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中山道69次を歩く(第6回)大宮宿~上尾宿  008年5月24日 
(歩程 17,400歩 約10.5km)

午前10時JR高崎線大宮駅集合。総勢22人。

 神田須田町から移転した鉄道博物館が大人気で,折からの土曜日,駅構内は物凄い人の流れである。
 東口与野寄り構内で軽いストレッチ体操をして出発。
 先ずは大宮高島屋(紀州本陣跡)から中山道を北に辿り,既に前回見た二つの本陣跡「キムラヤ&はたごや次郎」と「岩正」を通過。
 
 『栗原家の持仏堂』
(さいたま市大宮区宮町4-122)

中山道と旧国道16号とが交わる大栄橋交差点を左折して大栄陸橋(昭和40年架橋)方向へ少し行った右手にある。大宮宿脇本陣を三つも経営した栗原一族の阿弥陀堂(栗原堂・御影堂),持仏堂がある。栗原氏は甲斐武田氏の遺臣で,栗原内記と妻の木彫坐像も安置されているという。
 
 大栄橋交差点に戻り,旧岩槻街道を東へ向かってすぐ左手に東光寺がある。

 『東光寺』 

 曹洞宗約1500寺のうち十指に入る北関東の名刹。もと大宮黒塚(氷川神社の東方,産業道路脇)にあり天台宗に属していた。約800年前(平安末期),武蔵坊弁慶の師匠,山城国京都鞍馬寺の東光坊阿闍梨宥慶法師が黒塚の鬼婆々を法力をもって退散させ,鬼婆々に殺された人々を葬る為に庵を結んだことを起縁としている。500年前に梁室元棟禅師がこの地に来錫して開山,曹洞宗に改めた。徳川三代将軍家光の頃に現在地に移転。
 萬霊塔,庚申塔(1680 延宝8年)あり。
  東光寺は,中山道を往還する文人墨客が足を留めた所でもあり,漢学者上山寿山,近代漫画の祖である北沢楽天,大宮市発展の礎となった駅の誘致に努めた白井助七ら名誉市民の墓碑も祭られている。
  
 中山道に戻り北進,左手のJA共済ビルでトイレを拝借。
大宮宿はここまで,土手町に入る。北隣りに大きな椎の木が2本。往時の旅人はこの椎の木を目当てに北から大宮宿を目指したという。
 JR宇都宮線との立体交差手前100m付近で右手から,氷川神社経由の旧中山道が合流する。

椎の木の大木 氷川神社からの古中山道,石塔に「官幣大社氷川神社」とある。
 『八百姫大明神』(さいたま市北区植竹町1-197)
 大宮中央総合病院の先,スーパーマルエツの前を右折,東大成町と植竹町とのちょうど境の道路際に八百姫大明神が祀られている。お堂の中には、嘉永7年に再建されたといわれる「八百姫大明神」の石碑がある。八百姫は,人魚の肉を食べて八百歳まで生きたといい,ここに しばらく滞在していたという伝説が残る。

 『石上(いそのかみ神社』(さいたま市北区東大成町2)
  中山道筋から西へ横道を入ったところに小さな祠がある。
  江戸時代の中山道の絵図にも載っている古い神社。疱瘡の神様として人々の信仰を集めてきたもので,今日のように医学が発達していなかった時代には,疱瘡の伝染は大変恐れられ,村人は他村で疱瘡が発生すると村内へ伝染しないよう,また伝染しても軽く済むように神社を祀った。戦前まで露店が出るほどの賑わいを見せたという。
 毎年4月5日が祭礼日。

 『安政七年の道しるべ』(さいたま市北区東大成町2)

 安政7年(1860)建立の道標で,「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越 道」と彫られており,中山道から西へ分かれる道の存在と行き先を示している。 大山は神奈川県伊勢原市の阿夫利神社,御嶽山は東京都青梅市の御嶽山で信仰の道を示しており,大山参りは男子が15~20歳になると一人前と見なされ村の大人と共に参拝した。
 与野・引又[ひきまた](志木市),川越は産業や交易の中心地として栄えていた。大成地区からも毎月の市の日には長芋・麦・米を売りにでかけるたものと思われる。
 保健センター入り口交差点の右側「ロッテリア」の前の歩道上にある「馬頭観音」と「地蔵(安永六年上尾と刻み込みあり)」の二基の石塔を見てさらに北へ進む。
 戦前は競馬場→中島飛行機工場(ゼロ戦の部品を製造した),戦後は富士重工工場だったという広大な敷地が,再開発され北区役所などが入る建物もある「プラザノース」を右手に見ながらおよそ7・800mほど行くと東北&上越新幹線の高架橋が見えてくる。その手前左手にある小さな祠に立ち寄る。


 『東大成庚申塔』&『猿田彦大神』(さいたま市北区東大成2)
 元禄10年(1697)建立。高さ142cm・幅45cmの庚申塔で,江戸時代前期の元禄10年(1697)に建てられた。正面に青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻されている。
地元の井上・清水・黒須・吉田・坪井・小川など14名と,おまつ・お加めなど22名の女性の名が刻まれ,平方村(上尾市)の石屋・治兵衛に注文したもの。地元では”耳の神様”と大事にされている。 庚申講は春3月と秋の収穫後に行われていたが,太平洋戦争で一時中断し戦後に復活し,現在も年1回の講が開催され昔からの伝統が受け継がれているという。  
 
