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中山道69次を歩く(第5回)浦和~大宮  008年5月8日 
(歩程 19,000歩 約11km)

午前10時JR京浜東北線浦和駅集合。総勢24人。
駅前近くの小広場で,ストレッチ体操をしてから,浦和駅西口交差点へ向かい中山道を大宮宿へ向かってスタート(午前10時20分)。

 『浦和宿』   
浦和宿は江戸から距離が近かったので,宿場としての発展はなかったという。旅籠の数は少なかったものの本陣の規模は大きかったが明治になって没落。本陣:1,脇本陣:3,旅籠:15。旅籠があった辺りは今は浦和一の繁華街となっている。かたわらに「浦和市道路元標」もあり,ここ仲町が江戸時代から浦和の中心地であったことを物語っている。商店街の歩道に「中山道浦和宿」と銘を貼りつけたモニュメントがところどころに立っている。

 『玉蔵院』
浦和駅西口交差点から200mほど北へ行った”みずほ銀行”前を左に入る(門前通り)と立派な仁王像が構える山門の奥に玉蔵院がある。
 真言宗豊山派。創建は平安時代と言われている関東十壇林(壇林とは仏教の学門所のこと)に数えられる古刹。現在の伽藍は元禄12年(1699)の災禍後徐々に復興されたもの。市指定有形文化財の地蔵堂内陣の天井は,花鳥などが描かれた格子天井で,欄間の彫刻,外陣天井の画などの装飾が見事である(安永9年(1780)の建立とされている)。
 また,境内の一角には天正19年(1591)11月,家康から寺領十石と寺中不入(支配者の検断権を拒否する意味)を認めた寄進状により門前に建てられていたと言う「守護使不入」石杭が残されている。


 中山道に戻る途中に,NHKの朝ドラ『なっちゃんの写真館』のモデルになった瀟洒な洋風建築の「鈴木写真館」がある。
仲町交差点に向かう街道筋の反対車線側に「山崎屋」といううなぎ蒲焼店がある,弘化年間(1844-48年)の浦和宿絵図にも”山﨑屋平五郎蒲焼商”とあり,少なくとも創業160年の老舗。蒲焼は浦和が発祥の地だと地元の人は自慢しているそうだ。

 『星野本陣跡』(さいたま市浦和区仲町2ー6)

 仲町交差点左に脇本陣,隣接して本陣があったという。この辺り浦和仲宿の中心である。交差点をわたる手前左角に「中山道浦和宿」と書かれた案内石塔が建てられている(ここまでが下宿,ここから先大宮方が仲宿)。
左奥のマンションやビルに囲まれた仲町公園が星野本陣跡,今は何も無い。跡地は仲町公園・菊池病院・浦和幼稚園になっている。街道に面して表門,土蔵,問屋場があった。星野家が問屋と名主を兼ねて代々勤めた。天正18年(1591)の岩槻攻めで,星野権太兵衛は,道案内を勤め豊臣方を有利にみちびいた功績で,苗字帯刀を許されている。明治元年(1868)と3年(1870)に明治天皇が氷川神社行幸参詣した際の浦和行在所となった(中町公園内に記念碑がある)。
 本陣は約4000㎡(1200坪)の屋敷に約700㎡(210坪)の母屋をはじめ表門・土蔵・物置・番所などがあった。表門(市指定有形文化財)だけが明治に入り市内緑区大間木の大熊家に移築されて当時の姿を偲ぶことが出来る。本陣星野家は,明治になって衰退し,やがて家は途絶えてしまった。

 脇本陣は上町に2軒,下町に1軒あったという。


 すぐ先の角を左折して市場通りの突き当たりにある常盤公園で休憩。この公園は,浦和地方裁判所跡地(昭和51年県庁南に移転 )で,赤レンガの門が往時の面影を残している。更に時代を遡り江戸時代初期の1611年までは将軍の鷹狩場御殿,以後は紀州家の鷹狩場であった場所であるという江戸から5里四方が将軍の鷹狩場,それ以遠は御三家の鷹狩場とされた。

 『ニ七市場跡』(さいたま市浦和区常盤1ー5)

 市場通り入り口に農婦が手に大根,足元にカボチャを置き商いをしているブロンズ像がある(左写真。この通りの北側にある慈恵稲荷の社頭で戦国時代以来昭和初期まで毎月2と7の日に市が開かれ,農産物や各種生活必需品が取引された。昭和55年その歴史を偲ぶため「市場通り」の愛称がつけられた。市は上宿が2日・7日,中宿が7日・22日,下宿が12日・27日に開かれた賑わったという。

