識であるが,ここ安中とどういう関係があるのだろうか?案内板の説明書きを見て納得!
 徳川家康の巧臣井伊直政(箕輪城→髙崎城→近江佐波山城主 18万石)には,正室(唐梅院)に直勝,側室に直孝という二人の息子がいた。慶長7年(1602)直政が亡くなり嫡男直勝が後を継いだが,病気の為大阪冬の陣,夏の陣には弟の直孝が出陣し,家康の命により直勝は慶長19年(1614)安中に下り翌元和元年2月,安中に3万石で分家した。天正3年(1575)長篠の戦で全滅した安中氏とともに廃城となっていた安中城を再建し初代安中藩主となる。

 『西広寺』(安中市安中3) 

 大泉寺の東となりにある西広寺には「柏木義園の墓」「西広寺の椿」がある。

 柏木義園なる人物の名は,はじめて耳にする。いかなる人物か?
墓前の案内に以下のように紹介されている。

「非戦の先覚  無戦世界の出現を期する」
柏木義円は安政7年(1860)生まれ,東京師範学校を卒業,明治12年土塩、新井、上増田三村連合で細野西小学校を創設した時の初代校長に就任。

この時の官選村長荻原州年は安中教会の執事でこの村長を通じてキリスト教に触れ,新島襄を敬慕するようになった。
明治13年同志社に入学するも休学して上州に戻り,明治15年細野東小学校の校長に就任した。
明治17年同志社に復学し同23年同志社通学課を卒業するや同校予備校の主任に迎えられた。
明治25年に平瀬かや子と結婚し,「同志社文学」の編集者として活躍,明治30年同志社を去り湯浅治郎の招きに応じ、安中教会の第四代牧師に就任し「上毛教界同報」を創刊し、県下のキリスト教界の情報を伝えると共に,神の福音、キリスト教に基づく自由と平和を説き昭和十一年まで刊行し続けた。

この間、新島襄昇天30周年を記念して新島襄記念会堂安中キリスト教会礼拝堂を新築した。
昭和13三年永眠すると先になくなったかや子夫人が眠るここの墓地に葬られた。」(安中教育委員会)

 「西広寺の椿」は,樹齢推定300年の椿。ユキツバキといい群馬県天然記念物に指定されている。

 『熊野神社』(安中市安中3) 

 
素晴らしい彫刻が施された熊野神社本殿
永禄2年(1559),安中忠正が安中城を築き,鬼門の守護神として越後国新発田の熊野神社をあらためて祀り,安中藩の総鎮守として歴代藩主に厚く崇敬されてきた。本殿の彫刻が素晴らしい。
また,境内に推定樹齢1000年の大欅がある。これに祈願すると疣が取れる霊験ありといわれている。現在は落雷により樹身の2/3が崩れ落ち残る1/3が支柱で補強されている。
熊野神社北側から西にかけての一帯が安中城が在ったところである,「大手門跡」,「東門枡形跡」,「東門跡」・・・・の標柱を目にしながら,いまでは静かな住宅街と化した道を巡り城址の西方に出る。
秋空に映える柿の実(城址内の民家の庭にて)

『安中城址(別称扇城)』
(安中市安中3丁目地内)

安中の地名は,戦国時代に原市の榎下城にいた安中忠正が,野尻と呼ばれていたこの地に永禄2年(1559)に城を築き野尻を安中と改めたことに始まるといわれている。この地域は,越後の上杉,甲斐の武田,小田原の北条という有力戦国大名が三つ巴の戦いを繰り広げた場であり,安中氏は武田信玄と戦い,永禄7年に降伏し。以後武田氏に属したが天正3年(1575)長篠の戦いで城主以下全員討ち死にし,やがて安中城は廃城となり城地は農地となっていた。

 その後,江戸時代に入り元和元年(1615)に井伊直勝が近江彦根から初代藩主として安中に移り,安中城を再建し,町割りを行ない安中宿を開いた。安中城は九十九川と碓氷川に挟まれた河岸段丘上に位置し,安中宿より一段高い所にあった。お城といっても天守閣は無く,茅葺き平屋建ての御殿が本丸(今の文化センターあたり),二の丸は安中小学校のあたりで東西750m,南北500m。
 明治維新の廃藩置県により取り壊され,城の遺構はほとんど残っていない。
 安中藩主は五家(井伊・水野i・堀田・板倉・内藤)十六代が勤め,中山道の関東への入り口に当たる為いずれも徳川譜代の大名が置かれた。

