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中山道69次を歩く(第22回)本山~奈良井宿 009年10月6~7日
                                     (歩程 33,900歩 約20km)

一日目

 大型台風18号が接近中で,秋雨前線と絡み合って”全国的に雨”という天気予報が出ている。ずぶ濡れ覚悟での出発であったが,なんとなんと二日間とも雨に遭わず,長野県を北上した台風を幸運にも一日違いで避けることができ,木曽路への一歩を無事終了できた。

 
「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり,あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり,あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。東ざかいの桜沢から,西の十曲峠まで,木曽十一宿はこの街道に添うて,二十二里余に亘る長い渓谷に・・・・・・・」

 藤村の「夜明け前」を40年振りに再読しての木曽路入りである。
若い頃に読んだときは,ただ筋を追っているのみであったが,今回は,中山道馬篭宿の盛衰を通して幕末から明治維新後までの歴史や,木曽路各宿の地理をしっかりと頭に入れることができた。

 雨がそぼ降る新宿を(07:30)に発つ。
談合坂SAでトイレ休憩し,しばしの居眠りから目覚めたら「中央道最高地点1015m」の標識が目に入る,(09:50) 早や小淵沢を過ぎたあたりか? 
 なんと雨が上がり,雲間から甲斐駒ケ岳(伊那の人々は”東駒”と呼ぶ,ちなみに木曽駒ケ岳は”西駒”)が見え隠れしている。ラッキー!!このまま今日一日雨が降り出さないことを祈る。

 中央自動車道”みどり湖PA”でお弁当を受け取る,車中での早い昼食を済ませる。
本山宿の上の外れ「本山神社」入口着(11:00)

 バスを降りて,いきなり出発。合羽上下を着る時間のゆとりもない。私は初っ端から隊列から100m以上 離されてのスタートとなった。 
 
 今回の参加者17名(男性:5,女性12)
 
日出塩一里塚跡
 左手からの国道19号バイパスに合流し,およそ300mで国道と分かれ右手の道を進み直ぐにJR中央西線を<第二中山道踏切>で渡ると,㈱シンセイの建物がある。(この辺り中山道は国道を横断し釜の沢という小さな渓流を東側に捲いてまた国道を横断し,JR線路を横断するなどしていたと云うが現在は失われている。)
 ㈱シンセイ工場の裏手に


「日出塩の青木跡」

 貴人塚の上に大きな桧があって,「洗馬の肘松,日出塩の青木,お江戸の屏風の絵でござる」と唄われた銘木であったと云うが,今はこじんまりした何の変哲もない木が一本植わっているに過ぎない。

 少し先で,国道から分かれた日出塩(ひでしお)集落に通じる道に合流,その先で中山道は,この道から右手に分かれ細い道を行く,すぐに先ほど分かれた道に戻り,対面に

「日出塩一里塚跡」

 江戸から六十一里,京へ七十一里。六十一里塚とも呼ばれる。
標柱があるのみ。

 ここから日出塩の集落が始まる。
左手,門前に庚申塔など石仏・石碑,六地蔵など多数が並ぶ「秀永山長泉院」,すぐ先に「JR日出塩駅」,さらに200m程先に「道祖神・筆塚・秋葉大権現などの石塔群」

 日出塩は,本山宿と贄川宿の間の「間の宿」”立て場”があり,熊の皮や熊の胆が多く売られていたというが,今は往時の面影はほとんど感じられない。
 
「是より南 木曽路」碑
国道19号もカーブの多い難所に向かう。
 
ついに木曽路へ!

日出塩
集落を抜けて,国道を潜り左手から国道に合流,しばらく側道を歩く。

 およそ800mほどで,左手に上って行く道がある。
<県道254号>の標識がある。これが岡谷から小野牛首峠を越えて桜沢に到る「古中山道」である。

 さらに300m程先,左手からの沢に懸かる橋が

「境橋」


 ここが,江戸時代の尾張藩と松本藩の国境。高欄干付きの刎橋で両藩折半で架橋したと云う。

すぐ先の”地域振興バス<桑崎口>バス停脇に

 「是より南 木曽路」と刻まれた石碑。

 この地は木曽路の北の入口であり,江戸時代には尾張藩領の北の境であった。
石碑は桜沢の藤屋百瀬栄が昭和15年に建立,裏に「歌ニ絵ニ其の名ヲ知ラレタル,木曽路ハコノ桜沢ヨリ神坂ニ至る南二十余里ナリ」とある。

