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旧中山道69次を歩く(第3回)巣鴨~戸田橋  008年4月10日 
(歩程 19,000歩 約11.5km)

午前10時JR巣鴨駅集合。
山手線信号故障で電車が乱れたために,遅れた人を待って10時30分出発。総勢15人。

 徳川慶喜邸案内板から山手線の橋を渡った左手に染井吉野の碑がある。染井の名をつけた桜をソメイヨシノというとあるが,実際の染井の里はここから数百mも駒込寄りであり,いささかまやかしっぽい碑文ではある。
 
 その先国道17号線から左手斜めに入る旧中山道(地蔵通り商店街)の手前角にあるのが
 『真性寺』
 
起立年代不詳。現在は真言宗豊山派の寺。十遍舎一九の「江戸名所図会」にも描かれている名刹で巣鴨では東福寺・西福寺(我家の菩提寺である)と並んで最も古い寺の一つで,江戸六地蔵の一つである。
江戸六地蔵とは,江戸の六つの街道口に天下安全を祈願して安置された地蔵尊で,品川寺(東海道口)・太宗寺(甲州街道中口)・東禅寺(奥州道中口)・霊巌寺(水戸街道口)・永代寺(千葉街道口,現在は消滅)にある。
 江戸時代歴代将軍がお成りになったという記録もある。境内に「大震災遭難者供養塔」「芭蕉の句碑」(「白露もこぼれぬ萩のうねりかな」1793年(寛政5)芭蕉の百年忌に建立)あり。
巣鴨のお地蔵さんとしては,とげぬき地蔵の高岩寺が一般に知られているが,本来はこの真性寺が本家本元である。
 
  地蔵通り商店街は,毎月4の日は屋台が建ち並び別名「おばあちゃんの原宿」とも言われ,沢山のシニア達で溢れるのであるが,今日は雨天でもあり人影はまばら。近ごろ,人気の赤いパンツを売る店も,客は少ない。

 地蔵通りを進むとすぐ右手に
とげぬき地蔵として有名な

 『高岩寺』
 がある。
 曹洞宗のお寺(開創1596年ごろ(慶長元年))。神田明神下→下谷屏風坂下(現岩倉高校付近)から1891年(明治24)に巣鴨に移ってきた。

 正徳年間(1711~1716)江戸長州藩邸の下女が誤って折針を呑み込んでしまったが,本尊(とげぬき地蔵)の尊影一枚を水で飲み込んだところ,無事に折針を吐き出す事ができたといういわれから,本尊の延命地蔵の姿を描いたお札を飲むか患部に貼ると棘が抜けるように病が治ると,多くの人々の信仰を集めている。病気だけでなく人の罪科(とが)も抜いてくれるという。

 本殿の前の香炉で,それぞれの具合の悪い箇所(足とか,手とか腰などただし頭にかけても効果はないとか?)にお線香の煙をかけると,治るという言い伝え(各地のお寺にある)にもとずき私も足に煙をかける。

 本殿左手に「洗い観音」がある。以前は,参拝者の具合の良くないところと同じ場所をタワシでごしごし擦(こす)っていたが,今はタワシではなく一金50円也で売っている「晒(さら)し」に変わったという。

  『巣鴨庚申塚』
広重「江戸名所図絵」にも描かれ,茶店に人が休み,人足の奪い合いをしている旅人もいて賑やかである。
ここには,団子などを売る茶店があり藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で花の頃に小林一茶も訪れて
藤棚に寝て見てもまたお江戸かな」の句がある。
  中山道と王子道(春は飛鳥山のさくら見物,秋は「岩屋弁才天」の紅葉寺のもみじ狩の道で「花の道」と呼ばれた。現折戸通り)の交差点手前右角にひっそりと佇んでいる。私はここをよく通るが,こんなところにあるとはついぞ知らなかった。
 巣鴨庚申塚は,板橋宿のひとつ手前の立場(宿と宿の中間地での休憩地)として上り下りの旅人の往来が激しく,休息処として賑わい簡単な茶店も在り人足や馬の世話もした。近くに都電荒川線が通り,「庚申塚」という停留所があり,地名にまでなった例は珍しいそうだ。 庚申塔は,各所にあるが庚申「塚」は外にあまり聞かない,ここにあった庚申塔が,江戸市中4分の3を焼き尽くしたと言う明暦の大火(1657)のあと,ここに置かれた復興用の材木が塔の上に倒れてきたために壊れてしまい,塚を築いて埋めたからだと言う。当初の庚申塔は,文亀二年(1502)の建立で高さ8尺あったという,現在の庚申塔には,明暦3年(1657)の文字が見える。
 中国の道教では,人間の身体のなかに三尸(さんし)という虫がいて,60日ごとに回ってくる庚申の夜に人間を早死させようと,人間が眠っている隙に抜け出して天帝に悪口をいう。 天帝はそれを聞いて人の寿命を決めるのでこの日,身を慎んで徹夜すれば三尸は上天することができず, したがって長生きできるという説がある。中国の人々の間では,広くこの教えが信じられ実行されていた 。これが奈良時代に伝来し,以後さまざまな民間信仰と結びついて広まっていったのが,日本の庚申信仰だという。
 
