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中山道69次を歩く第19回)望月宿~和田宿② 009年6月9~10日
(歩程 36,000歩 約21.5km)

 『二日目』

 (07:40)ホテル発。
県道40号(諏訪白樺湖小諸線)経由で笠取峠着。
峠の手前の車の待避所になっている場所にプラスティックの空き弁当やポリ瓶など捨てられたごみが散乱しているのを,皆で拾い集め大きなポリ袋に収容した。
(08:30)歩き始める。

峠の茶屋絵図
松尾神社
 
 「笠取峠」
は標高876m,立科町と長和町(長門町と和田町が合併)の境界である。往時には峠の茶屋があったというが国道工事で破壊され山の斜面に平坦部が残るのみ(旧中山道は現道より10m程高い位置にあったという)。
 峠を越した道路右際の説明板に「笠取峠立場絵図」(左)が描かれていた。

 街道は,峠から標高差200m余りの「長久保宿」へ向かっていっきに下る。
 国道からウグイスの囀る新緑の林の中の九十九折の山道へ。5分ほどで再び国道と出会う,ここから先は旧中山道は消えてしまっている。この辺りを通っていたという道筋に沿って畑の中の小径を下る。舗装道路に出た所に一軒の民家があり,老爺が佇んでいた。尋ねると中山道はあそこからこっち自分の家の前を通っていたと説明してくれた,御歳98歳だという。矍鑠たるものだ!!

 山道を下ってすぐ平地に出たところが,


「松尾神社」

 本殿は京都市右京区松尾町の官弊大社松尾神社。
酒造守護の神様として往古より酒造家の尊信を集めているそうだ。正面に拝殿,奥に本殿,脇に山の神社がある。諏訪の宮大工三代立川和四郎富重の建築で,万延元年(1860)に再々建されたもの。欄間には龍がまきおこす波に亀が泳ぎ鶴が舞い遊ぶ姿や貫の木鼻には象の鼻など見事な彫刻があり長和町文化財に指定されている。
 以前は長久保宿にあったが昭和33年現在地に移転された。

 (9:10)境内を出て正面の鳥居をくぐった先で旧国道と合流し道は,真っ直ぐに長久保宿へ入っていく。

 長久保宿 ながくぼしゅく
 江戸から47里24町14間,和田宿へ2里,宿内町並み7町52間。県内の中山道の宿場の中でも規模が大きい方で旅籠の数も塩尻宿に次いで2番目であった。

 慶長8年(1603),2kmほど西北の古町の次・三男を移住させてつくられた。和田とともに天領(幕府直轄地)であった。
当初は依田川沿いの下河原にあったが寛永8年(1631)の洪水により現在の地に移された。本陣・脇本陣のある”竪町”とその後の発展とともに形成された”横町”からなる珍しいL字型の宿場である。1859年「長窪」から「長久保」に宿名を変更。

 人口:721人(男:341 女:380) 家数:187軒 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:43軒。
 旅籠が多いのは西に笠取峠,東に和田峠を控えるとともに大門道(武田信玄の信濃攻略の戦略路),北国脇街道往還(善光寺道)の分岐点であったことによる。

 戦国時代,長久保は武田信玄の北信濃進出の拠点となったところで,周辺一帯には幾多の戦いの歴史が秘められている。

 明治になって,長久保遊郭が開業し「東の塩名田 西の長久保」と今日でも古老の語り草となるほどしばらくは賑わいを見せたが,明治21年(1888)直江津~軽井沢間の鉄道開通,明治26年(1893)信越線全線開通,更に中央線・篠ノ井線が開通し,人や物資の輸送が鉄道中心となり宿としての機能を失い旅籠は客部屋を改造し養蚕に転換するなど農村へと姿を変えて現在に至る。

明治初期の長久保宿
石合本陣
 
 「竪町」
両側の民家はまったく新しい建物で昔の名残は無い。軒先には,「〇〇屋」「〇×屋」「△△×」などと真新しい看板が掲げられているが,家から出てきたお母さんに「昔の屋号ですか?」と尋ねたら「いやいや町から半強制的に掲げさせられているんですよ」と云う。観光目的のようだ。