 当庚申社猿田彦大神は,天孫降臨に際して其の道案内をしたとも言い伝えられ,道中往来の無事を見守る神として地域で生活を営む人々はもとより大勢の人々の信仰を得ている。

 新幹線高架橋をくぐり,国道17号を渡りしばらく行った「仲屋バス停」付近が日本橋から8番目の一里塚があった場所だというが,いまはなんの痕跡も残っていない。

 宮原3丁目663-1212付近で「橋の供養塔」を見て,宮原駅前「桜井」という鮨処で昼食&休憩。

 
12:40 午後のウォーキング開始。
 天神橋バス停付近に「天神橋」と記された欄干様の石碑あり。
 宮原駅から淡々と歩く。約700m右手に在るのが加茂神社。

 
 『加茂神社』(さいたま市北区宮原町4-8)

 英泉の木曾街道の絵に描かれて有名な神社。今は幟もなく静かな神社である。京都賀茂神社を勧請したと伝わる加茂宮村の鎮守。
 祭神は別雷命(わけいかずちのみこと)・倉稲稲魂命(うがのみたまのみこと)・伊弉諾命(いざなぎのみこと)・菅原道真公で,何でもご利益があるというオールラウンド神様である。
 勧請の年代は不明だが,社前に宝暦3年(1753),弘化2年(1845)と刻まれたもの,また文政10年(1827)御屯宮と刻まれた石灯篭がある。本殿の巧緻な「競べ馬」彫刻は絶品である。

本殿の競べ馬彫刻 上尾宿加茂之社<英泉画>
加茂の社の隣,一家総出で籾を精選する絵

 宮原小学校手前を左折,住宅と畑が混在する一画にあるのが「石尊大権現」この辺りは,鍛冶屋さんの多かった地区だという。
 中山道に戻り,歩道橋を渡った東側にあるのが宮原小学校。校庭に樹齢100年,樹高15mほどの「センダン」が花を咲かせていた。開校当時,教鞭をとっていた一教師が帰省した折り,郷里の高知から苗木を持参して植えたものといわれる。
 宮原小学校からおよそ1km弱をひたすら歩き,
南方神社(さいたま市北区吉野町2-251)で休憩。花は終わっているが”えご”の大木が数本あり,樹間を伝わってくる風が心地よい。

 更に400mほど北へ進み,さいたま市北区別所町1125「河村屋」という漬物屋さんに寄り,”坑血栓作用あり”というキャッチフレーズを掲げた「玉ねぎのお漬物(ワイン漬け)」をお土産にもとめる。
 ここから上尾市に入る。

 『庚申塔(道標)』 (上尾市栄町1)
 馬喰新田バス停のすぐ脇にある川越道の道標を兼ねた庚申塔。歩道には中山道の道標がある。正面には青面金剛が彫られ横に「是より秋葉へ十二町 ひご方へ壱里八町 川越へ三里」と刻まれている。関西12年(1800)に建立されたものだという。 右に「コーセー化粧品上尾工場」,左に量販店「バリュープラザ」・横浜ゴムなどが立ち並び車・人の往来が激しくなった道を進む。
 上尾陸橋交差点を過ぎて左手にある「愛宕神社」(火の神様。入り口脇には,珍しく傘を付けた庚申塔がある)を参拝。この付近は往時は松並木の街道であったというが,戦時中燃料用に総て伐採されてしまったという。
 上尾市愛宕町1-17 原眼科医院の辺りが「日本橋から9番目の一里塚跡」だという。いまは何もない。

 町名表示が”仲町”にかわって,ここら辺りから上尾駅前にかけてが,上尾宿の中心だったゾーンに入る。

 『上尾宿』 

 江戸時代末の
 人口793人(男:372人,女:421人) 家数:182軒
 本陣:1 脇本陣:3 旅籠:41
 中山道では,比較的小さな宿であったが,宿入り口に「鉄製常夜燈」が置かれていたと言うことからかなり裕福な宿場であったと想像される。
 上尾の発展は,徳川家康が関東に入国した天正18年(1590)に始まる。
家康は後北条氏の領地であった関東の支配権を固める為に家臣団を各地に配した。上尾市付近には,牧野康成・西尾吉次・柴田康長がおり,西尾氏は上尾下に陣屋をかまえ,上尾宿をはじめ近村五千石の領地を支配した。牧野氏・柴田氏もそれぞれ五千石,三千石の石高であった。西尾・牧野氏は後に大名となり移封されていき,以後ほとんどの地域が天領・旗本領となった。
 上尾宿は中世期末の後北条時代にすでに宿駅としてあったようであるが,整備されたのは慶長7年(1602)の伝馬制施行以降で,幕府は中山道各宿にそれぞれ50人・50頭の人馬を用意させ,主要幹線路としての役割を果たさせた。

 本陣は鍬大神宮(現在の氷川鍬神社)の正面にあった(林本陣),紀州徳川家の鷹場鳥見役も兼ねていた。
 脇本陣は,白石家・細井家・井上家が努めていた。井上家の子孫(井上一夫氏)は,現在も在住し,当時の屋根瓦を塀の一部に使っている。(右上写真) ついでながら、上尾宿は、火災が多かったため、火事除けに鐘馗様屋根の上に置く風習が現在でも残っている。

 『氷川鍬神社』 

 上尾駅手前にあり,常夜灯が2基,桜などの古木が立派である。
氷川鍬神社は,明治41年(1908)に周囲の神社が合祀された後の名で,もとは江戸初期の万治年間(1658~1661)に創建されたと伝えられる御鍬太神宮である。三人の童子が鍬二挺と稲束を持ち,白幣をかざして踊り歩きながら上尾宿に来た。童子たちは鍬を残し,いずこにか消え失せてしまったという。残された鍬を祭ったのが,神社の起源と伝えられご神体は小鍬である。地元の人たちは,お鍬さまと呼び親しんでいるという。 
 門前に中山道上尾宿と本陣の案内板がある。
 
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