 ここは,標高812m。
唸りを上げて走るトラックの流れの切れ目を縫って国道の向かい側に渡って,切り土斜面に付けられた急な山道を30mほど登ると,国道の崖上を国道と並行する岨道に出る。
 こんな急斜面にも畑が造られている,右手を覗きこむと国道のさらに下方に
奈良井川の清流を望む。往時この辺りは断崖であったため,街道は崖上を迂回する高巻き道となっていた。村の人たちが自力で岩を削って道を作り通行料を取っていたとか。
 ほんの100m余ほどで下りに懸かり,国道に戻る。


厄除け観音 中央西線廃線トンネル
(日出塩~贄川間 旧大岨トンネル)

 国道に降りる手前左手に「厄除け馬頭観音」が小さな祠に安置されている。
 さらにその奥の山側にレンガ造りの隧道坑門が見える。中央西線の廃線トンネルである。坑門左上に「54」と判読できる数字が記されている,おそらく”木曽54号トンネル”といったナンバリングをしていたのかもしれない。内部は完全に埋まっている。
 塩尻ー奈良井間の鉄道の開業は,1909年(明治42)。昭和40年代から列車の増大に対応するため電化・複線化が進められた際に,災害区間の解消・線形改良などのためルート変更が行われ,廃棄されたトンネル遺産である。同じような中央西線の廃線遺産は,この先の「鳥居トンネル」ほか多数が残されている。

 再び,国道の側道を歩き間もなく桜沢の集落に入る。

中程に風格のある屋敷が,
 「桜沢茶屋本陣跡」


 「明治天皇桜沢小休所碑」が建つ。百瀬家は明治13年明治天皇巡幸の際に御小休所となり,門前に碑が建つ。(右写真)

 上段の間と次の間が残っていると云う。現在公開していない。
 
旧国道19号(廃)に架かる片平橋
土木学会「日本の近代土木遺産」より
 
 (12:15) 奈良井川<片平橋>で渡る。
 本来の中山道は,この橋よりやや上流側を渡り杉林の中を通過していたと云う。ここには昭和10年竣工の「日本近代化土木遺産Aランク」に選定されている旧片平橋が開腹部をアーケード・RC造りアーチ橋として美しい姿を残していると云う。残念ながら立ち寄ることも瞥見することも出来なかった。

 国道から右手にガレ場状の山道と2,30段の急な石段を登って「白山神社」へ。

 帰りは緩い坂道を下って再び国道へ。
5,6分で<片平バス停>を斜め右に進み「片平」集落へ。ほんの200m足らずのわずかな区間であるが国道を離れた静かな空間にひたりほっとする。

 集落の外れ右手に

「飛梅山鴬着(おうちゃく)寺」

 のたりのたりの春を連想させるなんとも風雅な名前のお寺である。
永平寺の末寺で,境内が国道に削られこじんまりした無住職の寺だと云う。

 再び国道に合流しを300m程進み,若神子集落への分岐手前の国道右手脇に

 「若神子一里塚」
 
楢川地域にある五カ所の一里塚のひとつ。
明治43年中央線の鉄道建設時に東側の一基が取り壊され,残る一基も国道19号線拡幅によって切り崩され,現在は直径約5m,高さ2mの西塚のみが,国道右手の”よう壁”上に残されている。江戸より62里。

  国道から右に分かれ若神子集落を抜けた南に外れに「水場」,その先を右に入った所に「諏訪神社」 

 国道より一段高く並行して走る静かな生活道路を進み
中畑(なかばた)集落を通過。
集落の外れに「庚申塔他10数基の石仏,石碑」あり。

 やがて道は二股となる,左が中山道であるが,この先,国道と鉄道によって分断され辿ることはできない。(鉄道線路と奈良井川の間を通過していたとのことであるがその道筋は消滅してしまっている) 私たちは,二股の右手の
「中部北陸自然歩道」の草道を進む。500mほどで,アスファルト道路に出て,左手前方下に「中央西線贄川駅折戸集落にある「総ヒノキ造りの木造校舎(小学校?)」が見えてくる。贄川に到着である。