慈恵稲荷への横道入り口に,豊臣秀吉の小田原攻めの際,家臣であった浅野長政が人心安定の為市を開くことを許した天正18年(1590)の「御免毎月ニ七市場定杭」と刻まれた石碑がある。
近郊の蕨(2・6)鳩ヶ谷(3・8)与野(4・9)大宮(5・10)でも市が立った。


 【慈恵稲荷】(常盤1-5-19)
社殿手間右側には,富士山・大山・引又道(志木道の意)と刻まれ庚申塔がある(天保12年の字が読み取れる))。二・七の市のあと,行商人達は三・八の市が開かれる引又宿に移動したと思われる。
 
 【成就院】(常盤1-4-23)
慈恵稲荷のすぐ北側にある真言宗豊山派の尼寺,元禄年間建立の六地蔵が彫られた石塔,延命地蔵,頭痛除け観世音菩薩がある。

 新浦和橋高架と交差する手前に,重厚な「出桁造り」(宿場町や商家町などに見られる造りであり,農村においては庄屋の母屋などに用いられるもので,寺院建築の組み物のように桁の木口を美しく並べた贅沢な建築意匠である)の商家が残っている。伊勢屋酒店(現在は廃業)である。一階の軒下が広い構造,2階の太い梁と桁が目を引く,明治21年の大火後競って建てられた瓦葺き商家だが,いまや続々とマンションに代っている。

『浦和一里塚』

中山道が,東北線・高崎線・京浜東北線を越える【浦和橋】付近に一里塚があったというが今はその痕跡は何もない。江戸日本橋から六里目,昭和初期まで街道の両端に五間四方の塚に榎木が植えられていたが,鉄道の踏切りから架橋に代った際に,取り払われ跡も碑もない。

しばらく京浜東北線に沿って,「中山道遊々通り」と呼ばれている道を進む。
まもなく,京浜東北線北浦和駅東口を通過。右 岩槻へと向かう道路が分岐いわゆる追分である。
350mほどで
郭信寺に着く。
入り口にサツマイモの女王紅赤の発祥の地の看板がある。
説明碑文によると以下の如し
江戸時代以来関東ではサツマイモといえば川越の「アカツル」「アオツル」が代表。明治31年木崎村針ヶ谷の農家の主婦山田いちさんが皮の色が濃い紅色の新種を発見。これは栽培していた「八ツ房」の突然変異したもので、色のみならず形も味も良質であった。甥の吉岡三喜蔵が「紅赤(俗称金時)」と命名し普及に努力し関東一円に広まった。昭和6年いちは、当時農業の発展に貢献した人に贈られる「富民賞」を受賞。平成10年発見から100年を記念し山田、吉岡家の菩提寺である当寺にこの説明碑が建てられた。
 
 『郭信寺』
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 浄土宗。浦和郷一万石の代官中村弥右衛門尉吉照が,旧主高力河内守清長(岩槻城主)追善の為建立した寺。本堂・地蔵堂・鐘楼がある。樹齢300年と推定されるカヤの木(写真右)は見事である。

 本尊の木造阿弥陀如来座像(座高88cm、膝張70cm、寄木造り)は県指定文化財。境内には名前がいかにもお寺さん経営らしきの「厚徳幼稚園」があり園児の元気な声が聞こえてくる。


 『一本杉の碑』

 針ヶ谷3丁目付近の街道脇に何代目かの小さな杉の木がある。
文久4年(1864)正月の朝,ここで仇討ちが行われた。討たれたのは千葉周作門下,丸亀の浪人河西祐之助,討ったのは水戸家家臣宮本鹿太郎ほか4名。
 河西は宮元の父を討った後,僧となるために江戸に向かう途中だった。河西を哀れんだ村人が供養塔を建てたが,今は失われてしまっているという。
 討たれた方の墓が郭信寺にある。
 敵討ちは,その身分が武士であること,討たれた人が主従関係の目上の者かそんぞくに限られた。しかし江戸時代の後半には武士道に関係のない百姓や女子による敵討ちが発生した。

