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中山道69次を歩く(第9回)鴻巣宿~熊谷宿  008年7月10日 
(歩程 30,500歩 約18km)

午前10時JR高崎線鴻巣駅集合。総勢9人。

 梅雨明け間近かの暑さの中での長躯18キロのウォーキングを敬遠してか参加者は9人のみ。
ポカリスェット2本をザックに入れて熱中症対策おさおさ怠り無く,前回終了地点の
「鴻神社」から歩き始める。
 鴻神社から500mほど行った右手にあるのが

 『日蓮宗妙見山池元院』
(鴻巣市加美2-7)

 宿場の有志が造ったというお寺。本堂は大正年間に修復再建されている。
鴻巣宿はこの辺りまで。

 加美の信号のある交差点を斜め左の道をとると高崎線の踏切(「第三中仙道踏切」),渡ってすぐ左手。

 『箕田の一里塚跡』(鴻巣市加美3-3)
 宮前原バス停の手前。江戸から12番目の一里塚があった所。いまは何の痕跡もない。
 
 150mほど先に

 『追分』(鴻巣市宮前4187)
 左に糠田(荒川の船着場があった)を経て松山(吉見の百穴がある所)に至る「松山道」の分かれ道である。二股の中央が”滝の家”というお蕎麦屋さん。

長い時の流れを感じさせる少し傾いた山門。境内は非公開である。
六地蔵石塔婆
南北朝時代の1362年の建立。塔身に六地蔵が刻み込まれている大変珍しい板石塔婆

 更に800mほどひたすら歩き”ふれあいセンター入り口”交差点を左折して”ふれあいセンター”の先を今度は右折すると田んぼの中にひっそりと佇んでいるのが 『勝願寺』(鴻巣市登戸369)   真言宗松岡山勝願寺。鴻巣市には,勝願寺というお寺が2つある。
一つは家康の手厚い加護を受け数々の文化財を所持し市民の憩いの場となっている鴻巣公園に隣接する浄土宗の勝願寺。
 
 登戸にあるもう一つの勝願寺は,鎌倉時代第4代執権北条経時が鎌倉の光明寺開山の良忠(りょうちゅう)にこの地を寄進し,堂宇を建立したことに始まる。このときの宗派は浄土宗で1240年代の事。

 時代は下り,天正の頃(1573~92)惣誉清厳が良忠ゆかりの地として本町に勝願寺を再興する。

 登戸の一宇は村預かりとなり諸衆の僧が住み替わり,徳川秀忠(江戸幕府2代将軍)の頃に寺領10石が与えられ堂舎が再建された。この時,住んでいた僧が真言宗であったことから真言宗に改められたと伝えられている。
 墓地には六地蔵石塔婆がある。

 街道筋に戻り,およそ400m,右手に
『箕田観音』 (鴻巣市宮前3755)
 箕嵯峨源氏の渡辺綱の守り本尊を安置していたと伝えられる平等寺があった。現在は観音堂がある。
境内には嵯峨源氏の紋である「三つ星に一文字」が随所に見られる。渡辺綱は大江山にいた酒呑童子を退治した源頼光の四天王の一人。
 本尊の観音菩薩は,一寸八分 6cm足らずの小さな馬頭観音だが清和天皇を祖とする源経基が,戦の折り兜の中に頂いていたというもので,後に嵯峨天皇を祖とする同姓の源任に与えられその後,源宛・その子の渡辺綱へと伝えられたという。
 近年まで寂れていたが,平成3年2月に箕田八幡近くの龍昌寺の住職等によって再建された。境内は広く,享保9年(1724)の燈籠や聖徳太子供養塔,街道筋にあったという石碑が多数並べられている。

嵯峨源氏の三つ星に一文字の紋


 街道筋にあるスーパー”ベルク”で一回目の休憩。
 トイレを御借りし,冷えた水を頂き一息入れる。ここでお弁当を調達する方数人。
 再び元気一杯になって街道へ。

 程なく地名が宮前から箕田にかわる。鴻巣宿から熊谷宿までは4里6丁40間(約16km)の長い距離があり,途中の箕田・吹上・久下村の三カ所には立場と称される休憩所(いわゆる間宿【あいのじゅく】)があったという。
また,箕田は嵯峨天皇の流れを汲む嵯峨源氏の支流箕田源氏など武蔵武士の本拠地でもある。

