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中山道69次を歩く(第4回)戸田橋~浦和  008年4月17日 
(歩程 20,600歩 約12.5km)

午前10時JR埼京線浮間舟渡駅集合。総勢16人。
この駅は北区浮間と板橋区舟渡に跨っている,それで浮間舟渡と命名されたという。なるほどなるほど!
街道歩きの前に先ず浮間ケ原サクラ草圃場で,ちょうど開かれている「サクラソウ祭り」に立ち寄ることにした。
 私は,7・8年前に訪れたことがある。


 『浮間ケ原サクラソウ圃場』(北区浮間2-7)
満開の「浮間野生紅」/TD>
駅前の浮間公園の浮間ケ池を左手に見て2,3分ほど歩くと到着する。
 荒川流域では,昭和の初期まで浮間ケ原や対岸の戸田ケ原・田島ケ原に数多くの桜草が自生していたという。浮間ケ原の桜草は,戦後,自然環境の変化や流域の開発で絶滅の危機に瀕したが,昭和37年地元の浮間桜草保存会の人々によって僅かに残った桜草が圃場に移植され心を込めて栽培され,昔の浮間ケ原の面影を取り戻そうと現在の圃場に植えつけられた。
圃場には,”浮間野生紅”と”浮間白”と”浮間五台紅”の3種が全面に植えつけられていて壮観(但し田島ケ原の方がもっと素晴らしいと私は思う)。
 今年の桜草祭りは,4月15日(火)~29日(火)で期間中氷川神社で桜草などの即売会も行われていると案内板にあった。
 
 この辺りは昔の荒川が右に左に蛇行していたところで河川敷内にあり,度々の洪水に見舞われていた。明治43年(1924)の大洪水を契機に大規模な河川改修(荒川放水路の開削など)が行われ,その工事で取り残された流路の一部が浮間ケ池である。
 
 駅前に戻り埼京線高架に沿って進み舟渡2丁目で右折して旧中山道にでる。荒川土手に突き当たり階段を登って「戸田橋」南詰めへ。

 さあ!戸田橋を渡って埼玉県へ すぐ下流側に隣接して新幹線と埼京線の荒川橋梁が,渡河している。
 ところで,私が小学生上級生~中学生の頃,蕨の片田舎(当時は)で,新婚家庭を構えていた長姉のところに自転車で,この戸田橋を渡って行き来したことがある。現在の橋では無く1929年完成の流麗なデザインであった三代目戸田橋(鋼製吊橋)である。長じてマイカーを運転するようになった頃は,上流に新大宮バイパスに通じる笹目橋が出来ていて,専らこちらを利用したのでおよそ半世紀以上ぶりの戸田橋である。したがって現在の四代目戸田橋(1978年完成)は,今回初めて徒歩で渡ることとなった。
 全長519mを渡って,北詰めの「川岸1丁目交差点」を右折して堤防上を新幹線高架をくぐって100mほど下流に行った辺りが

 『戸田の渡し跡』
 である。

渓斎英泉の描いた「戸田の渡し」
歌川広重と合作した「木曾街道六十九次」72図のうち始めの24図を英泉が描いている。  

 しかしながら,当時の荒川の流路は,今とは違っており,実際の渡し場が何処に在ったかは不明であると言う。
 江戸時代、荒川は「戸田川」と呼ばれ川幅は,100m,深さ1m程度(増水時は5mにもなったという)。
 荒川は江戸を出るところに位置していたので,江戸防衛の意味から橋が架けられず,人々は舟による「渡し」に頼らざるを得なかった。渡船場の管理は下戸田村が行ない,渡船料は,武家・出家・社人・山伏は無料だが,それ以外は通常は3文,増水時16文であり,大名など特権者通行の場合には相当額の拝領金を頂きかなりの収益金があったと推定されている。 資料によると渡し場は天正年間(1573-91)よりあったとされ,天保13年(1842)では,家数46軒,人口226人で,組頭1,船頭8,小揚人足31であった。船の数は寛保2年(1742)では3艘だったのが天保13年には13艘に増えている。
 明治8年(1875)最初の戸田橋(木製,有料)が完成し,渡船の役割が終わった。