 やがて左手に一福処「濱屋」,明治初期に旅籠として建てられたが中山道の交通量が減り開業に至らず,長年住宅として使われてきたが現在は長久保宿を訪れる人々の休み処としてまた宿歴史資料館として公開されている。ここで宿の成り立ちなどを紹介する常設展示を見学,お茶のサービスを受け,トイレ休憩。
 
「本陣・石合家」
 
 本陣は石合家が問屋・名主を兼ねて勤めていた。
寛永頃(1624)の建築と推定され,中山道本陣中最古のものとされ貴重。建坪226坪,門構え,玄関付き。御殿部分は書院つくりの上段の間・二の間・三の間・入側などと門が現存する。屋根の鬼瓦のは六文銭の家紋が焼き入れられている。上段の間には,泊まった大名や公家の名と日付を書いた関札(宿札)が並ぶ。
 敷地内には問屋場・高札場・代官詰所も併置され,御入門ほか幾つかの門,番所2ヶ所,湯殿4ヶ所,雪隠7ヶ所,土蔵,馬屋があった。現在,本陣は公開されていない,石合知子という表札がかかっている。また,真田信繁(幸村)の長女すえの嫁ぎ先として知られ,大阪夏の陣を前にして幸村から当時の当主石合重蔵に当てた手紙が残されているという。
石合家は真田家の家老も勤めた。

 L字形枡形の手前右手に

「釜鳴(かまなり)屋(竹内家)」

 寛永時代より昭和初期まで酒造業を営む。
江戸時代前期元禄(1688頃)の建築と推定され,県内でもっとも古い町家であると云われている。間口9間半,奥行10間半,建坪約100坪。「通り庭」(土間)が幅3間半で奥まで通じている。屋根には「本卯達」,2階軒下部分には「軒卯達」が上る。内部の天井吹抜けは太い柱や豪快な梁組みが露出し迫力ある大空間をつくっているという。


 
枡形際にある道標
「左ぜんこうじ」と刻まれてる
旅籠辰野屋(竹重家)
竪町と横町の曲がり角L枡形の右角に「左ぜんこうじ」という道標あり。左に折れて横町を進む。
当時,旅籠屋だった出格子の民家が数件ある。


「辰野屋(竹重家)」

 横町のほぼ中央左手,長安寺参道角に位置する大きな旅籠。
 出桁造りで総2階建ての母屋は江戸時代末頃の建築と推定され,ダイナミックな建築構成と厳選された材料や精緻な造りが宿場全体の繁栄振りを偲ばせてくれる。
 *「長安寺」 大般若経600巻を納める,江戸時代末期建立の土蔵造り輪蔵やマニ車がある。



 宿の京方入り口である「京方枡形」を右に折れ,突き当りを左折すぐに先ほど右折した道に出て更に<長久保横町>交差点で,国道142号に入る。

 長久保を抜けると
依田川沿いの長くゆるい上り道となる,和田宿までおよそ8km,長久保宿の標高は680m,和田宿が850m,およそ170mの標高差ではあるが,ダラダラ坂はかえってしんどく感じる。

  600m程先で,右後方から上田市方面からの国道152号と合し,両側が水田の国道脇をおよそ400mほど行った右手脇に「四泊一里塚」日本橋から48番目,碑が立つのみ。昭和35年(1960)道路改修以前は榎の大木が植えられていたと云う

 いったん畑の中の道を進みすぐ国道に戻る。
 10分足らずで国道142号(和田峠を越えて諏訪へ,武田軍団が甲斐から進んできた
大門街道である)と152号(白樺湖を通って茅野へ)の分岐点<大和橋>交差点に至る。ここは,依田川と大門川の合流点でもある。
 信号を渡りいったん142号を150mほど進みすぐ右折し,大門川を
”落合橋”で渡る。道脇に明和年間(1764~1772)の道祖神あり,大きな松が倒され切株のみ残っている。依田川を"和田橋”で渡ってって再び国道142号にでる(10:30)
アポロガソリンスタンドでトイレを借り小休憩。依田川の左岸に小さな水力発電所あり。