 とんがり帽子風の屋根が面白い双葉幼稚園前を通りやや広い通りに出る。左手角にあるのが,

 『旧碓氷郡役所』(安中市安中3-21-51)

 太政官布告第17号「郡区編成法」により明治11年12月碓氷郡役所が開庁。当時70ヶ町村(人口約4万人)を統轄した郡役所は伝馬町の旧本陣須藤国平氏宅を仮用していたが,明治21年6月,現在地に白壁の壮大華麗な新庁舎を落成した。

しかし,不幸なことに明治43年9月20日夜原因不明の出火により全焼。そこで新たに工を起し同所に明治44年9月新郡役所を竣工した。群馬県内で唯一現存する旧郡役所の遺構である。

 大正15年7月1日碓氷郡役所は廃止となり,建物は碓氷郡農業会が使用,昭和17年に碓氷地方事務所が開設使用,昭和32年事務所廃止後は安中農政事務所が開設使用(安中農業改良普及事務所・高崎財務事務所・教育事務所も同居),昭和48年までにはすべてが移転し空家となる。同49年群馬県が土地家屋を安中市へ贈与し今日に至る。

 地方自治の歴史を示す貴重な建物であるため,平成8年度から地域文化財保全事業により建物の改修を行い後世に保全することを目的に事業が進められ,平成10年4月より公開されている。(本日は休館日で見学できず)

 
「旧碓井郡役所」の向かいに建つのが
 
『日本キリスト教団安中教会』

 ゴシック様式の重厚な外観ながら,大谷石造りのせいでどこか軽やかな印象のこの教会は,大正8年(1919)竣工。安中藩士だった新島譲の召天30年を記念して地元の信者が建立した。日本人が設立した初の教会で,正式には「新島譲記念会堂」という。

 
「大名小路」標識の先に,旧安中藩の郡奉行役宅と武家長屋が復元・保存されていて,藩政時代の城内のたたずまいを彷彿とさせてくれる。

 『旧安中藩郡奉行役宅)』(安中市安中3-6-9)

 15代藩主板倉勝明の側近山田三郎(1804~1862)が住んでいたと伝えられ,おおよそその頃(文政年間1818~29)の建築。その後幕末から明治にかけて猪狩磯右衛門懐忠(1820~1883)が入った。両者とも安中藩の郡奉行を勤めたが郡奉行は領内の村方の警察権や裁判権を有した役職で,安中藩には3人の郡奉行と4人の代官が居て領内の農民の治安を担った。

 母屋は曲がり屋形式で上段の間・土間・式台付きの玄関・茅葺き屋根・武者窓・砂ずりの壁など重厚な地方武家屋敷の姿を留めている。また,大名小路に面して建つ長屋門の草葺が屋敷構えとよく調和している。修復・復元に際して約6mほど南へ移転された。

 『旧安中藩武家長屋)』
(安中市安中3-6-1)

 安中藩は3万石の小藩だったので,最も高禄の年寄り(家老)級でも300石未満で多くの藩士は慎ましい暮らしをしていた。住居についても一戸建ての独立家屋に住めたのは30名ほどの上級藩士だけで,ほとんどの藩士は長屋住まいであったと言う。
 この建物はそのうちの4軒長屋で,3軒だけ残っていたものを残されていた図面を元に当初の姿に復元したもの。西側から八間・六間・六間・六間に区分されている。それぞれ,台所(土間)・下座敷・上座敷・押入れ・床の間,前庭(実際は畑に使った)側に流し場・縁側・厠が並ぶ。武家長屋が建てられた正確な年代は不明,幕末から明治初年の絵図に描かれている点や柱間の寸法(役1.82m)などから1800年代中頃と考えられている。
郡奉行役宅 武家長屋

 数分,北に歩いた所にある「文化センター」の前で,今は滅多に食べられない横川”荻野屋”の釜飯弁当で昼食。
敷地内の一角に,日本最初のマラソンとして名高い「遠足(とおあし)の碑」,柏木義園を偲ぶ「非戦の碑」が立っている。

 
(14:40) 午後のウォーキング開始。まだまだ松井田まで10km以上歩かなければならない。日暮れが早いこの時期暗くなる前に到着できるかどうか?
有田屋


 先ほど見学した「郡奉行役宅」の前を通過して坂を下り,中山道に出て右折する。およそ500m程進み,左手に「便覧舎跡碑」
明治5年日本最初の私設図書館,東京書籍館と同年に3000冊の図書を無料で貸し出した。

