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中山道69次を歩く(第7回)上尾宿~桶川宿  008年6月5日 
(歩程 13,000歩 約8km)

午前10時JR高崎線上尾駅集合。総勢14人。
 上尾駅東口駅前の「まるひろ」デパート前からスタート。
中山道を北に向かって最初の信号を右折し突き当たったところが遍照院。

 『遍照院』(上尾市上町一丁目6) 真言宗智山派(3000寺) 日乗山秀善寺遍照院。大きなお寺であるが,現在本堂修復中,境内の舗装工事中なので,墓地のみを観る。
 
 本尊は,平安中期の作といわれる不動明王で,高さ30cm程度の立像,右手に剣,左手に縄を持ち,口の端に二本の牙が出ているという。20石の御朱印地を領した由緒ある寺である。
遊女お玉の墓
『氷川鍬神社』に,ニ賢(菅原道真・朱文公)を祀った聚正義塾を開いた山崎武平治と遊女お玉の墓がある。

 遊女お玉は新潟の貧農の生まれで,11歳で自らこの宿の大村楼の遊女になる。心優しい上に美しく,頭も良くお客の評判は高かった。前田家の小姓に見初められ江戸に住むが,わずか20歳で病に罹り他界した。大村楼の主人が日頃のお玉の孝心に心を打たれここに立派な墓を建てたという。遊郭の主人が一女郎のために墓を建てるということは大層珍しいことである。墓石には「廓室妙顔信女」の戒名が彫られ,その横にいわれが書かれている。
 
 街道に戻り,”図書館西”という交差点の手前右手道路縁にあるのが

 『上町庚申塔』 

上町庚申塔
  右手に”丈”,左手に”ショケラ”といわれる髪の毛を持ち,台座には鶏や猿が掘り込まれている。
 ”緑ヶ丘地下横断道”交差点の手前右手角に上尾宿の案内板があり,ここが西の木戸。上尾宿はここまで。
「北上尾駅入口」交差点を右折して,ショッピングセンター「PAPA」でトイレ休憩。
再び街道に戻り北進。
この街道は現在,県道鴻巣・桶川・大宮線と呼ばれかなりの車が行き交う地域生活道路となっている。(昭和39年頃までは国道17号であったという。ということは,東京オリンピックの開催されたその年の秋,わたしは,新潟から東京へ向かう小型トラックに便乗してここを通っていたことになる!)
 およそ1km北上して「久保西」交差点右手前に立派な土蔵が見えてくる。


 『須田家』(上尾市緑ヶ丘3丁目4-9)
須田家は,武州紅花仲買いで財を成した。
川越を含めたこの辺り一帯は,1700年代の終わり頃から山形最上地方より温暖で一ヶ月近くも早く収穫できること,米の数倍も儲かることなどから紅花の生産が盛んとなり,「桶川臙脂(えんじ)」の名で全国ブランドとなり品質の良さで最上産を凌ぎ,最盛時には1000戸くらいの農家が栽培したという。
 明治以降化学染料に押されて今は観賞用,お菓子,染色などに僅かに使われたり紅花祭りなど観光資源として活用されている。
 須田家には,古文書,紅花仕入帳など紅花関係資料が多く残っており,市文化財に指定されている。

 上尾市と桶川市の境界付近である上尾市神明町・上町付近に,もともとの桶川宿があったという。またこの辺り一帯は紀州藩の鷹狩場でもあったそうだ。
 富士見通り交差点の手前右手(上尾市上11-30)に240年前の庚申塔がある。通称「富士見町庚申塔」,比較的シンプルな庚申塔である。

 富士見通り交差点から桶川市となる。右側が「桶川市東2丁目」,左側が「桶川市南2丁目」である。
 
『桶川宿下の木戸址碑』(桶川市東2丁目1)
 桶川宿の江戸方入り口の碑。市指定旧跡,町屋(集落)の境界を示す。
江戸幕府は,街道の治安を維持するために,各宿場の出入り口に木戸を設けた。当時の桶川宿の下にあった木戸を示す碑がたっている。木戸は現存していない。 ここから桶川宿である。


 この先の信号機のある交差点(左川越方面)を右折して100mほど行った左手,現在は廃業したらしきお蕎麦屋さんの店先脇に小さな祠がある。文化7年(200年ほど前か?)のこれまたシンプルな造作の庚申塔がひっそりと立っている。

