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中山道69次を歩く(第21回)塩尻峠~本山宿① 009年9月12~13日
                          (歩程 41,900歩 約25km

一日目

今回の参加者はなんと7名である。25人乗り小型バスに9人悠々快適な街道歩きが期待できそう。
と思っていたのだが・・・
 中央道甲府ICを過ぎたあたりから雨が降り出し,結局一日中雨にたたられての塩尻峠越えとなった。
参加者7名(男性:2,女性:5)

 (10:20) 諏訪大社下社秋宮前に到着,前回に続き再度参拝してから中山道と甲州街道が合するT字路からスタート。

 
右の角が,「脇本陣」現在は旅館を営む「まるや」,左角が元禄3年(1690)創業の「旅籠桔梗屋」,現在も旅館として営業している。続いて「みなとや」・「やっこ」と現在の旅館が続く。
  
歴史民俗資料館
魁(さきがけ)塚
 桔梗屋から50mほど先に「諏訪町歴史民俗資料館」なる看板を掲げる細かい格子窓の2階家。 明治初期に建てられた宿場の商家を利用したもので,狭い間口,長い奥行,細格子が特徴的である。
下諏訪宿場町や旅人の様子を描いた絵画や当時の風俗・生活を伝える資料があるという。

 入館せず先に進む。200m程先で秋宮門前から真っ直ぐ延びる”大社通り”にぶつかる。

 左角に「高札場跡」,以前は先ほどのスタート地点中山道と甲州街道の合流点付近にあったが,混雑のため現在地に移転されたと云う。

 大社通り(国道142号から国道20号にかわる)をさらに下り,左手にJR下諏訪駅への分岐を過ぎると,国道20号は右にカーブして行く。中山道は真っ直ぐの道。

 すぐ左手に一段高くなった場所に
「魁塚(相良塚)」

 慶応4年正月に江戸城へ向けて京都を出発した官軍(東山道軍)の先鋒を務めた相良総三赤報隊幹部8名が斬首・梟(さらし)首された場所である。明治3年同志によって墓が造られ地元の人々が刑場を魁塚として祀り続けているという。

 相良総三は,幕末の慶応3年(1867),西郷吉之助と結び江戸薩摩藩邸に浪士600人ほどを集め同年大政奉還後,薩摩藩の意を受け江戸市中を撹乱し,幕府に対する挑発行為を行い追われると薩摩藩邸に逃げ込んだ(江戸薩摩藩邸焼打ち事件→鳥羽伏見の戦い→明治維新の契機となる)。 

 慶応4年(1868)東征軍の先鋒隊として租税半減の旗を掲げ諸藩の帰順工作を行いつつ中山道を下り信州に入ったが,赤報隊の名で豪家から金品を強奪したり民家を焼き払う者らがあり,京都の司令部から帰順命令が出るも無視して進軍し,明治元年(1868)下諏訪に到着。
しかし新政府から「贋官軍」との烙印を押され岩倉具視より追討令が下され,具視の子具貞(東征軍総督)に捕えられ処刑された。新政府によって使い捨てにされたとも云える。 後年,関係者の奔走により,相良は昭和3年(1928)正五位を追賜され,全員ではないが名誉回復された。
一人通るのがやっとの 中山道
旧渡辺家住宅
 
 街道に戻り更に進み,諏訪大社春宮に通じる広い道を横断(渡った右角に「春宮の常夜燈」あり),300mほど先でT字路にぶつかり,さてどちらに行ったらよいのか,と思ったら向かい側の家と家の間をぬける人ひとりがやっと通れるほどの横丁道に「中山道」の標識があった。

 せま~い道はすぐに
砥川の堤防上に出て中山道は消滅。
右手少し上流の国道20号
富士見橋を渡る迂回ルートを歩み,その先<西大路口>で左折し消滅した中山道の道筋に戻る。
 ここから先は普通幅の道路である。
200mほど先で水路
(十四瀬川)を木橋で渡る。ここで下諏訪町から岡谷市となる。だらだらしたゆるい上り坂をおよそ600mほど進んで左の横道にちょいと入った所に

「旧渡辺家住宅」(岡谷市長地柴宮3)

 この家は,高島藩(=諏訪藩)に仕えた散居武士(城下ではなく在郷の村々に住んだ武士)の住宅。散居武士は,村の治安や警備面でかなりの効果があったとされ,教育面でも大きく貢献したようである。
 安政年間(1854~1859)の家中分限帳(武士の身分や禄高を記録したもの)によると「諏訪郡方下役外様御徒士18俵2人扶持渡辺斧蔵」とあって,下級藩士であったことが分かっている。 住宅の規模は間口7間半,奥行5間,茅葺,寄棟造りで内部には土間・炉の間がある。
建てられた年代は,18世紀中ごろと推定され,天保12年(1841)から嘉永年間(1848~54)にかけて改築され現状の間取りとなったという。現存する武士の家が全国的に数が少なくなった現在,貴重なものとして”長野県宝”となっている。