 ガソリンスタンドの直ぐ先の
<青原信号>で国道から分岐しこれと並行する旧中山道に進む。旧道入り口に「歴史の道」道標がある。ここから和田宿までおよそ4.5kmの単調な緩い登り坂が続く。

「天王夜燈」(10:50)「三千僧接待碑」「若宮八幡」「芹沢一里塚」に立ち寄りながら蒸し暑い中をひたすら歩を進める。
 
三千僧接待碑
和田城主の墓


「三千僧接待碑」

 和田宿の「信定寺別院慈眼寺」境内に建立されていたものが寛政7年(1795)この地に移された。諸国遍歴の僧侶への摂待碑で,当初千人の僧侶への供養接待を発願して見事結願した後,2千を増して3千の僧侶への供養摂待を発願したと碑文にある。
”千”の字の上に”三”が書き加えられた跡が歴然としている。

「若宮八幡社本殿」「和田城主大井信定父子の墓」

 若宮八幡の祭神は仁徳天皇で,本殿は一間流造,間口1.5m,奥行1.7m,江戸時代中期享保6年(1721)の建立とある。
 境内に鎌倉時代からこの辺りを支配したてきた大井信定父子の墓がある。天文23年(1555)和田城大井信定と武田信玄が矢ケ崎で合戦,信定父子をはじめ一族郎党ことごとく戦死してその父子の首級がここに埋葬された。元禄6年(1693)その回向の為信定寺第6世来安察伝和尚が,
この墓碑を建立したという。

 若宮八幡の直ぐ先に「芹沢一里塚碑」
日本橋から49番目。1960年の道路改修で取り壊されてしまったという。案内板が,国道側を向いて建っているのみ。

 一里塚から20分ほどでやや急坂を登り切ったところに
「和田宿入口」という標識がある。本来の宿の入り口はいま少し先の「八幡社」辺りだというが,すでに和田宿到着と云ってもよい(11:40)
右手に塔のある木造校舎の
「和田小学校」,続いて「和田中学校」(小県郡和田村立と長和町立という二つの表記が並んでいる)。右に「八幡神社」,ここから和田宿である。



 和田宿 わだしゅく
 江戸へ49里24町14間,下諏訪宿へ5里18町,宿内家並み7町58間。

 和田宿は上和田とも呼ばれ,今も長和町和田地区の中心地で,脇本陣や庄屋宅など古い家が多く残っている。

 風光明媚な宿で,峠越えの準備の為の宿,難所「和田峠」を控え足を留める旅人が多く大きな宿場として栄えた。また,木曾・伊那地方からの木材を江戸へ送るための「木問屋」が置かれていた。 慶長7年(1602),中山道開設と同時に宿場が設置され文政年間には本陣・脇本陣・問屋などを構え宿の数180軒余を数えた。文久元年(1861)3月の大火で消失するが,同年の皇女和宮降嫁の一行を迎える為に再興を果たす。

 宿は当初,鍛冶足(かじあし)・久保などの住民を移して上町を形成し従来からあった中町・下町と合わせて宿場を構成した。手狭となったため,1713年に追川橋を越えて橋場新田が作られ下町・中町・上町・橋場新田からなる四町となった。
1702年から天領となる。

 信越本線の開通(1888年)とともに交通が激減し宿場は衰退した。

 人口522人(男:272人 女:250人) 家数:126軒 本陣:1
脇本陣:2  旅籠:28
 
信定寺
翠川脇本陣
 
 八幡神社で小休憩後,和田宿の見学を始める(12:00)
まずは,
「菩薩寺」
 
安和元年(968),空也上人が奥州に向かう途中この地で説法をし,小堂宇を建立したのが始まりとされる武田信玄との兵火で焼失し江戸時代に再建された。立川流の彫刻が素晴らしい。

 街道筋に戻り「追川」を渡り宿場の中心へ。ガイドをしてくれたIさんの都合でここからは訪問場所があっちへいったりこっちへ行ったり慌しい見学となる。旅籠「かわち屋」をやり過ごし少し先を右折して

