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中山道69次を歩く(第8回)桶川宿~鴻巣宿  008年6月19日
(歩程 21,000歩 約12.5km)

午前10時JR高崎線桶川駅集合。総勢15人。
 この辺りまで来ると,やっと首都圏を脱出しかかったという感じで,田園風景がチラホラ目立つようになる。
 桶川宿を出て,相変わらず交通量の激しい旧中山道の真直ぐな道を黙々と北上し,およそ1.5kmほどで北本市に入る,往時,二軒の茶屋があったことから
「二ツ家」という地名が残る辺りは,原野が続く寂しい場所であったらしい。欅の屋敷林をもつ大きな敷地の旧宅が目に付く(ちなみに欅は”埼玉県の木”である。)二ツ家交差点には将来「圏央道」が中山道を横切るように計画されている,数年経ったら町並みが大きく変っていることだろう。
 桶川~北本~鴻巣辺りは,梨・葡萄の産地でもあるという。荒川と元荒川の低湿地帯の中間の地形的な高まりに集落と農耕地が形成され,中山道が通過していることになる。


 『北本宿』(北本市本宿1-108)
昭和35年頃の旧中山道
北本農協中丸支所から鴻巣方面を望んだもの。当時の国道17号線である。

 桶川からおよそ3kmほどの本宿交差点を渡った左手角に旧北本宿の説明板がある。現在の北本の元となる街並みが造られたのは,江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりで,この地はその頃は本鴻巣村と呼ばれていたが,文禄年間(1592-96),現在の鴻巣駅付近に徳川家康の宿泊施設である鴻巣御殿が建てられたことや宿間距離の不均等を正すなどの理由で宿は鴻巣に移された(1602)。以降,最初に宿駅があった一帯は元の鴻巣という意味で「元鴻巣村」と呼ばれ元禄年間(1688-1704)になるともともとの宿場ということから本宿村と呼ばれ北本の名の起こりともなっている。

 街道沿いには旅籠や店は無く,本宿村の下茶屋と東間(あずま)村の三軒茶屋の2箇所に立場がおかれ人馬はそこで喉の渇きや旅の疲れを癒したという。
 
 本宿交差点から更に500m程進み多聞寺交差点に至る。旧中山道はここから左斜めに現在の北本駅前を通過し,高崎線の踏切りあたりで線路の西側に渡るルートであったという。駅前付近にはその斜め道の形跡が明らかに残っている。

 『天神社,多聞寺』(北本市本宿2-8)

 天神社は菅原道真を祀る。学問の神様として,湯島天神にならい,絵馬が売られている。寛文2年(1662)頃,名主岡野家が京都の北野天満宮の分霊を勧請して祀ったのが始まりと伝えられている。
ムクロジの巨木

多聞寺は真言宗。智山派。本尊は毘沙門天立像。万治4年(1661)の開山。
境内のムクロジ(推定樹齢200年)の木は県指定天然記念物である。蛇・邪悪・鶏・猿の描かれた庚申塔がある,文化12年(1815)に,長寿を願い,当時の本宿村の人々によって立てられたものである。。
 
 北本駅入り口交差点から400m北へ進んだ右手にあるのが勝林寺。

  『勝林寺』(北本市東間2-32) 

浄土宗。久運山勝林字。
寛永元年(1624)関東郡代,伊那忠次の三男であった日譽上人により建立されたと言われている。境内には六基の馬頭観音が立っていて,この中に馬の顔が線刻で描かれた珍しいのが2基もあり目を引いた。
 いずれも,飼い主が死んだ馬のために建てた供養塔である。馬は農家にとって如何に大切な労働力であると共に,家族の一員でもあったことが分かる。


 街道沿いの「夢庵」というファーストフード店で昼食。
 13時,一旦駅方向へ戻って「ガスト」のある交差点を右折,高崎線踏切を渡って,線路沿いに
250mほど北へ向かった左手に小高い塚がある。

『馬室原一里塚』 (鴻巣市小松4-1)