 『与野半里塚の大ケヤキ』

与野駅前の交差点の中にある。江戸から六里半,半里塚は珍しい。大きな欅が健在である。

 『六国見』

 半里塚から先は,ケヤキ並木が続く。昭和42年の埼玉国体を記念して200本のケヤキが1.5kmにわたって植えられた。この辺りは昔は野原の中の一本道で,相模国の富士,信濃国の浅間,甲斐国の赤石・秩父,武蔵国の多摩,下野国の日光,上野国の妙義・榛名の山々が見え六国見と呼ばれた。
「富士・浅間・甲斐・武蔵・下野日光・上州伊香保など鮮やかに見えたり」と木曾名所図会にもあるという。しかし今はビル群に囲まれ,眺望は全くきかない。


 『高台橋跡』(さいたま市大宮区北袋町1丁目)

 三菱マテリアル研究所の敷地を右手にみて進む。左手には高層建物が林立する「さいたま新都心」が見えてくる。今も次々と新しい高層ビルが建設されている。東京都心の官庁街の一部がそのまま引っ越してきているという,近い将来埼玉県庁も移ってくるそうだ。

 さいたま新都心駅前にさしかかる手前,右手に鵠沼用水
高台橋の説明板がある。
「鵜沼用水」は,将軍吉宗が享保13年(1728)見沼代用水西縁を掘削した折に掘られ,西側(現在の新都心・与野方面)に広がる低地への灌漑用水跡。昔は土橋が架かっていたが今はなくコンクリートで埋められていて歩いていても気づかないが,さいたま新都心駅の1番ホームからフェンス越しに見ることができる。中山道から上流は暗渠となり,「高沼遊歩道」として整備されている。江戸時代,一帯は原っぱで「下原」と呼ばれ刑場があった。刑場は宿場の外側に造られるのが慣わしだという。明治元年(1868)に明治天皇が氷川神社に参拝した際に地元から嘆願書が出され刑場は廃止された。

 左:火の玉不動
 右:女郎地蔵
歩道の脇に祠がある,二体の石仏。
 右は女郎地蔵 
 材木屋の若旦那と夫婦約束した大宮宿の遊女の千鳥が,大泥棒に見初められ何が何でも身請けすると迫られ思いあまってこの橋から身投げしたという。これを哀れんで人々が地蔵を建立したという。
 左は
火の玉不動
 刑場の無縁仏の供養塔。毎夜この橋付近を火の玉が飛ぶのである男が斬りつけるとキャッと声がして消え,暗がりにいた不動明王と名乗る男が「剣を斬りおとされた」と言い消えた。高台橋に行って不動を確かめると剣を持っていなかった。という高台橋にまつわる話。



 
(12:50)さいたま新都心駅前の「銀蔵」という店で昼食。
昼間から生ビールを所望した方が2名,昼間から飲んだらだるくなってもう歩く気が失せるし何よりおしっこが頻繁になって歩くどころではなくなるわたしは,とても付き合えない。
(13:40)再び街道に戻り北上。すぐに氷川神社参道の分岐地点に到る。


 『武蔵国一ノ宮石柱&一の鳥居』 (さいたま市大宮区吉敷町2-9)
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左氷川神社参道入り口 
右手に赤い鳥居が建つ氷川神社参道が分岐する。ケヤキ並木の参道が社殿前まで18町(2km)も続く。江戸時代は松,戦前までは杉並木であったという。この参道が江戸時代初期のほんの数年間中山道として,神社手前で左に回りこみ今の中山道へと続いていた。神社の参道を街道筋として利用するのは恐れ多いと寛永5年(1628)関東郡代伊那忠治の指揮で「一の鳥居」手前から現在の京浜東北線と並行する中山道になった。

 鳥居の横には大きな 武蔵国一ノ宮石柱が建つ。


 『安藤橋跡』 (さいたま市大宮区吉敷町1-103)

 氷川神社参道から分かれて中山道を北に進むと最初にある大きな交差点が吉敷町交差点。ここかがかつての大宮宿の南の入り口である。

 昔は東西に流れる排水路があり,橋が架かっていた。橋の名は「安藤橋」名の由来は,江戸時代大火の時に御用金や御用米で人々を救った勘定奉行安藤惟要(これとし)。独断で行ったために責任を問われて切腹した。人々が,その徳を称えて墓碑を建て,橋の名を「安藤橋」と命名したという。交差点の脇に小さな石碑が建つ。


 『塩地蔵&子育て地蔵』 (さいたま市大宮区吉敷町1-92)