500m進んだ左手「箕田小学校」の向側に
「龍昌寺」「氷川神社」「宝持寺」など箕田源氏ゆかりの神社仏閣が建ち並んでいる。


『龍昌寺』 (鴻巣市箕田2096)
 朱印状11通,絹本着色両界曼荼羅2幅が有名。境内に多数の板碑がある。

『氷川八幡神社』 (鴻巣市箕田204)
 渡辺綱を祀る八幡社と承平元年(966)に六孫王源経基が勧請したと言われる箕田郷27ヶ村の鎮守として崇敬されていた氷川神社が,明治6年合祀された神社である。

箕 田 碑

境内には嵯峨源氏の由来を記した「箕田碑」がある。
箕田は武蔵武士発祥の地で,平安時代に多くのすぐれた武人が住みこの地を開発したこと,源経基は文武両道に秀で武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いたことなどが記されている。
裏の碑文には,安永7年(1778)に刻まれた和文草体で,
  
 「世を経ても わけこし草のゆかりあらば あとをたづねよ むさしののはら
という渡辺綱の辞世が掲げられている。

『宝持寺』 (鴻巣市箕田1361)
 氷川八幡神社の直ぐ右手奥にある曹洞宗の寺。渡辺綱が父と祖父の菩題を弔うために建立。
渡辺綱が奉納した剣がある。本道伽藍は平成18年修築されたばかり,普段は非公開とのこと。
 明治5年7月,境内に箕田小学校が開校,明治29年に現在地に移転した。

 
『武蔵水路』 (鴻巣市箕田)

 氷川八幡神社からおよそ450m行ったところが武蔵水路にかかる中宿橋。
武蔵水路は,1964年の東京の大渇水の際,時の建設大臣河野一郎の大号令によって建設された利根川から荒川に水を注ぐ人工水路である。現在では,東京の上水道の7割近くを賄う重要施設であるが,経年変化による水路の劣化,地盤沈下が著しく耐震性も甚だ脆弱な状態となっており,震災時の危険性が指摘されている。


『箕田追分』 (鴻巣市箕田47)
 武蔵水路から更に400mほど進んだところで道が二股に分かれている。
中山道の標石と説明板がある。右に延びている道は,へ(行田)~館林と続く「行田道」である。右手に,JR北鴻巣駅が見える。 
左が中山道,道脇に地蔵堂がある。
鴻巣宿からほぼ一里(約4km)ほど,旅人はここらで一休みしたのであろう,往時は立場があったという。

 箕田追分から1kmほどで左手に「吹上高校」が見えてくる。高校への入り口を過ぎて直ぐ左折したところに緑の稲穂の中に溶け込むように佇むお寺が見えて来る。

『竜昌寺』 (鴻巣市前砂948)
 曹洞宗隋流山龍昌寺。開創は寛永2年(1625)。
関東郡代伊那備前守忠次が開基旦那(布施者,寄進者)境内に多数の板碑がある。
 このお寺は,ピアノの発表会やお釈迦様の法会や地元の集会など地域の人々に解放されかつ親しまれているという。
私達も集会室をお借りして昼食&休憩をさせて貰った。


『前砂一里塚』 (鴻巣市前砂)
  日本橋から14番目。左右の塚に榎が植わっていたというが現在は味も素っ気も無い木製の標柱が立っているだけ。
 英泉の「吹上富士」はこの辺りで描かれたという。

『忍領界石標』(鴻巣市前砂)

 天正18年(1590)徳川家康が江戸に入ってその領地となった関東は,幕府直轄地や旗本領・社寺地などが入り組んで諸所で境界争いが絶えなかった。そのため各領主は自分の領域を示す柱を立てた。
 忍藩では,はじめは木材を用い御分木(ごぶんぎ)と称したが,安永9(1780)年,藩主松平正允(まさちか)の時,建て直された16の石標の一つで,中山道で隣接する中井村との境の南側に建てられたもの。「従是南忍藩」(これよりみなみ,おしはん)とある。
 原料の石材は利根川の酒巻河岸から一日50人の人夫が二日がかりで運んだといわれる。街道東側の江原家邸内の庭にある。