日本橋から11番目の「馬室原一里塚」の跡である。
江戸時代初期まではこのあたりを中山道が通っていた(古中山道と呼ばれている)。その後ルートが今の旧道に変わったもので,それが返って幸いして,古い一里塚はもとの位置に残ったという貴重な遺構である。久方ぶりの現存一里塚である。こんな例は,御代田の一里塚等ほかにもあるという。

 頂上に小さな稲荷神社の祠と埼玉県足立郡馬室村大字原馬室と記された石碑が建っている。
 元々は東西両塚であったが,東塚は,明治16年(1883)高崎線敷設の際,取り壊された。県指定史跡,鴻巣市教育委員会の説明板がある。

 古中仙道のここから北方へのルートは失われてしまってよく分らないという。

再び旧中山道に戻り昼食を摂った「夢庵」のほぼ斜め向かいにある浅間神社に参拝。
『東間浅間神社』(北本市東間1-8)

 御祭神は木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)。安産・子育ての神社で,夏祭りは6/30,7/1というチラシが張ってあった。出世初山と称する神事があり,新生児の参拝で賑わうという。

 平成17年6月1日,不審火により築後200年の本殿が全焼したが,東間1~8丁目の氏子たちの厚い信仰を受けて昨年6月再建竣工した。境内にはムクノキ,アラカシなどの巨木があり深閑とした空間を造っている。
 
『鴻巣宿』
 
 
(13:40) 深井2丁目交差点を過ぎて鴻巣市へ入る。
鴻巣宿は江戸時代から雛人形の産地で関東三大雛市として栄えてきた。本町8-5より北本寄りの交差点に「これより鴻巣宿」という新しい道標がある。


 人口2274人(男:1132人 女:1142人)家数:566軒 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:58(現在は4軒の商人宿のみ)
 日本橋から12里8町(約48km)

 慶長7年(1602) 本宿村の宿場を移して鴻巣宿と改称された。
本陣は野口家が勤めたといわれており,天保4年(1833)銘の庚申塔が本陣跡と推定されている。
鴻巣の由来は,昔この地に大木があった。祟りがあるので人々は「木の神」と崇め酒食を供えて祀っていた。ある時,この木に「こうのとり」が来て巣をかけたところ大蛇が来てその卵を飲み込もうとしたので「こうのとり」は突付いて殺してしまった。それから木の神も祟りが無くなったので村人は喜んで社を建て「鴻の宮」と称した。それ以降,鴻巣と呼ばれた。近くに清和源氏の祖となる源経基の館跡がある。

 『雛人形の町 雛屋歴史資料館 (鴻巣市人形)

 鴻巣の町に入るとすぐ雛町で,中山道の両側に「雛」という旗がはためく。
鴻巣は江戸時代より雛人形の生産地で江戸の十間店,武州越谷と共に「関東三大雛市」として栄えた。

 鴻巣人形は,江戸時代に京都の伏見人形師が移り住み作ったのが始まり。吉見屋は土蔵を「武州鴻巣雛屋歴史資料館」として公開。
土蔵造りの内部には古い鴻巣人形や,この地方独特の「裃雛」(女児の初節句と養蚕農家の豊作を願う「お繭さま」に供えられた愛らしい人形)などと共に江戸時代から現在までの雛人形や人形造りの道具・関係資料が展示されているというが,あいにく訪れた木曜日はお店と共に定休日だった。

  本町交差点の手前「武蔵野銀行」の前を左に入ったところに広大な敷地を有するお寺がある。

 『勝願寺』 (鴻巣市本町8-2)

 浄土宗大谷派の壇林(僧侶の学問研修施設で,現在の大学と本山の役割を兼務する。江戸増上寺を頂点とする18壇林の一つである)。
 広い境内には樹木が多く,山門・伽藍も立派である。現在の堂宇は本堂が明治24年,鐘楼同43年,仁王門は大正9年それぞれ再建されたもの。
江戸時代には,浄土宗の関東七大寺の一つに数えられている。結城秀康が結城から福井に転封になったとき,結城城の御殿の一部をこの寺に賜ったといわれており,寺域約6万坪に七堂を持つ大伽藍であった。

 家康お気に入りの寺で,敷地は環濠が巡らされていて”城”としての構造を有していたといわれる。また慶長9年(1604)には,二世円誉不残に深く帰依し寺領300石を贈るが,師は辞退したため30石の仏具料を寄進したという格式の古刹である。寺の屋根には徳川家葵の紋瓦がある。