 斜め向かいに豪壮な蔵を構える「有田屋」の店舗。
天保3年(1832)創業の味噌・醤油醸造の老舗,有田屋の湯浅一族は日本の教育・社会・文化に貢献した人物を輩出したことで有名。
 三代目湯浅治郎は安中で最初に洗礼を受けた30人の一人で,新島がもっとも信頼した後援者であったという。彼は「便覧舎」を設立し無料で公開した啓蒙化で,新島による最初の洗礼はこの便覧舎で執り行われた。

 更に300m程進んだ右手,「安中上野尻郵便局」あたりが「安中大木戸跡」だという。ここまでが安中宿。

 その先200m,右「後閑」方面の交差点を左折して,正田病院の先を左折,細い道を辿って着いたところが,

『新島譲旧宅』(安中市安中1-5)

 新島譲の故郷であり,新島の両親が住み,彼自身も米国から帰国したあと,数年間ここに住んだ。城内の武家屋敷から見ると飛び地のような郊外にあるのは,廃藩置県のために江戸から引き上げた藩士のために急遽用意された住宅であったからだという。ちなみに新島譲は,江戸神田一橋の藩邸生まれだった。
 現存する建物は別の場所から曳かれてきた。写真や資料が展示されているというが本日はお休み。
裏には,古墳や安中藩主板倉勝明が殖産興業策として漆100万本を植えさせたと言う事跡を記念した「漆園(しつえん)の記」石碑がある。

 近くで珍しいというか,ナンと読むのか全く分からない苗字を見つけた。「罍」(田が三つに缶),帰宅して漢和辞典で調べたら訓読み「さかだる」・音読み「ライ」と判明。面白い名前があるもんだ。
 
 中山道に戻りおよそ600m先,<安中総合学園高前>交差点で国道18号と斜交し,原市に入る。

 『原市の杉並木』

 往時は,1kmにわたり,日光の杉並木と並び称せられる名勝であったというが,今はその多くが枯死し,新たに植樹した若木が多く,僅かに杉並木の体裁を保っている。
天保10年(1844)には735本あったというが,大正2年に321本,昭和52年に57本,昭和56年に25本。昭和8年国の天然記念物に指定されるも,台風や落雷,車の排気ガスなどにより年々減少し,指定は,取り消されている。現在わたしがざっと勘定したところ古木は7,8本しか残っていない。昭和40年代,この道は現役の国道18号であったが,その頃は杉並木の体裁はまだ残っていたと記憶している。

 杉並木の中ほど右手に「並木苑」という割烹料亭あり,その向かい側国道18号への連絡道路脇に”いそべせんべい”のお店があり,お土産に買う人,トイレを借りる人,一服する人,・・・・小休憩のあと再び街道を西へ。

 約500m先右手に「原市戸長役場跡」

 「明治4年4月にはそれまでの町村役人を廃止して戸長・副戸長と改称し,従来の町村役人の事務を行わせるという太政官布告が出された。戸長・副戸長には戸籍調査の他に従来町村役人が行っていた町村管理も行わせた」という案内板のある民家を通過。

 『茶屋本陣跡』&『真光寺』(安中市原市3)

 ダラダラした坂を黙々と歩んで,更に800mほど先左手に「高札場跡」「明治天皇原市御小休止所碑」が建つ。
 ここは五十貝家の茶屋本陣。向かいに真光寺。小さな本堂と左手に「時の鐘」がある。市井の仁井惣右衛門が寄進し,安中藩12代藩主板倉勝暁の代に”時の鐘”として許可された。天保3年(1832)に本堂,鐘楼が焼失した後も男2人を雇って昼夜分かたず時を知らせ,その故か太平洋戦争時にも供出を免れたという。「板鼻称名寺」,「下秋間桂昌寺」の鐘とともに安中市の三つの鐘のひとつだという。
 
 原市小学校,安中第二中学校を過ぎ,”松井田宿まで4.9km”の標識あり,直ぐ先右手に


『八本木延命地蔵』(安中原市2289)『立場茶屋山田屋』(安中原市1446)

 地蔵堂の本尊は,頭は円頂(剃った坊主頭)で体には袈裟と衣をまとい普通の僧侶の姿をしている。総高1.15m,金箔の像は室町時代初期の作品,秘仏としてご開帳は百年目ごとにする定めとなっており,霊験あらかたで日本三地蔵(新発田、壬生、八本木)の一つといわれている。参勤交代で中山道を往来した大名も下乗下馬して参詣した伝えられる。
 境内には,庚申塔が沢山並んでいる。
 