 この一家から、渡辺国武渡辺千秋渡辺千冬の三人の大臣が出ている。

 渡辺国武は,大久保利通に重用され伊那県に勤め,兄千秋とともに大蔵省に入りその後,高知県令・福岡県令・大蔵省調査局長・主計局長・大蔵次官を経て明治25年(1892)第二次伊藤内閣の大蔵大臣となった。

 渡辺千秋は,国武の兄で同じく大久保利通に重用されこちらは明治43年(1910)には宮内大臣となった。

 渡辺千冬は,千秋の三男で国武の養子,東京帝国大学法科を出て政界に入り衆議院議員・貴族院議員・司法大臣を務めている。

平福寺
伊奈道道標
 
 街道に戻りすぐ先の右手に

 「彌林山平福寺」

 真言宗智山派の寺で戦国時代は諏訪大社下社春宮の別当寺であった。日を限って一心に願掛けすれば聞き届けてくれるという「日限地蔵尊(おひぎりさま)」が有名で毎月23日は縁日で賑わうと云う。塀際のしだれ桜と境内の萩の花が見事だとある。

 街道から外れて,すぐ南側にある「東堀正八幡宮」境内にある地元の集会施設「柴宮館」で昼食休憩。

 
平福寺の先の交差点<長地東堀・長地中町>を渡った左手に

「伊那道道標」

 「右 中山道 左 いなみち」とある。寛政3年(1791)建立。
当初の中山道は,元和2年(1616)塩尻峠が開通するまでは,ここで左折し三沢峠小野峠ともいう。塩尻峠より南方にある)を越えて小野牛首峠桜沢(本山宿と贄川宿の中間)で木曽路へと向かっていた。
尚,この古中山道の諏訪方の分岐点として,「中山道69次を歩く」(信濃毎日新聞社刊岸本豊著)では,現在の下諏訪町と岡谷市の境界となっている十四瀬川を渡って直ぐの五差路を”小野新道追分”として記述している。

 伊那街道は,三州街道とも呼ばれ小野から伊那谷を下り飯田~杣路峠を経て三河岡崎に到る道。伊那街道の途中,飯田辺りから大平峠を越えて妻籠に出る道もあり,これもまた初期の中山道にあたる。
 
茶屋本陣跡
石舟観音
 
 相変わらずのゆるい上り坂を5~600m進み国道20号と斜交した先右手に

 「東堀一里塚跡碑」
 江戸から56番目の一里塚,丸い小さな石碑があるのみで何も残っていない。

 しとしとと降り続く雨の中,もくもくと歩く。「横河川」”おおはし”で渡りおよそ30分ほど,左手に

「今井番所跡」「明治天皇今井御膳水」の碑,その先右手に「今井茶屋本陣」

 今井番所は高島藩の口留番所。口留番所は,旅人の通行や荷物の取り調べを行った所。ここを通過するには高島藩の通行手形が必要だった。
 
 旧今井村は,塩尻峠の東の登り口にあたり,ここに小休憩所が置かれた。建物は昔の面影をよく残している。当初は街道沿いに四軒屋があったので,四つ屋と呼ばれたという。主屋ほか11件が国有形文化財に指定されている。文久元年11月5日に皇女和宮が,明治13年2月4日に明治天皇がここで休息を取っている。

 ここら辺りから,塩尻峠への急な登りが始まる。右手に不動尊・道祖神・道標など比較的新しい石碑のいくつかを見ながら歩む。
やがて国道や中央自動車道岡谷ICのアクセス道路が複雑に入り組む場所を進む。この辺は,諏訪湖の絶景スポットの筈だが生憎の天候で何も見えない。

 急坂をさらに進むと右手に


「石舟観音」

 100段近くもある急な石段を登った先に本尊馬頭観音が鎮座する。足腰の病に霊験あらたかだそうだ。そういえばお堂には,杖・わらじ・ギブスなどが沢山奉納されている。しかし足腰の悪い人にとって「この急な石段はなんだ!!」と云いたくなる。
 祠の脇の鳴沢を清水が流れ落ちている。欽明水と云われ,街道を行きかう多くの旅人の喉を潤したという。
 
 急な坂道をおよそそ1km,(14:15)塩尻峠に到着。
スタート地点からの標高差は200mちょっとなので,甘く見ていたが,雨の中の登りは結構厳しかった!さすが”峠”である。
 

「塩尻峠」

 標高1000mちょっと,太平洋側と日本海側の分水嶺をなし,歴史上重要な境界線であった。
戦国期には幾度もの戦いが行われている。天文17年(1548)武田晴信と小笠原長時の塩尻峠の戦いが最大の合戦と云われている。峠から西方の塩尻宿・桔梗ケ原一帯で戦いが行われ,この先峠下の柿沢に戦死者を弔った首塚・胴塚がある。