 『延命地蔵』 
 都電荒川線の踏切を越えて,旧中山道から左手横道に入ったところにある。元々は中山道沿いにあったが,荒川線の開業時ここの場所にまとめられたという。
街道での横死者や辻斬りの犠牲者や街道で倒れた馬の供養の為に文政年間(1818~30)に建立されたと伝えられている。ほかに徳本名の墓碑,馬頭観音などがある。

 『千川上水沈殿池跡』 
 中山道と明治通りの交差点を池袋方向に少し行った左手に千川上水公園がある。この公園は豊島区でもっとも古い公園で地下には,千川上水の水流を調節するために設けられた分水堰や,六義園に水路を引くために作られた沈殿池が残っている。北区王子の抄紙会社(現王子製紙)や同西ヶ原の大蔵省紙幣寮抄紙局(現国立印刷局王子工場)の工業用水としても分水されていたという。 千川上水は1696年(元禄9)徳川綱吉により開削が命じられ,東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近にある境橋で玉川上水から分水し,武蔵野台地をほぼ東西に流れここ,豊島区巣鴨まで達した後,「小石川御殿」(綱吉の別荘)・「湯島聖堂」(幕府の学問所)・「寛永寺」・「浅草寺」)への給水,さらに本郷・湯島・外神田・下谷・浅草などに飲料水として供給されたという。

 中山道と明治通りの交差点「掘割」という地名は,千川上水の名残りであったということを初めて知る。
 
 『種苗街道』
 
営業しているのかどうか?
東京種苗㈱の格式を感じる店構え。
 明治通りから先の中山道は北区に入り,現在は滝野川銀座商店街となっている。
左手榎本邸・岩田邸など古い家があり,江戸時代の情緒ある町並みである。ここ滝野川三軒家 地区(北区滝野川6丁目)付近の中山道の両側約700メートル間には,江戸時代より種苗屋を営む店が多く在り”種街道”と呼ばれた。有名な品種としては,滝野川ごぼう・滝野川にんじん・練馬だいこん等がある。
 現在も瀧野川種苗㈱・㈱日本農林社・東京種苗㈱が営業をしておりその名残をわずかに留めている。
なお,三軒家という地名は,枡屋孫八・越部半衛門・榎本重左衛門の三軒が種子販売店を始めたことから出たという。

 また,家庭の主婦なら誰でもお馴染みの亀の子束子(たわし)西尾商店の瀟洒な建物も目を引く存在であった。

 
中山道が埼京線を踏み切りで越える手前,板橋区に入る地点右手角の「あずまや」が平尾一里塚跡(板橋1-54 日本橋から2里)だというが,今はその痕跡すら無い。

 『近藤勇供養塔』
 一里塚があったと言う四つ角を左に折れた埼京線板橋駅前に近藤勇供養塔がある。
 千葉県流山で捕えられた近藤勇は,慶応4年(1868)4月25日,平尾(現板橋区板橋)の板橋刑場で官軍により処刑され,その遺体は滝野川4-18寿徳寺に埋葬されたという。この供養塔は,隊士の一人であり戦術方針の違いから一度は袂を分かった永倉(本名長倉)新八が発起人となり明治9年(1876)5月に造立された。近藤勇のほか,数多くの新撰組ゆかりの者達が祀られている。

 板橋駅前の食堂で昼食を摂った後,国道17号を斜めに横切って,中山道最初の宿「板橋宿」に入る。
 国道17号を渡る手前左手に,「荘病院」という産婦人科専門の病院があり,わたしはちょっと”どきっ!”
いまから35年も前,わが妻がわが長男を産んだ病院である。その頃私は奄美大島へ出張中で,1ヶ月も早くこの世に現れた息子の出生には当然のことながらも立ち会えず,妻からは「生まれたばかりの赤ちゃんを脇に抱えてタクシーを拾って家に帰った!」と何回も言われる,あの病院は此処だったのかとしばし複雑な感情を抱きつつ国道17号の横断歩道を渡る
 