 向かい側が立場茶屋があった場所。今は,民家として使われているという。


 街道は「郷原」という所に入り ,相変わらずのだらだら登り道をひたすら歩く。
およそ1.7km,右手に「日枝神社」,隣に「自性寺」がある。
日枝神社は神楽殿を潜って参詣する様式が珍しい。自性時には,旧い宝きょう印塔,門前に可愛らしい酒器像がある。

 およそ1.2km先で国道18号に合流。信号が無いので,車の切れ間を狙って向こう側に渡る,角に建っているのが,
 

『郷原の妙義道常夜燈』 

  文化5年(1808)郷原村の妙義山講が建立したもの。塔身正面に「白雲山」,東面に「文化五年戌辰四月七日」,台石西面に「当所講中」とあり,台座には「是より妙義道」とあり、妙義神社への参詣者への道しるべであったことが判る。その脇に,道祖神や山中貞輔の歌碑がある。
 この常夜燈は元々はここから東50mほどの中山道から妙義道への入り口にあったのが昭和63年3月現在地に移転された。


 国道18号(松井田バイパス)を松井田方向へ約600m進み,左手県道33号に入る。正面に浅間山,左手前方に暮れなずむ妙義の山々の美しいシルエットを眺めながらゆるい坂を下りおよそ1.2km,<下町>信号に到る。ここから松井田宿である。
 仲町群馬信用金庫が「金井本陣跡」,この辺りが脇本陣跡と説明されるが,すでに陽は落ちて,暗くて何も見えないに等しい。でも頑張って右手に入り,「不動寺」
松井田小学校の校庭を横切って「松井田八幡宮」へ向かう。もう暗くて何も見えない唯,行ったというだけ。

暮れ行く妙義の山並み
『松井田宿』 

 人口1009人(男:547,女:462),家数:252軒,本陣:2,脇本陣:2,旅籠:14

 この宿場には信州各藩の城米が送られてきて,江戸廻し米の中継点となっていた。廻し米のおよそ半分が松井田宿の宿米(米商人)に売却(払い米)され,残りの米は,再び牛馬で
倉賀野河岸へ運ばれ,舟で江戸へと回送された。
 各藩の廻し米は多額の取扱高となり,松井田は「米宿」と呼ばれていたと言う。馬子唄には「雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らじゃこしましょ坂本へ」と唄われ,日のあるうちに面倒な関所を越しておきたいと,碓氷の関所を控え,松井田を通過してしまう大名や旅人が多かったと言う。


『松井田本陣跡』 

 下の本陣は金井藤右衛門が勤め,明治天皇巡幸の際,宿泊場所として利用され,後に警察庁舎となり今は信用金庫となっている。上の本陣は松本家が勤め,問屋場は金井・松本両家にて,一ケ月交代で務めた。
遺構はなにも残っていない。


『不動寺』(安中市松井田町松井田987)

 真言宗豊山派。正式には龍本山松井田院不動寺と呼び,寛元元年(1243)慈猛上人が開山した名刹。元亀・天正の頃は武田信玄から寺領を得,また,江戸時代には徳川家光より朱印地89石を与えられて末寺17ヵ寺を有する大寺であったと言う。
 境内には,仁王門・本堂・庫裏などがあり、見事な彫刻を施して桃山時代の様式を残す仁王門と不動明王坐像が県指定重要文化財となっている。


『松井田八幡宮』(安中市松井田新堀1389)

 本殿(県重要文化財)は三間社流造,銅板葺。現在は拝殿と結合して権現造の体裁であるが,間口三間・奥行二間、正面三間には観音開きの扉が設けられた三戸前,向拝柱は角柱4本で外側に2本の支柱が附される。軒は二重繁垂木、階段・濡縁・勾欄・側障子、いずれも八幡社造の典型を示している。細部では、桐・桃・菖蒲・松・竹・藤などの植物模様を彫出した蟇股が面白い。室町時代の一間社流造の様式を伝える点から、江戸時代初期の造営と推定されている。

 午後5時20分とっぷり暮れた。
八幡宮からの石段を踏み外さないよう気をつけて下り,中山道(現県道33号)に出て,「松井田歩道橋」脇の「ゆうあい館」に到着。
本日はここまで,迎えのバスで
(17:40)発帰京。
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