 右手に少し入った所に展望台がある。しかしあいにくの天気で眺望絶無。本来なら東に「八ヶ岳~富士山・諏訪湖~南アルプス」,西に「御嶽山~乗鞍~穂高~槍~常念岳」が見えると云う。
 塩尻峠は,中山道で富士山が見える最後の地点と云われている。前回の和田峠も雨だった,ついてないな~。
  
東山一里塚
柿沢の首塚・胴塚
 
 「20分ほどの休憩を取った後,下りにかかる。ほんの最初だけちょっと急だが,その後は緩い下りのアスファルト道路である。

 間もなく右手に
「明治天皇塩尻嶺御膳水」と刻まれた石碑,向かい側に「峰の茶屋本陣跡」

 さらに下った右手に,天明の飢饉にこの峠で行き倒れになった旅人を弔う「親子地蔵」, すぐ左わきに「伝説夜通道(よとうみち)」の案内柱がある。

 あるとき峠を隔てた村の娘が,岡谷のある若者に恋をする。娘は,毎日毎日夜になると若者のもとに通ってくる。

 男は、最初のうちは嬉しかったのだが,次第に若い娘が夜ひとりで遠いところを峠を越えて通ってくるなど,人間わざではないと考えるようになる。

 ある日,若者は薮の中に隠れて,娘が通って来るのを見ることにした。すると,娘は髪を乱して,頭にはロウソクを立て,口に刃物を加え,白い着物で滑るように駆け抜けていく。

 その様子が,とても普通の人間とは思えなかったため,若者は怖くなってどこかに逃げてしまったという。

 更にしばらく下り,山道から畑中に移る辺り左手に

「東山一里塚」

 江戸から57里。南塚のみ,北塚があったと思われる地点には用水池が造られていて消滅している。大きさは,幅12m,奥行き13m,高さ3m。元和2年(1616)塩尻峠が開通し中山道が牛首峠経由から塩尻峠経由に変更された。この一里塚もその頃造られたものと推定されている。

 およそ1kmほど先<塩尻市東山>歩道橋で,国道20号に出る。右方向へ200m足らず国道に沿って進み,再び国道から分かれて右手の脇道を上る。
およそ600mほどで再び国道にぶつかり,地下道で横断し,中央自動車道”みどり湖PA”際の跨線橋で渡る。右手に中央道利用者のための市営駐車場がある,パーク&ライドなのかな?ここに駐車して通勤or買い物に出かけるんだろうか?
長いなが~い下り坂を下り
柿沢集落に入って行く。

 柿沢集落のほぼ中間あたり,右手
八幡宮へ向かう所にある交差点を左折,左手の畠の中に

 「首塚」がある。

 1500年代の半ば,信濃攻略を続けていた武田晴信は,天文17年(1548)2月,信濃国上田原(現上田市)で,北信濃の戦国大名村上義清と戦い,初めての大敗を喫する。これはチャンスとばかり,以前より苦杯を飲まされていた信濃の戦国大名小笠原長時(本拠地:府中・松本)は,反武田勢力を糾合して諏訪へ侵攻したが,反攻に転じた武田勢との塩尻峠一帯での戦いで家臣の裏切りもあって大敗。この首塚には死体を遺棄して撤退した小笠原軍の武士1000余人が弔らわれている。
 100mほど裏手の畑にも「胴塚」があるという。
 
雀おどり
諏訪地方独特の切妻屋根に設けた棟飾り。当初は屋根から落ちる雪除けだったものがデザイン化したものと云われている。
永福寺観音堂
 
 街道らしさが残る家並(雀おどりの屋根が目に付く)が続く柿沢集落に戻りさらに下る。
400mほどで,
<下柿沢>の信号を直進,間もなく道は二つに分かれる。右手は明治になってから開かれた道,左手の道はもともとの中山道だという。こちらの道を進み200mほど先で右折し四沢川を渡り先ほどの”明治の道”に出て直ぐ右手にある伽藍が,

 「永福寺」

 永福寺は,木曽義仲ゆかりの寺である。永正年間(1504~21)木曽義仲の末孫である義方上人が,義仲の 菩提を弔うため,義仲信仰の馬頭観音を本尊とする朝日観音堂を建立するが焼失。
 安政2年(1855),諏訪大社下社秋宮の神楽殿を手掛けた二代目立川和四郎富昌が請負い現観音堂を建立。和四郎は工事中,彫刻用材の大欅の枝おろしの際,事故に遭い74歳で死去。三代目富重が引き継いで観音堂は完成。
 観音堂は,正面3間・奥行き4間・入母屋造り妻入り向拝付きで,屋根は茅葺箱棟であり、向拝の中備えにある竜の彫刻やつなぎ紅梁の獅子などが見事である。

 入母屋造り・桟瓦葺・3間1戸のどっしりした山門(仁王門)は,和四郎の弟子立川音四郎種清によって明治29年建立された。

  
 今日は,ここまで。
 
(17:00) 諏訪市中洲「ホテルルートイン第二諏訪インター」着。 温泉に入ってゆっくり休息。
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