 板橋宿に入る前にちょっと寄り道。


 『東光寺』 

 浄土宗。創建年次は不明なれど1491年(延徳3)に入寂した天誉和尚が開山したと伝えられている。当初は船山(現板橋区板橋3-42)辺りにあったが,1679年加賀藩下屋敷の拡張工事により現在地に移った。
 境内には1662年(寛文2)建立の庚申塔(板橋区有形文化財)や中山道と川越街道の追分にあった石造地蔵菩薩坐像(通称追分地蔵 板橋区有形文化財),明治になって子孫が供養の為に建立した,関が原の戦いで敗れ八丈島に流され84歳で没した
浮田秀家の墓がある。浮田秀家が赦免され,子孫の帰還が許されたのがおよそ270年後の明治3年のこと。子孫は秀家の妻が前田利家の娘だった縁で板橋にあった前田家を頼って来たと言う。

 『加賀藩下屋敷跡地』
 1679年(延宝7)前田綱紀が幕府から板橋区平尾に土地を与えられたのに始まり,その後拡張して総面積21万8千坪という広大な屋敷地となった。都立北園高校正門辺りが加賀藩下屋敷の表門だったという。加賀1丁目~2丁目,板橋4丁目の一部。

  現在「りそな銀行板橋支店」がある辺りで,川越街道が左手に分かれる。平尾追分である。
 ここからしばらくは板橋宿である。現在は「仲宿商店街」として活気を呈している。


 『板橋宿』
 当時(天保十四年)の人口2448人(男:1053人 女:1395人),本陣:1,脇本陣:2,旅籠屋:54,家数:573軒
 本陣:1(飯田氏) 脇本陣:3(飯田氏・板橋氏・豊田氏) 旅籠:54 日本橋から2里18町(約9.8km)
板橋宿は中山道最初の宿場。道幅5間 全長1700mの細長い町並みで,江戸方面から平尾(一里塚~現国道17号交差点間)・中宿( ~板橋)・上宿(板橋を渡って清水町付近まで)の三つに分かれていた。
 江戸への入り口,また川越街道・北国街道・三国街道へも通じていて中山道第一の宿場であった。長旅の埃を流し,身なりを整えて江戸入りする人,見送られて旅立つ人や行きかう人馬で賑わったことであろう。
 江戸四宿(品川・新宿・板橋・千住)のひとつとして,品川宿同様に「飯盛り女」の多い宿としてまた特別に「宿場女郎」も許可されたので,中山道の宿場としてのほか江戸町民の歓楽街としても賑わったという。
 宿場の在った旧中山道は今も往時と同じ道幅(7.5m)で約500店が軒を連ねる商店街となっていて平日夕方など多くの買い物客で賑わっている。

 板橋宿では,脇本陣・本陣跡・板橋など宿を構成した施設跡やゆかりの寺社を巡る。

 『平尾脇本陣跡』
 板橋宿平尾の名主・豊田家の屋敷は,いまはマンションが建っていて案内板があるだけ。豊田家は代々市右衛門を世襲し,脇本陣も兼ねていた。近藤勇が処刑までの間此処に監禁されたり,ペルシャ産のつがいのラクダが逗留したこともあった。
 豊田家に伝わる古文書や絵画・茶道具などは,豊田家が板橋宿の中で文化的にも中心であったことをうかがわせる。


 『観明寺』
観明寺の赤門
   真言宗豊山派。1338年(暦応元年)創建と伝えられている。本尊は正観音菩薩。入り口に1661年(寛文元年)の庚申塔がある。境内の豊川出世稲荷や赤門は,加賀藩下屋敷にあったもの。 

 『偏照寺』
   宿場筋から細い横道で,かなり引っ込んだ場所にある。普通の民家風なのでお寺とは気がつかない建物である。
江戸時代は大日山と号し,板橋宿唯一の天台宗寺院であったが明治4年(1871)廃寺となり明治14年(1881)旭不動冥途と称して成田山新栄講の道場となった。昭和22年(1947)真言宗寺院として復活し,現在は成田山新勝寺末寺。