 また,加賀藩が定宿としていたが,藩士が,誤って馬に跨ったまま山門を通過した際,これを厳しく咎めて宿舎を提供しなかったという事件があった。

 本堂の左手に数基の古い墓がある。戦国時代末期の武将仙石秀久,そして信州上田,のち松代の城主真田信之(真田幸村の兄)夫妻などの墓がある。
その左隣りに,芭蕉忌千句塚
があり,芭蕉辞世の句
 「けふはかり 人も年よれ 初時雨     芭蕉」
隣りの石碑には千句塚を建立した横田柳几の句碑が建てられている
  「夕暮れを こらえこらえて 初時雨    柳几」

 また墓地には関東代官 伊奈備前守忠次,忠治(伊奈家は,関八州の新田開発や河川の付け替え,、江戸湾に注いでいた利根川の東遷など水路の開削やなど土木技術に優れた業績を残している)や横田柳几(墓鴻巣宿の酒造りの豪商で柳几は俳号。碑に刻まれた文より門弟千人余を持った文化人)の墓がある。
 
堂々たる仁王門 辻芭蕉千句塚

『鴻巣御殿 』 (鴻巣市本町4-8)
 
 本町3-9 「和菓子 三木屋」の向かいの小路(御成通り)に入ってしばらく行った右手に小さな御成り神社があり,この辺りに鴻巣御殿があったとされている。ちょうど勝願寺の北隣りにあたり,徳川家康・秀忠・家光が鷹狩の際に宿泊した。
 家康の鷹狩りは1ヶ月近くも滞在して行ったことが多いので宿泊施設が造られ,時には街道も整備されたという。付近には,将軍の来訪を記念する御成町とか御成河岸といった地名が残っている。

『本陣跡,高札場,問屋場跡,市の神跡』 (鴻巣市本町1~4丁目)

 
関東型土蔵をもつ商家
町4-6の十字路を左に入って右手道路わきに猿田彦の庚申塔があり,どうやらここらに本陣が在ったらしい,今は,駐車場と仲町会館があり,その跡を忍ぶものは何もない。
 旧中山道に戻って魚屋さんのある辺りが問屋場,駅前通りとの交差点付近に脇本陣が在ったらしい。
鴻巣駅前は現在大規模開発が進行中で,ここ2,3年の間に新しい道路もいくつか出来上がって中山道の遺構はますます消滅しそうである。 鴻巣駅巣駅入口交差点から先に少し行った先左手に土蔵造りの商家が2軒ある。母屋の脇に土蔵を配置する関東型の土蔵である。

  『鴻神社』(鴻巣市本宮町1)

 古くは氷川鴻ノ宮ととも呼ばれ,鴻巣宿の名の由来ともなったと伝えられている。鴻巣宿の総鎮守として,広く庶民の信仰を集めてきた。
 明治6年に,「竹ノ森雷電社」(現在地)・「氷川社」(宮地5丁目)及び「熊野社」(宮地1丁目)を合祠したもので,もとは鴻三社といった。
 更に明治35年(1902)から40年(1907)にかけて,町内の日枝神社・東照宮・八幡神社などを合祀して鴻神社と改めた。 神社前のバス停はいまだに「雷電神社前」である。

 この社の北側に宮地→元荒川を渡って安養寺方向に向かう細い道がある。江戸時代の「日光裏街道」である。
 鴻神社で「なんじゃもんじゃの木」という思わぬものに遭遇。また。社殿の脇に大イチョウが聳え立ちコウノトリ伝説が伝わっている。

鴻神社

なんじゃもんじゃの木 
 学名「モクセイ科ヒトツバタゴ」 江戸時代
青山の六道の辻にあったというヒトツバタゴほその花の美しさが有名になったが,本当の名前が分らず「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれるようになったという。六道の辻に在った木の三代目で,毎年5月の連休頃,雪が積もったように白い花をつけるという。
本日はここまで。蒸し暑い一日であった,鴻巣駅に向かう頃から雨がポツリポツリと落ちてきた。
16時解散。
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