 堤防の中段に「渡し場跡」の碑と説明板が建っている,そこから北方に旧中山道の道が延びている。
その道際に小さな社がある。


『戸田水神社(とだすいじんしゃ)』(戸田市川岸2-7) 

もとは荒川の岸辺にあったが,新堤防ができたときに移されたと伝えられている。境内正面に「水神宮」や船玉大明神(船の守り神)と刻まれた大きな石碑がある。創立など詳しいことは分らないが「水神宮」の碑には,寛政8年(1796)の銘がある。川岸に住む人々の氏神様になっているようだ。また,右手奥の方に隠れるように「山王大神」や茨城県の大杉神社から勧請したという「大杉大神」の小さな石碑が安置されている。これらは河川改修の際,見つかったものがここに集められて合祀されたものだという。

 戸田水神社の北側に位置してあるのが

 『地蔵堂』 (戸田市川岸2-7)
   小さいながらも建物はかなり古く戸田市内最古の木造建造物とされている。お堂の規模からは不似合いなほど大きな木組を使用した紅梁(こうりょう)・斗栟(ときょう)・釘隠しなど見ごたえのある巧緻な造りである。軒には,正徳2年(1713)の銘がある半鐘が架かっていると説明板にあるが,昨今の金属泥棒の跋扈のため,別の場所に保管されているそうだ。同じ理由で賽銭箱も堂内に移し,正面の扉も常時閉まっている。なんとも嘆かわしい世情である。
 境内には享保16年(1731)銘の庚申塔・広永25年(1418)や永禄5年(1562)銘の板碑もある。



地蔵堂の前の旧中山道とされている道を北へ進むとすぐに「菖蒲川」に突き当たる。左折して階段を上がり国道17号に出て北進する。ところどころに戸田市教育委員会が設置した中山道案内板が建っていて旧中山道の道筋が示されているが,区画整理のためか菖蒲川を越えた先からの道筋の大部分が失われてしまっている。
 しかし戸田市内にもまだ一部がその面影を残している。
その内の一箇所は,「戸田渡船場跡」記念碑付近から菖蒲川までの200mほどの道筋。もう一つが菖蒲川を越えて北上してきた旧中仙道が信号機のある下戸田1丁目交差点付近で大きく西に曲がり,斜めに北西方向国道17号に向かう道筋部分である。

 国道17号の川岸3丁目交差点付近に
『一里塚があったと推定される場所』(戸田市本町1-2,下前2-13)
がある。

 いまや全く市街地化していて,候補地が3箇所ありいずれとも特定できていない。
 ① 川岸3丁目交差点の先左手にある「つつじ幼稚園」の正門際にある榎の切り株がある地点
 ② 同じく「つつじ幼稚園」南西隅にある庚申塔
 ③ 国道17号の東側民家

 いずれにしても日本橋から4番目,「戸田の一里塚」である。


 国道を北へ進む。案内板(右上の写真)によれば,旧中山道は本町1交差点付近で国道から離れ1本東側の現道を北上していたと私は思うのだが,案内人は何故かそのまま国道を北上し本町交差点で右折,本町通り商店街を7~80m程行った下戸田1丁目信号で大きく左Uターンして80m(この道筋が前記の戸田市内に残る二つ目の旧中山道),再び国道に合流。
 あとはひたすら国道を北へ進み,下戸田2丁目,戸田市役所入口,錦町1丁目,左に三菱自動車営業所を過ぎるとシェルガソリンスタンドの手前で国道から右に分岐する道がある。中山道蕨宿碑
木戸をイメージした木製のアーチが立つ。ここが蕨宿入口である。