 当時は馬つなぎ場であり,幕府公用の伝馬に使う囲馬,公文書伝達の立馬,普通継立馬などが繋がれていた。寛政10年(1798)建立の馬頭観音がある。

 『飯田本陣跡』
  当時は街道に面した門をくぐると前庭,その奥に玄関付き建坪97坪の屋敷。代々飯田新左衛門が勤めた。新左衛門は本家で仲宿名主飯田宇兵衛家より分家した家柄で問屋役も兼ねた。1890年失火で全焼。
 本陣の意味は,大名の旅は戦と同じで大将のいる本営を本陣と呼んだ。大名や貴人の宿舎で門・玄関・上段の間を持ち格式が高い。本陣を補う制度として脇本陣があるがいずれも大名・貴人・幕府の命を授かった人達には無料で奉仕された。地元の相当な資産家でなければ続けることが出来なかったであろう。
この向かいが,水村玄洞宅

 蘭学者で医師の高野長英が安政の大獄で伝馬町牢屋敷に投獄されるが,火事による解放に乗じ脱獄し各地を転々と逃げ歩き,一時ここに匿われたという。
吉村昭が「長英逃亡」(新潮文庫)として小説化している。

『文殊院』
  宿場筋から少し右手に入ったところにある。
真言宗豊山派,幡場山大聖堂と号す。
 江戸初期,本陣飯田家の菩提寺として昔から信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立された。開山は寛永2年(1625)入寂の権大僧都慶恵。
天保6年全焼し,安政以降正住職を置かず赴任する仮住職も短期間で他の大寺へ赴任し出世寺とも呼ばれた。
 本尊は文殊菩薩。山門脇に延命地蔵堂,境内に板橋の二大閻魔を祀る閻魔堂,足腰の守り神として知られる子の権現堂がある。閻魔堂内には,文化年間番場原出土と伝えられる石樺が朝日観音として祀られている。
 墓地には史蹟として有名な宿場時代の「遊女の墓」(人として扱って貰えなかった遊女達の墓があるのは極めて珍しいことだという,板橋宿の人たちの温情が感じられる)がある。本堂には,板橋七福神の毘沙門が奉安されている。

『仲宿脇本陣跡』『問屋場跡』『貫目改所』
 仲宿脇本陣は,建坪109坪。
幕末には本陣として機能していた。文久元年(1861)和宮降嫁,慶応4年(1868)東山道軍の東征,明治元年(1868)の天皇大宮氷川神社行幸の際にも使用された。
飯田宇兵衛が勤めた。

 現橋本屋酒店は,問屋場跡。板橋信濃守の子孫で,上宿の名主と上宿脇本陣(”板橋”を渡った右手にあった)を勤めていた。石神井川改修で遺構は無い。
 隣接して貫目改所
街道往来の荷物の重さを検査した。高札などに定められた荷の重さを制限し,これを旅人に守らせ宿場の人馬の負担軽減を図った。1712年(正徳2)設置。中山道では板橋宿・追分宿・洗馬宿に置かれた。

 『板橋』
 区名にもなった板橋は石神井川にかかる板の橋で,平安時代に既に記載されている。
川は山椒魚も生息していた清流であった。江戸時代は幅3間長さ9間の緩やかな太鼓橋。広重や長谷川雪旦の「江戸名所図会」にも描かれている。現在の橋は昭和47年石神井川河川改修に伴って長さ32m、幅7.5mのコンクリート製となったが,当時の雰囲気を出すよう欄干に木目模様が施してある。橋の袂に「距日本橋二里二十五町三十三間」の標識が立つ。
 下を流れる石神井川は,河川改修でコンクリート護岸の直線水路となっていささか風情が劣るが桜並木が美しい。

 『縁切榎』
 板橋を渡ると本町商店街となる。
およそ300m進むと右手に,1本の榎と赤い幟がはためく小さな祠が経つ。縁切榎である。
江戸時代,榎は根元から榎と槻(つき)が双生していて,エンツキと重箱読みして「エンキリ」と転化した。榎のあった場所が「岩の坂」のために「縁(榎)尽(槻)きる嫌な坂(岩の坂)」と語呂合わせをした。この場所は、江戸初期、本郷の加賀前田家の上屋敷(現東大構内)の南門向かいにあった旗本近藤家の下屋敷があった所と言われている。樹皮を煎じて飲ませると夫婦の仲でも自然に冷えて、「離別に及ぶこと神の如し」と言う。いつの頃か嫁入りや婿取り行列がこの下を通ると不縁になると恐れられ,誰言うと無く「縁切り榎」と呼んで,嫁入り道中の時には菰を巻いたり,別の道を迂回した。