 「信定寺」

 和田城主大井信定(のぶさだ)ゆかりの寺で信定の供養塔がある。戦国時代,武田信玄が信濃を攻め,大井信定は討ち死にしその菩提を弔う為天文22年(1553)に建立された。寺の裏山は和田城址である。

 「翠川脇本陣」

 本陣に次ぐ格式をそなえ,本陣差し合いの際には一方の大名が休泊した。和田宿には翠川氏羽田氏の2軒の脇本陣があった。文久3年3月の大火で和田宿の109戸が全焼した時,脇本陣も類焼した。同年11月皇女和宮降嫁の際,昼夜兼行で宿内復旧工事がなされ,この時脇本陣も再建された。
 現在の建物は翠川家の御殿部分のみであるが,上段の間,二の間,脇上段,次上段の間ほか風呂場,厠等江戸末期の姿をよく伝える上田・小諸地方における脇本陣唯一の遺構である。

 「羽田野」(明和2年(1765)以降明治維新まで名主を勤めた羽田家の役宅,かつて真田氏の給人であったことを示す”六文銭”が門・鬼瓦に彫り込まれている)。

 「大黒屋」(大火の後,建てられた出桁造りの旅籠),「問屋」を眺めながら追川橋方向へ戻る。
途中で白壁の旧宅から通りに出てきたお母さんが,「冬季の雪の厳しさ・収入を得るのは役場か農協しかないこと・古い家を維持していくのが大変なこと・出来ればもっと生活しやすい地域に移りたいこと」 などを話してくれた。
 
歴史の道資料館 かわち屋
かわち屋2階格子窓から
街道を眺める
 
 追川橋西詰際にあるのが

「かわち屋」

 文久元年(1861)3月10日の大火で焼失したがその年の11月本陣・脇本陣と同じく再建された建物。和田宿の旅籠では規模が大きく,出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的遺構で,江戸末期の建築様式をよく伝えていると云う。昭和56年,歴史の道整備事業の一環として総工費3000万円で延床面積422㎡を復元し「歴史の道資料館」となった。

 裏手に「黒曜石石器資料館」がある。
希望者だけ各自見学して下さいと云って,本体はあわただしく次の見学場所
「本陣」へ行ってしまった。
わたしは,ひとり残ってじっくり「黒曜石」の展示を見る。和田峠直下の
男女倉(おめくら)遺跡群から出土した石槍やナイフなど黒曜石器や,各地への伝播の様子などがパネル等で展示されている。

 最後の見学場所
「本陣跡」へ向かう。着いた時には,既にボランティアガイドの説明が始まっていた。
和田宿本陣
 
 「和田宿本陣」

 文久元年(1861)に和田城主大井信定の娘婿長井氏により建設された。
この年3月に宿場の大半が火災で焼失し本陣も灰燼に帰したが,11月の皇女和宮の宿の宿泊に当てられるため幕府からの拝借金を得て宿場の復興が急ピッチで行われその中心的建物として再建された。

 本陣建物は大名などの宿泊に当てられる「座敷棟」と本陣所有者が生活する「主屋」に分かれているが,この建物は「主屋」に当たると云う。
 建物の規模は間口12間,奥行9間の切妻,板葺の建物。
和宮の宿泊に使用された「座敷棟」と入り口にあった「御入門」は,明治年間に丸子町の龍願寺と向陽院にそれぞれ移築された。

 明治維新まで本陣長井家が居住していた。その後,戸長役場,和田村役場となり昭和59年4月まで使用されていた。役場の移転に伴って解体の運命にあったが,和田宿の重要な遺構としての価値が認められ昭和61年より解体修理が行われ5年の歳月をもって往時の姿に復元されている。

 (15:10) 国道142号に出て道の駅風「和田ステーション」で遅い昼食。

 
(15:50) 和田宿発,佐久インターから上信越自動車で帰京

 (17:50) 新宿着

 往時の宿場の雰囲気がよく残っている
「茂田井間の宿」,「津金寺」,「和田宿」などは,紅葉の季節にカメラを持って再度ゆっくりと訪れて見たい場所である。
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