 『桶川宿』  人口1444人(男:717人 女:727人)家数:347軒 本陣:1 脇本陣:2 旅籠36
 桶川の由来は広い田畑の方向を示す「沖側」の意味。芝川,鴨川の水源になっている湿地の多い土地で「川の興きた町」の意味のニ説があり,後に桶川の字を当てた。
 桶川宿は中山道のほか,日光御成道の岩槻へ通じる道や川越へのわき道もあり,交通の要衝であった。また紅花・大麦・さつま芋の生産地かつ集散地としても繁栄した。
 「桶川宿歴史再発見マップ」 で主な旧跡の位置関係が分る。


『武村旅館』(桶川市南1-8-8)
江戸時代末期に在った36軒の旅籠のうち唯一残っている旅館。
嘉永5年(1852)に建てられ,同年,紙屋半次郎が「紙屋」として創業し,後旅籠を経営。当時は1階建ての6部屋であったが現在は改築して2階建て,当時の間取りをしっかりと残している。
 明治初年,板橋宿の旅籠武村が引き継ぎ武村旅館となった。創業200年の現役旅館である。但し,泊まれる部屋は,奥の方の新館であるという。

 『浄念寺』(桶川市南1丁目6)
 天文15年(1546)に開かれ,桶川宿の下の寺と呼ばれる浄土宗の寺院。
鐘楼門は,元禄14年(1701)に再建され,桶川最古の建造物である。鐘楼にあった鐘(寛保元年(1741))は,桶川宿の「時の鐘」であったが,悲しいことに太平洋戦争で供出されていまあるのは昭和41年製造のもの。仁王像は明和5年(1768)開眼。
 また境内には「不動堂」「太子堂」「徳本念仏供養塔」「板石塔婆」など,宿場の人々の暮らしを偲ばれるものが数多く伝えられている。

【板石塔婆】
 最も古いものは,1515年,最も新しいものは1550年のもの。
板石塔婆は,13世紀はじめの鎌倉時代から16世紀末の江戸時代初期にかけて,死者に対する追善供養や死後の極楽往生を願って建てられた供養塔の一種で全国的に見られる。
 
 関東地方では,長瀞周辺や群馬県鬼石付近の緑色結晶片岩(いわゆる三波石(さんばせき))を利用したものが多く「青色塔婆」とも呼ばれている。
 この時期,武士達の間に鎌倉仏教が広く信仰され,武蔵武士が多く住む埼玉県内には,約2万基にのぼる板石塔婆があり,質・量ともに全国一であるという。
 桶川駅前交差点付近の 割烹「いしづか」で昼食。
腰の強い手打ちうどんと天婦羅に舌鼓を打つ!!

 
12:40 桶川宿の残りの旧跡を巡るウォーキング開始。
駅前交差点を渡って北へ。
「小林材木店」→「中山道宿場館」→「本陣」→「矢部家蔵造り商家」→「島村家三階建て土蔵」→「桶川稲荷神社」→「市神社跡」→「大雲寺」→「一里塚跡」→「レンガ造り倉庫」→「上木戸跡」→「松山道道標」の順で桶川宿を見学する。

『旧旅籠 小林材木店』 (上寿1丁目14-11)
 江戸時代の終わりから明治の初めに建てられたものと考えられている。古久(穀)屋吉右衛門の名を記した棟札が残されているという。
現在は材木屋さんと喫茶店として使われており,屋根などが一部改装されているが,大きな旅籠の面影が残されている。

 道を挟んで向かい側にどっしりした土蔵がある。

『矢部家の蔵造り商家』 (寿2丁目1-10)

 かつて,「木半」の屋号で知られた紅花商人矢部家の蔵造りの店。明治前期に川越の蔵造り商家を建てた棟梁の手になるといわれている。当時の紅花商人の富を物語っている。
”木半”は木嶋屋半七に由来する。


 「中山道宿場館」は,桶川宿に関するいろいろな資料が展示されている御休み処・観光案内所である。若い(らしく見える)女性が丁寧かつ愛嬌よく対応してくれた。紅花の種を戴いたので,来春,種蒔きして6月末ごろ我家の庭を賑わしてくれることを待つことにしよう。

ここら辺りは,桶川宿の中心地で「本陣」,二つの「脇本陣」が近接して立ち並んでいた場所である。

『府川本陣遺構』(寿2丁目2-4)


 本陣は代々府川家が勤めた。脇本陣は,内田家と笠武家が勤めた。敷地は千坪あまり,建坪も二百坪に達していた。
 瓦葺・切妻建物の一部(上段の間・次の間・湯殿)が現存している。
一般には公開されていない。
 幕末には水戸藩主徳川斉昭が宿泊,孝女和宮も一夜を過ごした。門の脇に「明治天皇桶川行在所」の碑がある。


『島村家三階建て土蔵』(寿2丁目1-4)