 吹上高校入り口から約1.5kmの地点で,JR髙崎線踏切を東側に渡り直ぐ左折してしばらく行くと旧17号に合流する(吹上本町1丁目)交差点に在るのが

『妙徳地蔵』
 縁起によると,眼病の地蔵尊で眼病の守り神として親しまれているという。
ここからが「吹上間の宿」で,吹上駅前交差点~吹上本町交差点にかけてが,
「間の宿吹上」の中心として賑わっていたというが,今はその面影は一切ない。

(13:40) 
吹上駅前交差点を通過,本日の行程のちょうど半分の9km地点である。

『茶屋本陣跡』
 吹上駅前交差点から本町交差点にかけての両側が茶屋本陣や立場があったところ。林家が「お休みの本陣」と呼ばれて大名や幕府役人が休息した。街道から横に少し入ったところに「明治天皇御駐輦址」の碑がある(明治11年北陸・東海行幸の際休憩した)。
 ここから右に「日光脇往還」あるいは「日光火の番道」と言われる街道が中山道から延びている。八王子の千人同心が交代で日光の警備をする為に通った道だという。


 本町交差点を左折,街道はクランク上に屈曲している。その右側にあるのが

『東曜寺』『吹上神社』(鴻巣市吹上本町4-14-9)
 東曜寺は箕田龍昌寺の末寺。「宝筴印塔」と「いぼ地蔵」が有名。
 吹上神社は東曜寺に隣接するお寺。日枝神社(山王社)を勧進し吹上の鎮守。明治時代に稲荷神社と氷川神社を合祀し吹上神社となった。


 ここで小休憩。
66号線の高架下に
「中山道 間の宿」の標石と説明板がある。吹上の名物は足袋に目薬、鰻だったと記されている。
歩道橋で高崎線を渡り高崎線線路沿いに進む。
およそ700mほど道なりに進むと右手に元荒川の流れを堰き止めた榎戸堰があり,周囲が小公園となっている。井戸から冷たい水がほとばしり出ていて,思わず手を浸ししばし休憩する。ここから先は荒川の土手の上を歩くことになりしばらくトイレは無い,ここには小奇麗なトイレが設置されていてなかなかの心配りである。

 荒川土手に上る手前にあるのが

 
 『権八延命地蔵』(鴻巣市荊原)
 白井権八は歌舞伎や浄瑠璃の作中人物で,鳥取藩士平井権八がモデルともいう。吉原の三浦矢の遊女小紫との情話や,侠客幡随院長兵衛との出会いなどでおなじみの人物。平井(歌舞伎では白井)権八が江戸へ向かう途中,路銀に困りこの地蔵の前で上州の絹商人を殺害し300両を奪い,地蔵に「今のことを他言するな」と口封じをしたところ地蔵が「己れは言はぬが汝も言うな」と口をきいたという。そこから別名「物言い地蔵」とも呼ばれている。銘文によれば1698年に建てられているが,権八はその前に処刑されている。権八地蔵は鴻巣宿の勝願寺に一体とこの先の熊谷堤下にも一体あり都合三体あるという。
 往時,この辺りは大変寂しい所で人家も無くとても物騒な場所として恐れられていたという。 


 『久下(くげ)の長土手』(熊谷土手とも呼ばれる)(熊谷市久下)

 
広大な荒川河川敷
この辺りがわが国の河川で一番幅の広い場所。
14:30 土手の上に出る,中山道はここから熊谷市久下となりしばらく(およそ2km弱)堤防上を行く。
左手はるか彼方に比企丘陵,冬場晴天の日には,富士山はもとより秩父の山々や雪をいただく南ア連峰も見える景勝の地であろう。右手土手の下が元荒川の小さな流れ。セッカとヨシキリの騒がしいさえずりを聴きながら曇天とはいえ厳しい暑さのなか,ひたすら歩く。今日の目的地熊谷市街がはるか彼方にボヤッと霞んで見える。この土手は鉢形城主の北条氏邦が荒川(”荒川の西遷”前のことなので年代的には,当然ながら現在の元荒川ということになる)の氾濫に備えて天正2年(1574)に築いたとされる。