 
贄川駅に寄りトイレ休憩。

 「贄川駅」は,

 1909年(明治42)開業の二面三線ホームを有する無人駅である。午前中と午後2時以降1時間に1本程度の普通電車のみ停車する。ぬくもりのある木造駅舎が心を和ませてくれる。
 駅前広場に贄川宿の説明板と木曽路案内板がある。
 

 
贄川宿 にえかわしゅく
 江戸から62里27町14間。宿場町並4町6間。
 中山道六十九次のうち江戸から数えて三十三番目,木曽11宿の最北端の宿場である。
 木曽福島関の添え番所として贄川関所が設けられ木曽木材の搬出を厳しく取り締まるとともに、木曽路の北の防衛拠点でもあった。
 現在の長野県塩尻市贄川にあたる。

「贄川」の名は,古くは温泉が出たことから「熱川」,温泉が枯れて現在の字が充てられるようになったとの説,奈良井川で獲れた鮭や鱒を諏訪大社の神事の御贄として奉納していたことから神に供えるいけにえの魚を捕る川という説の二説がある。


 宿は天文年間(1532~54)に開設され,桜沢から小野を経て下諏訪に到る古中山道の宿として,さらに塩尻峠の開通により,贄川から本山,塩尻を経て諏訪に到る中山道の宿駅として整備された。

 昭和5年(1930)の大火で町の大半が焼失し往時の面影はほとんど残っていない。

 人口:545人(男:304人 女:241人),家数:124軒,本陣:1,脇本陣:1,旅籠:25軒
 
関所橋
贄川関所
復元されたもの,”板葺き石置屋根”が目を引く。木曽考古館が併設されている
 
 贄川駅前の国道のちょっと先を左折し,中央西線を
「関所橋」で渡る。

 関所橋は鉄道開通時のレンガ造りの跨線橋を化粧直しして保存したもの。欄干の大名行列の装飾,欄干に掛けられた鉄パイプを順に叩いていくと木曽節のメロディとなる趣向は,”座布団10枚”級の傑作アイデアである。「メロディ橋」と呼ばれている。

 橋を渡った左手下に

「贄川関所・木曽考古館」

 贄川関所は,明治2年(1869)福島関所とともに廃止され原型は残っていない。
 明治9年の贄川村村誌の「古関図」や寛文年間(1661~72)の「関所番所配置図」をもとに,昭和51年,当時の関所を忠実に復元された。内部には上番所、下番所、大名用座敷、中間部屋がある。関所や街道交通に関わる資料を展示している。
 階下にある木曽考古館には,贄川簗場遺跡などで出土した土器石器類が展示されている。
(入館料200円 妙齢のご婦人が懇切丁寧な説明をしてくれる)。

 建武2年(1334)頃,源義仲7代の孫讃岐守家村が贄川に関所を設けたのが最初で,天正18年に豊臣秀吉が番所を置き、木曽材木の監視のため南の妻籠番所とともに取締りに当たり,関ヶ原の戦いの後、徳川幕府もこれを継承して、福島関所の副関所として木曽代官山村氏の配下が守り,鉄砲と女改めに加え木曽檜の加工品や木材などの搬出を厳重に監視し尾張藩の”北番所”とも呼ばれた。

 元の場所は,現在のJR線線路側にあったと云う。旧道はこの番所の前を通りJR贄川駅と奈良井川の間を通り<下遠>,<中畑>へ通じていたが,ほぼ完全に消滅している。
   
麻衣廼神社
四本並列配置の御柱
 
 関所見学を済ませて贄川宿の町並みに入る。
 贄川宿は,昭和の大火でほぼ全焼しているので,古い民家など往時の面影を残すものは無い。

 贄川郵便局の対面に

「本陣跡」

 本陣は木曽家の子孫千村家が勤め,問屋,庄屋を兼ねていた。遺構はおろか標識すら無い。

その先の「酒屋」辺りが

「脇本陣跡」


 脇本陣は贄川氏が勤めていた。現在は酒屋を営み遺構は無い。贄川家には多くの古文書が保存されていた。昭和5年(1930)焼失。

 郵便局の少し先で,右脇道(参道?)に入り,国道を越した先に
「観音寺」「麻衣廼(あさぎぬ)神社」

 「観音寺」

 高野山金剛峯寺を本山とする真言宗智山派の寺院。
山門の前に大きな観音様がが見える。その奥に寛政4年(1792)に再建されたと云う立派な山門。天正10年(1582)武田勝頼と林義昌との戦いが鳥居峠であり武田氏敗退。その戦火により焼失。
慶長2年(1597)に僧珍水により再興された。
本堂・庫裡・山門・鐘楼・土蔵・観音堂からなる。