 徳川家に降嫁した五十宮(いそのみや)・楽宮(さざのみや)の行列はここを避けて通り,和宮が降嫁の折には榎を菰で包みその下を通って板橋本陣に入ったという。
 現在の榎は三代目と言われる。

環状7号線をくぐり清水町を抜け約500mで国道17号に合流しこれを北上。
右手にある「氷川神社」「南蔵院」(両者とも元は志村坂下方面にあったのが享保年間(1716~1736)に荒川氾濫の被害を受け高台にある当地に移ってきたと言う)に立ち寄りながら雨脚の強くなった中をひたすら歩く。氷川神社脇には江戸時代から続く
”村田石材店”,南蔵院脇には名主新井家の豪奢な屋敷が目に焼きつく。

 『志村一里塚』
   都営地下鉄三田線「志村坂上」駅手前に,日本橋から3里目の一里塚が国道17号の両側に残されている。1870(天保元年)の「新編武蔵風土記稿」に「中山道往還の左右にあり」と紹介されている。現在3代目の榎が植えられている。日光御成街道北区西ヶ原の一里塚とともに完全な姿で保存されている。

 『清水坂』

国道17号志村坂上交差点の左手,交番とみずほ銀行の間を斜めに入る道を行く。
閑静な住宅地で,国道の車の騒音も聞こえない。このあたりは志村2丁目2番地,清水坂の上の住宅の角に大山道の道標と庚申塔が立っている。左側の道標は1792年(寛政4)の建立で,正面に「是より大山道并ねりま川こえ(川越)道」と彫られている。右の庚申塔は1860年(万延元年)の建立で,左面には「是より富士大山道 練馬江一里,柳沢江四里,府中江七里」とあり道標を兼ねている。

 清水坂は,京へ行く最初の急坂。隠岐殿坂・地蔵坂・清水坂と時代とともに呼び名を変えてきた。街道で唯一富士山を右手に一望できる場所で「右富士」と呼ばれる名所であったという。

 坂の下,都営地下鉄三田線高架下をくぐった辺りには,板橋宿と蕨宿をつなぐ志村合(あい)の宿(志村立場)があった。志村名主の屋敷や立場茶屋があり,戸田の渡しが増水で川留めになったとき控えの場所として利用された(旅籠などの宿泊施設は無い)。
都営地下鉄三田線が開通する昭和30年頃までは,古い民家の軒下には,荒川の洪水に備えて避難用の小船が吊り下げられ,往時の面影を残していたと言う。

 『薬師の泉』
 清水坂を下って右折して,頭上を通る地下鉄三田線の下を潜ると国道に合流。ちょっと戻って国道沿いにある庭園「薬師の泉」に立ち寄り休憩。

 ここは江戸名所図会にも描かれた元曹洞宗大善寺の境内であった。八代将軍吉宗が志村周辺で鷹狩の際に立寄り湧き出す清水を誉めて寺の本尊である薬師如来を「清水薬師」と命名したと伝わる。このあたりは良質の清水があったと当時の江戸の多くの文献にも記述された土地。明治以来忘れられ荒廃していたが1989年(平成元年)板橋区により往時の姿を復元した日本式庭園として整備された。

 
国道に戻り環状八号線との交差点志村3丁目から再び旧中山道を辿り500mほどして再び国道に出て志村坂下~志村橋(新河岸川)~戸田橋手前の舟渡までで本日のウォーキング終了。
志村坂下から舟渡間の旧中山道の道筋は消えてしまっていて特定できないという。この辺りは江戸時代「志村原」と呼ばれる一面の原野で,将軍の鷹狩場に指定されていた。またバス停に「二軒屋」「三軒屋」という地名があったが,往時,いかがわしい業を営んだ小屋が数軒ずつ点在していた事からこの地名が残ったという。

 16時,浮間舟渡駅にて解散。
駅前の書店で本日発売の「日本の百名山 甲斐駒・仙丈岳」を買って赤羽駅経由上中里駅下車。帰宅17時すこし前。
<  相変わらず小用をする暇も十分に与えて呉れない忙しいウォーキングであった。写真を撮ったりメモをしたりしていると常に最後尾を歩くことになる私であるが,遅れてならじと歩幅を伸ばし常に先頭に追い付くという歩きが出来た”幸せ”を噛みしめながらの雨中ウォーキングであった。

 

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