 
 『蕨宿』 

 国道17号線が戸田市から蕨市に入るあたりからが蕨宿である。
国道の東側60mに国道と並行する旧中山道の道筋が宿場の面影を残している。
 宿場は,慶長から元和年間に成立したといわれている(慶長17年説が有力)。戦国時代には渋川氏の居城があり市も開かれていたため,宿場として成立する基礎があった。江戸日本橋からの距離は4里28町(18.7km.)。江戸に入る「戸田の渡し」の手前にあるので川が増水すると「川止め」となり,当宿に逗留せざるを得ずそのため比較的大きな宿場であった。幕府後期の調査によると総人口:2223人(男:1138 女:1085)。家数:430軒。本陣:2,脇本陣:1,問屋場,旅籠屋(23軒)などが軒を連ねる町場(町方)とその外側の農村部(村方,在方)とで構成されていた。 在地有力者の岡田氏が本陣を務めた。
西側の蕨宿名主を務める岡田加兵衛の本陣を”一の本陣”または”西の本陣”(現在蕨市立歴史民俗資料館,資料館の北隣にモニュメントあり)。東側の塚越村名主を勤める岡田五郎兵衛の本陣を”二の本陣”または”東の本陣”,”塚越本陣”と呼んでいた。通行量の増加に伴い一の本陣の南側に”脇本陣”(現在岡田厚生薬局)も設けられた。
 宿の周りは,見沼代用水のうち西縁(にしべり)用水から引いた用水堀で囲まれ防火機能と防犯機能を果たしかつ農業用としても利用されていたが,しばしば大火に見舞われ,とくに享保(1725)の大火により,宿は大きな痛手を受けたこともあったという。

 江戸に向かう旅人にとって蕨を越えると鰻が食べられる店がなくなってしまうため、ここで鰻を食べるお客が多く,浦和宿とともに鰻の有名な宿場町でもある。


 明治になって鉄道を通す時に猛反対してしまい,駅は宿場から1キロも東になってしまい,宿場は次第に寂れていった。
 
蕨のいわれは 「野良で藁を焼いた火」
「瓦を焼く際に藁火が最良」
「在原業平が藁火で暖をとりそれを村名にした」
「義経が煙を見てその名前を聞いたところ村の名前が無いので藁火とつけた」
等の説があるがすべて藁火に関係している。

 蕨宿で先ず入ったのが,
 『歴史民俗資料館分館』 (蕨市中央5-19-3)

蕨市立歴史民資料館分館
 明治時代に織物の買継商をしていた家を,そのまま利用したもので,建物は木造平屋寄せ棟つくりで中山道に面した店の部分は明治20年(1887)に造られたもの。
 内部見学が出来,住まい部分に接して造られた白い漆喰壁の土蔵の内部や,珍しい電話ボックス,機織機,渋沢栄一直筆の額などとともに贅を尽くした和室から静かな庭園を眺めしばしゆったりした気分にひたって休憩。
 

『歴史民俗資料館』(蕨市中央5-17ー22)
 
 二軒在った本陣の一つで,「岡田加兵衛本陣」跡にある。
蕨の歴史と文化の特色である宿場と織物に関する資料を中心にして各テーマごとに分りやすい展示がされている。「宿場(蕨宿の世界)」コーナーでは,中山道と宿場の様子が細かに復元され,庶民の旅立ちの様子,持ち物,関所の通行手形がリアルに展示されている。旅籠での庶民の食事と本陣における大名の食事内容の対比展示などを興味深く見学する。
 ここの本陣は「孝女和宮」の休憩場所のもなり,明治元年には明治天皇の御小休所としても使われたと言う。

 
歴史民俗資料館見学を終えて,国道17号沿いある「東晶大飯店」という名のレストランで昼食。
13時,再び宿場通りに戻る。天候が怪しくなってきたので,足早に
「和楽備神社」・「蕨城跡」・「子育て地蔵」・三学院」・「あげ橋」を見て,蕨宿を後にする。

『和楽備神社,蕨城跡』 (蕨市中央4-20-9)