 至誠堂ビルの先の路地を右に入ったところに鎮座するのが塩地蔵。 妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が大宮宿で病に倒れ,日一日と重くなった。ある夜夢枕に地蔵尊が現れ二人の娘に塩絶ちするよう告げた。娘は早速実行し近くの地蔵尊に祈ったところ父の病が全快した。そこで沢山の塩をこの地蔵尊に奉納し幸せに暮らした。と説明板にある。明治の頃までは吉敷町4丁目の鉄道敷地内にあったが,拡張に伴いここに移された。並んで子育て地蔵もある。

 『涙橋跡』(さいたま市大宮区仲町2ー13)

 さらに旧中山道を北に進み第四銀行の手前路地を入ってすぐの所にあるのが「涙橋」の碑。
正式名は「中之橋」。罪人が高台橋辺りにあったといわれる刑場に向かう時,罪人の親類縁者達がここまで見送ることを許され,ここで別れを告げたことから涙橋と呼ばれるようになったいう。


 『大宮宿』 

 人口:1508人(男679人 女829人)家数319軒
本陣:1 脇本陣:9 旅籠:25 日本橋から約7里16町(29.2km)
 寛永5年(1628)関東郡代伊那忠治により周辺農民42軒を集めて起宿された。吉敷町から土手町まで9町30間の町並み。宿場は南から下町,仲町,大門町,宮町の4町で構成された。本陣のあった仲町~大門町辺り(今の大宮駅前交差点付近)あたりが中心で問屋場,旅籠があった。また高台橋の女郎地蔵伝説からも宿場女郎も居りそれなりに繁盛したと思われる。
 はっきりいって,現在は,宿場であった面影は全く消え失せている。いかんせんこの辺りは急速に都市化されたため致し方ないことと思われる。街道筋にはそれらの史蹟の跡形もない。

本陣は,駅前から延びる大宮中央通りと旧中山道の交差点を左(つまり北に)入った宮町に在った。当初は臼倉新右衛門が勤めていた(臼倉本陣跡:現キムラヤベーカリー)が,文政年間(1818~30)以降は少し北側に移り山崎喜左衛門が勤めた(山崎本陣:現岩井ビル)。このほかに北沢家に紀州鷹場本陣(現高島屋デパート)が置かれ松本家とともに鷹場鳥見役を勤めた。
 脇本陣の記録はほとんどないようだ。


 高島屋デパートの角で一旦中山道からそれて大宮中央通り(大宮駅から東へ延びる通り)を400m程東進して氷川神社参道へ向かう。
氷川神社の参道はケヤキと桜並木道となっていて,一の鳥居で中山道から分岐したあと,まっすぐ北に向かって氷川神社へ通じている。大宮中央通りとの交差点から右手に先ほど通過した「一の鳥居」を小さく見ることができる。ここで左折して,木々の間を渡ってくる五月の爽やかの風を受けながら神社に向かう。「二の鳥居」付近右手に「さいたま市立博物館」がある。浦和宿と大宮宿に関する展示がされているが,本日は五月連休開館の代休で休館していて見られず。右側に名物「氷川だんご」を,左側に「固焼きせんべい」を売っている店がある。帰りに買っていこうかな!  しばらく歩いて,「三の鳥居」を過ぎ神橋を渡り本殿へ到着。


 『氷川神社』

 社伝では,二千年以上前の五代目の孝昭天皇3年(紀元前471)に創建したとされており,日本武尊が東征の折りに祈願したと伝わる。まさに神話の世界で実際は判然としないということだろう。
8世紀頃「武蔵国一ノ宮」と定められた。治承4年(1180)源頼朝が社殿を再興,以後時の権力者による祈願・庇護・信仰が続く。家康は江戸開幕後社参して寺領300石を寄進した(破格の扱いである)。明治元年(1868)明治天皇は東京遷都のあと神社を武蔵国鎮守と定め行幸した。そして年ごとに奉幣使を遣わした。
境内は3万坪もあり,関東に200以上ある氷川神社の総本山で,年間160万~180万人の参詣者があるという。
「氷川」の由来ははっきりしない。明治17年神社の周囲の一部が県内初の県営公園となり今では大宮公園として市民に親しまれている。

 帰りは,名物「氷川だんご」をひと串(100円也)を頬張りながら,二の鳥居から”一の宮通りを通って一番街付近で旧中山道に入り,本陣跡付近を通り大宮駅へ(15:45)解散
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