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中山道69次を歩く(第18回)塩名田宿~八幡宿  009年5月30日
(歩程 14,500歩 約8.5km)

 朝7時半に新宿を出た時は,しとしとと梅雨のような雨模様であったが,上信越自動車道八風山トンネルを抜けて長野県に入ったとたん,霧も上がりどうにか雨も降らずに一日もちそうな空模様となった。
佐久平インターから県道44号をしばらく走り,<耳取南>交差点を左折し,長野新幹線高架をくぐった先の<塩名田>交差点でバスを降りる。
 総勢10人(男性はわたしだけ,こんなに参加者が少ないのも男性がわたし一人だけというのも始めてである。直前に3人ばかりがキャンセルしたとのこと)
 
 
塩名田宿 しおなだしゅく
 江戸から43里13丁,23番目の宿。
岩村田と望月の中間に位置し難所のひとつである千曲川を前に一宿が必要とされ慶長7年(1602)北方の岩下通りや南方段丘上の町田や舟久保の住民を40軒ほど移住させて形成された。

東から
「下宿」「中宿」「河原宿」に分かれていた。今でも千曲川の清澄な風景が広がり、河原宿に往時の面影がよく残されている。

 人口:574人,家数:116軒,旅籠:7軒,本陣:2,脇本陣:1
 
塩名田神社

「中山道塩名田宿」と記された標柱が建てられている<塩名田>交差点わきから北に向かう参道の奥にあるのが
 「塩名田神社」

 寛文13年(1673)正月,塩名田宿鎮護の神社として祀られた。その後明治4年(1871)「日枝神社」と改称,明治41年(1908)12月,神社合併で瀧大明神・秋葉社・天神社と統合され,以後「塩名田神社」と称する。
すぐ裏手を長野新幹線が走っている。

 
丸山本陣跡
問屋・本陣
<塩名田交差点>から先が「塩名田宿下宿」である。数分先の「中宿」「本陣跡,高札場跡」など宿場時代を感じさせる建物が残っている。

 塩名田宿には2軒の「本陣」があり,その一つは「丸山善兵衛家」である。延宝年間(1673~80)から本陣を勤め,建坪170坪,門構え,玄関付き今は大井商店(左)となり遺構は残っていない。
 もう一つの本陣跡,
「丸山新左衛門家」の建物(右)は,建坪129坪の「妻入り切妻造」,2階建ての「せがい造り」でかつての姿を保っている(現在も住居として使われている)。ちなみに「脇本陣」「丸山文左衛門家」(遺構は無い)と,丸山一族が本陣・脇本陣を勤めていた。

 本陣跡の隣が「高札場跡」 案内板があるのみである。
角屋(もと休み茶屋)
木造4階建て
 
 「塩名田宿中宿」から「河原宿」にかけては古い家並みが残り,繭問屋・佐藤家住宅・えび屋豆腐店(何時行っても「油揚げ売り切れ」の札が下がっているという)など味わいのある建物が点在している。

 
えび屋豆腐店の少し先を県道から分かれて右へ下り「河原宿」へと入ると,旅籠風の建物が何軒かあり宿場の面影が残る。
 左手に「滝不動」千曲川河岸段丘の崖,大ケヤキの下から滝となって流れる湧水があり,旅人の喉を潤したという。隣に「角屋」(左)という看板をかかげる白壁木造3階建てが目につく。

 塩名田は明治30年代花街として活況を呈したという,角屋は上等の芸妓屋として名声が高かったそうだ。

 「3階建て住居群」 

 昭和6年(1931)千曲川に架かる中津橋が鋼橋に架け替えられた際
旧国道が以前より高い場所を通過することとなり,既存の2階建てを増築して3階・4階建てとして国道からの出入りを可能としたために,かくも偉容?な建物が出現した。

千曲川に架かる舟橋
舟つなぎ石
 
 「河原宿」をまっすぐ下ると千曲川に出る。
 千曲川はいまでは想像できないほどの暴れ川で江戸時代から明治にかけて何度も洪水に見舞われて,橋を架けては流されを繰り返したといわれている。
 