 本陣の北側の交差点を右折して,市役所通りを東へ200m,右手に「和楽備神社」が見えてくる。
「和楽備(わらび)神社」の名称は,明治44年(1911)に蕨町内にあった18の鎮守社を合祀した際に名付けられた。合祀以前は,「上の宮」と呼ばれた八幡様であった。蕨を所領とした渋川氏が蕨城の守護神として勧請したと伝えられている。その語字から縁結びの神様とも言われる。
 境内の水屋に江戸時代初期の造立と考えられている安山岩で造られた大型水盤がある,上野寛永寺から移されたとも言われている。
 
 「蕨城跡」 室町時代から戦国にかけて,足利氏の一門である渋川義行が武蔵国司として居城し,それ以降渋川氏が知行していた。
 戦国時代には,小田原北条の武蔵進出で蕨城をめぐる攻防が繰り返され,北条氏康の時代その支配下となった。その後渋川氏は北条と関東官僚上杉氏の間を転々とし,結果的に渋川義基は,国府台合戦(永禄10年(1567))で北条方として上総三舟山に出陣するも同地で討ち取られ,蕨城も廃城となった。絵図によると地上約12m幅の堀と約8mの土塁をめぐらした平城であったと考えられている。後に家康の入封に伴い鷹狩りの為の館として再造営され,鷹場御殿として使われたが,現在,蕨城の遺構は市街化も含めて殆ど残されてはいないが,土累の一部と僅かに残る水堀の存在が城であったことを偲ばせてくれる。

 いったん旧中山道へ」戻って200m程北進し,昔は茶店をやっていて10代も続いているという”せんべいの満寿屋”の角を右折,「地蔵の小径」を進むと,前方にどでかい伽藍が見える。

 『三学院,子育地蔵』(蕨市北町3-2-4)

 「三学院」 正式名は金亀山極楽寺三学院。真言宗の古刹。
関東七ケ寺の一つとして,また江戸時代には関東十一壇林の一つとして,真言宗僧侶の教育機関であったという。
 創立は,元亀年間(1570~1572)以前と思われる。本尊は十一面観世音菩薩で平安中期,慈覚大師の作と伝えられている。天象19年(1591)徳川家康により御朱印20石を受領し,歴代将軍から保護された。幕末まで蕨宿内に寺領を所有していた。

 山門前に,「子育地蔵」
丸彫りの立像で高さ約2.4m,蕨市最大の地蔵尊である。元禄7年(1694)の建立で,火伏・子育て・開運のご利益があるというので参拝客が多い。

 ほかに,「目疾(めやみ)地蔵」(地蔵の両眼に”味噌を”塗りつけると眼の病気に効験あらかたとかで,地蔵の眼から肩にかけて味噌が流れ落ちた跡が着いている)と「六地蔵」が祭られている。

 

荘厳さを持つ三学院本堂(現在工事中)
本来正面にあるべき仁王門は何故か手前右手に(工事中の仮移設?)

目疾地蔵と六地蔵
 元治元年(1658)に念仏講を結んだ13人の人達が「この世」と「あの世」の安楽を願って造立したもの。高さが1.9m,一般に寛文年間(1661ー73)をさかのぼる近世石造物は少なく,一部が欠けてはいるものの古い様式を伝えている。 六地蔵とは,地蔵菩薩が六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)に分身し,人々を救済する姿を現す。

『徳丸家のはね橋』 (蕨市北町3-2-4)

 三学院の前の道を北へ進む。道の左側にコンクリート板で覆工された暗渠がある,蕨宿東用水の名残りである。しばらく行った左手徳丸家の塀際に幅45cmくらい長さ2mほどの板が立てかけられている。下部に鉄棒や滑車やロープが取り付けられていて前方に倒せるようになっている,前は用水路(現在は暗渠),これがはね橋である。
 宿の外側の田畑への出入り用として使われていたが,飯盛女や助郷・機織女工などが夜間に逃げ出さないように昼は,はね橋を架け,夜は綱を引いて橋を跳ね上げ鎖で縛り,綱は持ち帰り,堀を越えることが出来ないようにしたものだという。(蕨市指定文化財)