 『久下の一里塚』(熊谷市久下)
   およそ1kmほど行った土手の中段に『決壊の碑』がある。
昭和22年(1947)のカスリーン台風で堤防が決壊し,行田,鴻巣,桶川,上尾一帯を襲い,同じく決壊した利根川の氾濫水と岩槻辺りで合流し東京の下町まで達する大洪水が発生した。東海道沖から房総半島南端をかすめて北東進した台風は,中心付近が風速20mと風による被害は少なかったものの,停滞する前線による雨がこの台風で刺激されて豪雨となり,関東地方から東北,北海道に被害を与える。とくに関東西部と北部山地では記録的な豪雨となり,荒川はこの久下で,利根川は栗橋付近で堤防が切れ,おもに江戸川に濁流となって流れ込んだ。このため埼玉と東京の低地は大水害に見舞われ行方不明者は1910人にのぼった。洪水が完全に引いたのはそれから1ヵ月後,敗戦の痛手から立ち上がろうとしていた日本に大きな打撃を与えた。
 土手上には東京湾から71kmの標識が立つ。

 決壊の碑から数分先,土手下に大きな細長いマンションが立ち並び右手にJR高崎線行田駅舎が見える。
土手の中段に小さな鳥居,藪を漕ぎながらそこに至ると,案内板があって,江戸より十四里目,日本橋から15番目の一里塚跡とある。さらにその先50mばかりの所に天保14年と刻まれた馬頭観世尊石柱がある。
 荒川は何回にも渡り河川改修が行われ,近年には,耐震性を強くしたスーパー堤防も施工されたりして,実際の中山道がどこを通っていたかはっきりしないが,当時の荒川の土手沿いを熊谷宿に向かっていたことは間違いないという。


 さらに1kmほど進んで,(15:05)土手を下りる。左手に大きな石碑が立つ。明治45年建立の「久下堤碑」である。荒川の西遷から堤は何度も決壊したが,官民挙げてて堤の修復につとめ、無事完成することができたことを記念した石碑である。
 ”荒川の西遷”:寛永6年(1629),関東郡代三代目伊奈忠治の時,荒川を久下付近で締め切り和田川吉野川水系・入間川水系に流し込むいわゆる荒川の瀬替えが行われた。この工事の一番の狙いは洪水対策にあったことは確かだが,行田の忍城一帯に広がる水田確保,舟運整備や久下の宿のある中山道を洪水から守るもくてきもあったと思われる。

中山道は久下集落に入って行く。
 途中,久下公民館前広場の片隅に往時の様子を描いた久下新川村の説明板が立っている。久下新川村は,現在は荒川左岸の河川敷一帯にあった村らしい。江戸時代の荒川の瀬替えで舟運が盛んになると荒川の中間点にあった新川村は河岸の村として栄え大賑わいした。問屋が店を構え商人や農民も集まる,回船問屋のまわりには茶店が出来床屋から芝居小屋まで出来た,河岸には60石から5石までおよそ60隻もの船が舫い,穀物が江戸に送られ,帰りには塩・油・乾物などが運ばれてきた。江戸から明治にかけて繁盛した村は,明治16年高崎線の開通により急速に衰微していったという。川越と江戸を結ぶ川越夜船で知られた新河岸が東上線の開通によって一気に衰えたのと同じであろう。村では養蚕に切り替えたものの,昭和15年の大洪水,22年のカスリーン台風と打撃を受け続け,鮎・寒鮒などの川漁も姿を消し昭和46年,ついに370年続いた村の歴史を閉じたという。今堤防の上に立っても,帆船が頻繁に行き来し商人・人足・村人で賑わった昔日の姿を想像することは全く出来ない。

 久下は昔この辺では狐を「おとか」と呼び,蚕の季節に狐の嫁入りを見た人もいたと記されている。久下は鎌倉時代には熊谷直実の叔父の久下氏の領地で館もあった。
昔は鍛冶屋が多いところだったという。

 土手を降りてからおよそ400m,右手久下小学校の隣にあるのが


『久下神社』(熊谷市久下828)
 久下神社は久下村の鎮守。
歴史は古い。 将軍 源頼朝の前で隣接する熊谷直実と領地争いをした久下直光が勧進した。もとは,熊久伊奈利社といったが,明治時代に付近にあった神明社・雷電社・八坂神社等の10社を合祀。更に大正時代に14社を合祀して久下神社となる。

 
  ここで,小休憩。
そこかしこに中山道らしさを残す久下集落を10分ほど進み,荒川に架けられた新しい橋
「新久下橋」に通じる県道高架下をくぐり更に600mほど,左手の道を辿ると土手の手前に

 『権八地蔵』(熊谷市下久下2342)
 元禄11年(1698)火防ぎの為に造立。元禄11年に造られた等身大の大きなお地蔵様である。吹上の権八地蔵と本家争いがあったという「久下の権八地蔵」として知られる。
平井権八の伝説が伝わっているが,平井権八は延享7年(1679)鈴ケ森で処刑されている。