 千曲川は秩父山地の甲武信岳に発し佐久平を貫流し犀川と合流し信濃川となり日本海に注ぐ全長367kmの大河である。

 明治6年(1873)9艘の舟を繋いだ舟橋(左)を架けた。その台船を繋ぎ止めていた「舟つなぎ石」(右)上部に綱を通す穴がある。
 渡川の確保は,塩名田宿の主要な任務で,渡しの方法は徒歩(かち)渡し・舟渡し・橋と三様であったが,橋渡しには種々工夫がなされ,投げ渡し橋平橋などの方法がとられたが,度々橋台が流されるため,両岸から梁木をせり出させその上に架橋する刎ね橋も架けられたという。
大日如来
五郎兵衛用水の水源地に
設置された「水割場石」
 
 中津橋を渡ると御馬寄(みまよせ)地区
ダラダラ坂を上り,少し先で右手の細い道をたどり,再び元の広い道に合流する。
 
 街道右手の少し高くなった場所に白い頭巾と前掛けをした「大日如来」,里人のやさしさを感じる。横に「芭蕉句碑」(涼しさや直ぐに野松の枝の形)あり。背景に浅間山,今日は頂上に雲がかかり残念!

 周囲は田植えが終わったばかりの水田が広がるこの辺りは江戸時代初期寛永年間に新田開発された五郎兵衛用水路で潤されている「五郎兵衛新田」である。明治11年から17年にかけて水争いが頻発し,分水の割合が決められ,五郎兵衛用水へは全量の1割とされ右写真のごとき幅の水量調節口が設置された(望月歴史民俗資料館前に展示されている)。

 少し先に「御馬寄一里塚跡」。碑石が建つのみ,江戸より44里。

 <浅科支所前>交差点を過ぎて,緩いくだり坂を進むと右手奥に「八幡山常泉寺」,迎えに来たバスに乗り込み国道142号沿いにある佐久市浅科上原「道の駅ほっとぱーく浅科」で昼食。

(12:45)  街道に戻り「八幡神社」「高良社」に寄り午後の歩きスタート。この辺りから八幡宿となる。
八幡宿 やわたしゅく
 塩名田,望月の間が悪路であった為,また千曲川の西岸にあたり,対岸の塩名田宿との距離は1里もないが,川止めになったときの待機地として北の御牧原南麓の村々を合併し街道筋に移転させ造られた。
 当初は荒(新)町と称したが,上州の新町との混同を避けるため八幡宿とした。また千曲川沿いの米の集散地としての役割も果たした。
 
 皇女和宮はここで宿泊した。町並みは7町25間。江戸から数えて二十四番目の宿場である。
 現在の長野県佐久市八幡。江戸時代初期の慶長年間に整備された宿である。

 人口:719人(男:372人 女:347人),家数:143軒,旅籠:3軒,本陣:1,脇本陣:4
高良社
八幡神社随身門
 
 「八幡神社」は,八幡宿の入り口にある。貞観8年(859)御牧の管理をしていた滋野貞秀の創建と言われている。平安時代以降,武士の崇高の厚かった神社である。

「随身門」(右)は,天保14年(1843)の建立,楼門高く懸かっている額は,明治時代に奉納されたもので「止戈為武」(武の本義は人と人の争いを止め平和と文化に貢献することにある)と横書きされている。
 境内には,朝鮮からの渡来人(周辺の牧畜指導をしていた)が建てた(室町時代延徳3年(1491)建立)と云われている「高良社」(国重文 写真左)の他に本殿・拝殿があり額殿には安永9年(1780)に奉納された県下最古といわれる算額がある。
八幡宿本陣門

「本陣・脇本陣跡」

<八幡中町バス停>の手前右手に文化元年建築の面影が残る「本陣門」が残されている(写真左,小松勇夫という表札が掲げられている)。本陣は代々小松氏が勤めた。建坪120坪,門構え・玄関付き。皇女和宮はここで宿泊した。小松本陣には,この際の貴重な資料が所蔵されているという。
 本陣の向かい側には,「大坂屋・依田脇本陣」があったという。八幡宿にはこのほかの遺構は残されていない。