 「麻衣廼(あさぎぬ)神社」

 観音寺の左手奥に歩くと鳥居の前に出る。
 天慶年間(938~47)の創立,諏訪大社の系列の長い歴史をもつ神社である。
天正10年の戦火により焼失,文禄年間(1592~96)現在地に再建された。
 現在の社殿は延享4年(1747)建立,拝殿は慶応元年(1865)再建。毎年春の祭りに加え6年目ごとの寅年と申年に御柱祭を行う。この神社の御柱は4本並列配置である(右上写真)。

 ”麻衣廼(あさぎぬ)”は木曽の枕詞である。
 
深澤家住宅
街道に戻り宿の南の外れ近く左手に(地域振興バス<贄川上>バス停脇

 「深澤家住宅」

 
贄川宿に唯一残る江戸時代の建物である。

 深澤家は屋号を加納屋と称し,行商を中心とする商家を営み文化年間(1804~17)には,京,大阪などから北陸・東北地方への遠隔地商売を展開し贄川屈指の商人となった。

 街道に西面した短冊型の敷地(564.47㎡)に主屋(2階建切妻造)が建ち,その背後に中庭を挟んで北蔵と南蔵が並ぶ。主屋は嘉永4年(1851)の大火後の再建で同7年に竣工。北蔵は文政4年(1821),南蔵は文久2年(1862)の建築。
 
 各建物の建築年代がほぼ明らかで,保存状態も良く江戸末期の木曽地方宿駅の町家の姿を忠実に留め,主屋の規模・大きさ,独特な正面外観,整然とした架構,洗練された重厚で落ち着いた室内が構成され,木曽地方の町家建築の到達点を示す建物として価値が高く,国重要文化財に指定されている。

 向かい側に「ひのきや漆器店」
皆で店内をガラス戸越に覗き込んでいたら開けてくれ,展示されているひのきで作った民芸・工芸品をしばし見学。

 「ひのきや」の先が,贄川宿の南の「桝形」
右の路地に入りすぐ先を左に曲がると,その先は鉄道線路で断ち切られている。
本来の中山道は線路を斜めに横断し現在の国道19号へと繫がっていたと云う。
 
 右手に少しバックして跨線橋を渡り,国道に出る。

 
国道を進むと右手に70m入った山麓に
 「贄川のトチ」

 推定樹齢千年,樹高33m,根元周囲17.6m。
1mの高さに瘤があり,その上3mから大枝が分かれさらに5本に分岐している。枝張り,樹姿,樹幹の美しさは県下一のものとされ,地元の人たちから樹下に祀られている小祠にちなんで「ウエンジンサマのトチの木」と呼ばれ大切にされていると云う。

 
  本日は,ここまで
(15:20) ”トチの巨木”の先のドライブインで待機していて呉れたバスで奈良井宿の南の外れ,鳥居峠登り口の先にある今晩の宿「ならい荘」へ。

 16時50分の集合で,夕闇せまる奈良井宿を散策すると皆さんは出かけて行った。

 私は,奈良井宿は既に2回も訪れているので,部屋で今日歩いたルートを「二万五千分の一地形図」や「資料」に目を通して復習後,お風呂を浴びる。なんとなんと温泉だあ~ 木曽谷で温泉に浸かれるとは思ってもいなかった。
 泉質は「含ー二酸化炭素ーナトリュウム・カルシュウムー塩化物・炭酸水素塩冷鉱泉」,源泉温度13.5℃,木曽福島の”代山温泉”からタンクローリーで運搬して加温・循環使用している。温泉というのは湧き出してからすぐに成分が変化していくので運搬してというのはあまりお薦めではない。それはそれとして一日24時間風呂に入れると云うのは有り難いことだ! ゆっくり湯船に浸かり本日の疲れをとる。
 
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