木嶋屋を屋号とする麦とべに花で身代を築いた穀物問屋島村家の当主が,天保の飢饉に際し,人々に仕事を与える為建てたので,「お助け蔵」と呼ばれている。
桁下六間,梁間三間の木造三階建てで1836年建築と伝わる。封建社会の中で3階建ての建物を造るのはかなりの財力と権力をもっていないと出来ないことだという。
 当代当主が内部を案内してくれた。
内部には島村家代々の家族が使っていた生活用品(長火鉢・煙草入れ・鏡台・長持ち・火鉢・農耕具・そろばん・天秤計り・食器・古銭・屏風・麻蚊帳・屏風・雛人形・・・・・・・)がどっさり展示されている。
 幅4~50cmもあるかという梁材に圧倒される。

 当主の言によると,先年屋根を修理するのに1千万円かかった,全部自腹である,重文指定でないとビタ一文補助金が出ないとのこと,いつまで保存できるか?息子の代にはどうなることやらとぼやいていた。

東和銀行手前の信号のある交差点を右折して「稲荷通り」を150mほど東進して再び右折した左手にあるのが
『桶川稲荷神社』 (寿2丁目14-13)
 創建は1134年とも1225~27年ともいう。1693年桶川宿の鎮守となる。境内は4000㎡もあるとか,とにかくだだっ広い。
拝殿の前面に桶川宿を拠点に活躍した紅花商人24人の名(伊勢屋平兵衛・木嶋屋源右衛門・矢部半右衛門・須田大八郎・騎西屋安右衛門等など)を刻んだ石燈籠2基がある。この石燈籠は,安政4年(1857)に南蔵院不動尊に寄進されたが,廃寺に伴い明治4年(1871)稲荷神社に移された。上尾・桶川一帯は,武州紅花の産地として有名で,桶川臙脂と呼ばれて江戸や京都で珍重された。

 境内には力士(三ノ宮卯之助)が持ち上げたという610kgもある力石があり,「大盤石」と刻まれ卯之助・世話人のほかに紅花商人の名が刻まれている。


 中山道に戻って,東和銀行桶川支店前。

『市神社跡』 (西1丁目8)
五と十のつく日に路上で農産物の取引が行われた「五十の市」と宿内の人々を守る神として祀られた。
1876年に交通の妨げになるとして,稲荷神社に移され八雲神社として祀られている。

『大雲寺』 (西1丁目)
曹洞宗。龍谷山大雲寺。1557年開基。
本陣府川家の菩提寺でもある。
 境内に三体の地蔵があるが,そのうち一番右手が「女郎買い地蔵」
宿の飯盛り女を買いに出かける地蔵に,住職がその背中に鎹(かすがい)を打ち込んで鎖で縛ったと伝えられている。背中に鎹が本当に残っている。(台座に正徳3年(1713)の銘がある。この話,女郎買いに出かける若い僧に対して,わざと地蔵に罪をかぶせて戒めたという裏がある。

『一里塚碑』 (西1丁目1)
江戸から10里目,「北一丁目歩道橋」の西詰めに石碑があったというが,トラックが突っ込み,その石碑すら跡形もない。

『レンガ造りの蔵』 
歩道橋を渡って(実際は皆で渡れば怖くないの伝で,道路を横断)街道の東側の横丁を少し入ったところにレトロ調の赤レンガ造りの倉庫風建物が2棟ある。埼玉県は意外と酒造りの盛んな所で,酒蔵として利用された建物だという。今,何に使われているのか?
レンガは当然のことながら深谷の日本煉瓦製造㈱製と思われる。

『上の木戸跡』 (西一丁目12-10)

 「桶川市役所入り口」交差点の南東角に「木戸跡」と刻まれた石碑が建てられている。
文久元年(1861)に,孝女和宮の通行を迎える前に木戸を立て直したという記録が残されているという。高さ1丈8尺,幅8寸の角材で柵を作ったものであったという。

 
『松山道道標』 (西一丁目4-29)
 日本橋にあった小田原町の魚市場の人たちが,天保7年(1836)に「上の木戸」辺りに立てたと言われている。
「松山以奈り道 本小田原町」 「天保七年丙申三月七日」と刻まれていて,碑文の中には「魚」の字が図案化されている。
 松山道は,戦国時代,松山城と岩付(岩槻城)を直接結んでいた道。中山道から西に分かれ,下石戸村(現=北本市)を過ぎ荒川の渡しを経て松山(現=東松山市)に通じていた。歴史ある神社が点在しているという。


昼前から雨,午後は強くなるとの天気予報だったが,その雨も,一瞬陽が照ることがあるほどで,強い降りにも逢わず,15時前JR桶川駅到着後解散。
 江戸時代の旅人は,江戸から桶川宿までを,一日で歩くのが普通だったという。実に健脚である。
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