 再び荒川の土手に上ると,「 久下渡し、冠水橋跡 」 石碑と説明板が立つ。
 
 『冠水橋跡』(熊谷市久下)
 つい5年前まで存在していたとは寡聞にして知らなかった,残念ざんねん!取り壊される前に見ておきたかった。
 幅2.7m,長さ282.4m制限重量3t,中央部99.4m区間に幅4.5mの待避所あり。人,自転車それに車も通ったので通行は譲り合い,思いやり橋とも言われた。4種類の不揃いな44本の橋脚がムカデを連想させる。(右写真は説明板より)
 昭和30年,県道冑山・熊谷線として大里と久下を結んで架設され48年間地元の生活道路として利用されてきたが,平成15年6月新久下橋が約500m下流に完成しその役目を終えた。今は跡形も無い。
 何も取り壊さなくてもよいものを!
 歴史遺産として観光用に残しておいて貰いたかったなあ~。


 引き返して土手を下りもとの中山道に戻る。

 『みかりや跡』(熊谷市下久下1289)
 荒川の土手を背にして右手にブロック塀の家があり,茶屋みかりや跡の説明板がある。
『みかりやは、旅人を相手にした茶屋で, 「 しがらぎごぼうと久下ゆべし 」 と、いうことばがあるように柚餅子が名物だった。 忍藩の殿様が鷹狩りをすると,ここで休んだので,御狩屋と呼ばれた・・・・・・ 』と書かれてある。 

 左手に国土交通省荒川上流河川事務所熊谷支所を過ぎておよそ600m進む。左折して100mほどで荒川土手を背にして建つ東竹院へ。

 『東竹院』 (熊谷市久下1834)
 曹洞宗。久下久光が創建。境内に久下一族の墓がある。寺紋に久下氏の紋である「一番文字」が付いている。
荒川の洪水で流れてきたという達磨石がある。三百数十年前、秩父山中から筏に乗せて運ぶ途中で荒川に転落。大正14年 偶然にも東竹院前で発見されたという。


 中山道に戻り再び熊谷方面へ,およそ500m,一旦右折して元荒川通りを渡り,元荒川に架かる小さな橋に至る。

『旧熊久橋』 (熊谷市久下3048付近)
 なんの変哲も無いちっちゃな橋である。この辺りが久下直光と熊谷直実との所領争いの原因となった境界線だと言う。鎌倉武士は所領に命を懸けたので「一所懸命」の言葉が生まれた。熊谷の”熊”と久下の”久”を並べて”熊久橋”と名付けられた。中山道を下ってきて富士山が左側に見える場所のひとつとしても知られている。

『元荒川の清流とムサシトミヨ』 (鴻巣市久下)
 荒川は,江戸時代(寛永6年(1629)関東郡代三代目伊奈忠治がにこの地区で流れを付け替えられ(いわゆる”荒川の西遷”)それまで東に流れていた川は 小さくなって元荒川となった。現在,元荒川の最上流に埼玉県水産試験場熊谷支場があり,大量の地下水が元荒川に流れ込んでおり清冽な水が枯れることなく常時流れ,水草が繁り天然記念物「ムサシトミヨ」が棲息している。

 元荒川と別れ,およそ600m,右手に曙町公園。その熊谷寄りの角に一里塚の説明板がある。

 『八丁一里塚』 (熊谷市曙町4)
 この一里塚は日本橋から16番目,64kmの地点 。
ここで最後の休憩。公園の水飲み場で喉を潤しかつ空になったペットボトルに水を補給し,まもなく残り1kmでゴールとなる熊谷駅まで頑張ろうと出発。


 熊谷の町は,7月20~22日に開催される「うちわ祭り」の準備でざわざわと騒がしい。
うちわ祭りは京都祇園祭の流れを汲む,1830年ごろから一層賑やかになったという伝統ある熊谷の夏祭りである。(左写真はポスターをパチリ)
(16:45) 熊谷駅で解散。カンカン照りで無かったのが幸いであったが,蒸し暑いなか長躯18kmの歩きでいささか疲労困憊の一日であった。人身事故で遅れが出ている電車を待つ間,ホームでまたまたミネラルウォーターを買って飲み干す。
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