 <八幡入口>交差点(八幡宿はここまで)で右手の道を進みいったん県道から離れる。馬頭観音像を過ぎすぐにまた県道に合流,さらに左手から国道142号が合流する<八幡西>交差点に至る。国道をおよそ600mほど西進すると右手から県道44号が合流する<百沢東>交差点。ここから右斜め前方の旧道に入ると百沢集落
 
百沢集落
祝言道祖神
 
「百沢」は,人も車の通りも少ない静かな集落である。タイムマシーンに乗って江戸時代にスリップしてしまったような錯覚に陥るほど,いままで歩いて来た中山道でも一番の街道らしさを感じる家並みである。
 集落のはずれ,火の見櫓の脇に「祝言道祖神」(右)がひっそりと佇む。安曇地方で発生した道祖神で,宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像である。周辺には伊那高遠の石工による秀作が多いという。

中山道牧布施道標
瓜生坂頂上付近の一里塚碑
 
 百沢を出ると,旧中山道は”<布施温泉入口>交差点で国道142号を横断して,県道150号を道なりに進む。300mほどで「中山道牧布施道標」右中山道と刻まれている。写真左))を右折して山道を登る。

 すぐに舗装道に出ると,標識は藪方向を矢印で指してはいるが,道は藪の中に消えている。くだんの舗装道路を右に進み国道142号を横断する
「歴史の道中山道」を行く。(本来の中山道は県道152号の”望月トンネル”建設により断ち切られてしまって,ウォーキング用のバイパスが造られたらしい)。とにもかくにもこの”バイパス”を進み左にそして右へと大きくカーブを切ると左手に「一里塚碑(瓜生坂一里塚)」(写真右 江戸より45里))がある。先刻消えた中仙道はここら辺りに通じていたという。
百万遍念仏塔
瓜生坂下長坂の石仏群
 
 直ぐ先が
「瓜生坂」の頂部,切り通しは古い石垣が積まれている静かな佇まい。

 下りに懸かって直ぐ左手道脇に「中山道瓜生坂碑」「百万遍念仏塔」(左)がある。前方下に
望月の町並みが見える。

 ここから中山道は左の急な細道を下る。藪草が生い茂ってはいるがそれほど難儀することもなくうねうねと下り再び舗装道路に出てこれを横断し,さらに石畳の細道を下ると沢山の「石仏群」が鎮座する場所に出る。
ここから望月である,街道は直ぐ先で
「鹿曲(かくま)川」に突き当たる。

 ここが「長坂分岐」である。
 望月宿はもともと瓜生坂を下った鹿曲川右岸沿いの望月新町にあったが,寛保2年(1742)の大洪水で新町が宿ごと流されてしまい,その後中山道は鹿曲川を長坂橋で渡り,枡形(宿場は,幕府により防塞施設としても造られていて,敵の侵入を阻むために道を直角に折り曲げた箇所を造ることがある。これを「枡形」という。)を通って東町へ上り右折して望月本町へとつながる事になった。初期中山道と変更後の中山道の分岐した場所である。
 
 道路工事中の”枡形”を通って望月宿に入る。白壁の映える旧家が立ち並ぶ・・・・・,現在も営業する旅館「山城屋」を過ぎ,本陣跡地にある「望月歴史民俗資料館」を見学して本日のウォーキングを終了。

 歴史民俗資料館は,望月宿本陣跡にある。縄文時代から室町時代までの多くの遺跡から発掘された出土遺物,望月の駒の歴史・望月宿の往時の隆盛を物語る宿場資料・古文書・絵図などが一堂に展示されている。
 
 八幡宿を歩いている頃から雨に見舞われたが,合羽を纏うほどのことも無く,瓜生坂の上り下りを無事こなす事が出来た。ところが「歴史民俗資料館」を出た時には,雨は土砂降り状態,まったくのラッキーと云うしかない。

 望月発
(15:00)
 予定より1時間半近くも早く,
(18:10)新宿帰着。
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