 再び中山道に戻り北へ進むと国道17号に出る(錦町3丁目)(14:05)ここが蕨宿上の木戸があった場所。
 旧中山道は国道を斜めに突っ切って国道の西側を北へ向かう。およそ1kmで小さな用水路を渡り蕨市からさいたま市に入る。この頃から雨がポツリポツリと降り出す。
さらに400m程で,東京外郭環状自動車道に出る。その手前,団地の一角に在るのが


 『辻の一里塚碑』(さいたま市南区辻7-4)

辻の一里塚碑
江戸から5番目の一里塚。この辺りは,湿地が多く水神様もある。
日本橋より5里目の一里塚。塚は無く「碑」だけが建つ。簡単な説明がされた後,すぐに出発。写真を取る暇もない,雨に降られるのは皆覚悟してきているんだからそんなに先を急ぐ必要はないのに!幸い交差点の信号が赤になったので,わたしは戻って写真だけ撮る。

 ここから先は,浦和宿の手前「調神社」まで立ち寄るべきところがない。雨が本降りになってきつつある中ひたすら歩く。外環道路の下を横断して道なりに進む。やがてT字路に出る,前は小さな公園(六辻公園)。右にほんの少し歩くと国道17号との交差点「六辻」である。ここの交番の前でそれぞれ合羽を着たり,ザックカバーを付けたりして雨対策を施し出発。
 国道を横断し二筋目の五叉路を左斜めに進む。やがて道は上り坂にかかる(さいたま市南区根岸5丁目付近)。今まで歩いてきた区間は地形的に言うと”荒川低地”,中山道は,ここから”大宮台地”に駆け上がる。
 道路標識に
「焼米坂」とある。江戸時代,茶店が何軒かあり,「新名物やき米」の看板を掲げ中山道を通る旅人に炒った米を売ったという。焼き米はお茶うけや携帯できることから,道中で一時の空腹しのぎとして貴重であった。このことから、いつの間にか『焼米坂』という呼び名が定着したようである(正式には浦和坂(延長160m))。江戸時代の旅人にとっては難所であったという。
坂をほぼ登り切った辺りで,JR武蔵野線の上を渡る。左手に南浦和小学校がある。

 さらに1kmほど進むと右手にあるのが
『調(つき)神社』(さいたま市浦和区岸町3-17-25)
 兎好きには有名な浦和にある神社。「つきじんじゃ」と読む。地元では「つきのみやさま」と云う呼び名で親しまれているという。
 『調宮縁起』によれば,第十代祟神天皇の勅命により創建。調とは「租・庸・調」の調で,貢(年貢)を意味し,ここに調の品物を集荷して東山道を通って朝廷に送られていたが,宝亀2年(771)武蔵国が東海道に属するとその役目を終え,単に神社として祭られるようになった。
 鳥居がないことでも有名で,伊勢神宮へ納める貢(調)物の初穂を納めた倉庫群があり,搬入の妨げになる為とも言われる。社殿は,安政6年(1859)建立。本殿・幣殿・拝殿が連続する複合社殿である。
 中世,調が月と同じ読みから,月待信仰に結びつき,江戸時代には月神社と呼ばれ,月の天子の使い姫であるウサギが狛犬に代わって境内入り口両側に鎮座している。

 調神社を出ると古い家がポツリポツリとありこのあたりから浦和宿が始まっていた。現在の浦和随一の繁華街まではすぐである。
何時のことだったか入ったことがあり見覚えのある店構えをしたうなぎの蒲焼で有名な「満寿屋」の前を通る。いつかまた旨い”うなぎ”を食べに来たいな!
 浦和駅から県庁へ向かう通りと旧中山道とが交わる「浦和駅西口」交差点辺りが浦和宿の入り口である。
本日はここまで。浦和駅西口交差点を右折してJR浦和駅に到着・解散(15時10分)。急ぎに急いだ為予定より1時間も早い到着である。
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